梓の非日常/第九章・生命科学研究所(六)火災発生
2021.04.20

梓の非日常/終章・生命科学研究所


(六)火災発生

 さらに数週間が過ぎ去っていた。
 定期的に研究所を訪れては、自分の意識の内に秘めるイメージの本体ともいうべき長岡浩二と面会していた。
 すでに事故から三年以上も経ち、梓の記憶の片隅に埋もれてしまいがちな浩二という意識も、梓として暮らすうちにすっかり他人という感じになっている。

 あたしは浩二ではない、正真正銘の真条寺梓よ。

 その意識は確たるものになっていた。
 真条寺梓としてのはっきりとした記憶があるのだから当然だろう。
 それでもなお、浩二に固執するのは、その意識体を移植されたことと、命を救ってくれた恩人であるという理由である。
「できれば助けてあげたい」
 そのためにはどんな助力もしてあげよう。
 そう思うのは当然であろう。

 その頃、研究所の外では、自動二輪に跨り、今日も日参している慎二がいた。
「なにが悲しゅうて、でば亀みたいなこと……」
 言いつつ研究所の玄関を見つめる慎二。
 研究所には入れないから、じっと出てくるのを待つしかなかった。
 それにしても……。
 慎二は考えあぐんでいた。
 もちろん長岡浩二、その人のことである。
 梓にとっては命の恩人、そして慎二自身の憧れの人だった相手だ。
 もし生き返ることがあったとしたら、慎二には敵いようがないのは必然だった。
 これまで研究員が一人で細々と研究していたことも、真条寺家の総力をあげれば、蘇生も可能になるかも知れない。
「梓はどうするつもりかな……」
 新たなるライバルの出現の予感に頭を抱えていた。

 もう一人の絵利香は、自室にて机に向かって勉強中であった。
 ふと、窓辺に視線を移して思いをはせる。
「今日も浩二君とこに行っている……。命の恩人ということで、気になることは判るけどね。それよりも脳意識を移植されたことで、神経質になっているみたい。わたしの目から見ても、正真正銘の梓ちゃんであることに変わらないのにね」

 研究室。
 冷凍睡眠カプセルに眠る浩二を見つめる梓。
「絵利香がいうように、いくら意識を移植されたとはいえ、この人とは赤の他人に他ならないけど……。でも放ってはおけないのよね……どうしても他人には思えない」

 そんな梓を物陰から見つめている怪しげな人物がいた。
 なにやら灯油缶に入った液体を床に流していたが、やおら紙切れにライターで火を着けると床に放り投げた。
 するとボーッという音と共に液体が燃え上がった。そしてまたたくまに床全体を炎が包む。
 炎は天井にまで舞い上がり、火災報知機を作動させた。
 室内に鳴り響く警報音。
「なに?」
 そのけたたましい警報音に振り向く梓。
 入ってきたドア付近が炎に包まれていた。
 多種多様な化学物質の存在する研究室。引火性のある薬品が次々と燃え上がっていた。
「こ、これは!」
 驚愕の梓。
 その顔は燃え上がる炎に照らされて、真っ赤に紅潮しているように見えた。


 火災報知の警報は、地上の人々を驚愕させていた。
「火事か!」
「火元はどこ?」
 右往左往しながら、事態の収拾にあたる所員たち。
「地下研究施設のもよう」
 事務室の一角に設けられた火災受信機を調べて報告する所員。
「火元へ急げ!」
「消火器を集めろ」
 消火器や消火用バケツを携えた所員が地下への階段に集まる。
 もうもうと立ち上ってくる煙に、降りていくことをためらわせていた。
「スプリンクラーは作動しているのか?」
「わかりません!」

 一方、所内を揺るがす警報音は、外にいた慎二の耳にも届いていた。
「な、なんだ?」
 やがて開いた窓から煙が出始めたのを確認して、
「火事か!」
 地下の研究室には梓がいるはずだ。
 そして次の行動に移していた。
「梓ちゃんは大丈夫なのか?」
 跨っていた自動二輪から降りると、猛然と玄関に向かって走り出した。

「課長! 下には梓お嬢様がいらっしゃいます!」
 受付嬢の一人が、甲高い悲鳴のような声を出して言った。
「なんだと、それは本当か?」
「はい。間違いありません」
 地下からハンカチを口に当てながら登ってくる研究員達。
 その研究員を呼び止めて質問する課長。
「おい! 梓お嬢様を見なかったか?」
「見ない。自分が逃げ出すのでやっとだよ。他人をかまってる暇なんかない」
「ど、どういたしましょう……?」
 階下から舞い上がってくる煙に恐怖心を露にする受付嬢
「だめだ! 何の装備もなしに地下へ降りるのは、死に急ぐことになる。火はなくとも有害な煙を吸えば意識喪失して二次遭難になる。消防が到着するのを待つしかない」
 
 そこへ慎二がやってきた。
「おい。梓ちゃんは?」
「何だ、君は?」
 部外者の慎二にたいし、明らかに不審の目で尋ねる課長。
「あ、この人。お嬢様のお友達でいらっしゃいます」
 受付嬢が答えた。
「どうでもいいだろ。梓ちゃんはどこだ?」
「わからん。下にいるかも知れないが、確認は取れていない……」
「確認だと? ならどうして確認に行かないんだ」
「この状態が判らないのか? 今、降りて行ったら死ぬだけだぞ」
「しかし、下にいるかも知れないのだろう。確かに梓ちゃんは、中に入っていった。それが出てきていない以上、下にいるはずだろう」
「だが二次遭難だけは避けなきゃならん! 責任者として行かせるわけにはいかん!」
「そんなこと言ってるうちに火が回っちゃうじゃないか」
「しかし!」
「ええい。聞いちゃおれん!」
 言うが早いか、消火用バケツを持っていた所員を見つけると、それを奪い取って頭から水を被った。
「お、おい。君!」
 その意図を察して、止めに入る課長。
「どけよ」
 凄みを利かせて課長を睨む慎二。
「ど、どうなっても知らんぞ」
 その形相に後ずさりしながらも念を入れる課長。
 大きく息を吸い込んで、気を入れてから、
「よっしゃあ!」
 怒涛のように階段を駆け下りていく慎二。
 そこは目の前一寸すら見えない煙だらけの世界だった。
 さすがに咳き込みながら唸るように言った。
「何も見えんぞ!」
 しかし野生の勘に冴えた頭脳は、一度通った道を覚えていた。記憶の糸をたぐりながら目的の研究室へと急ぐ慎二だった。

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