特務捜査官レディー(三十七・最終回)事件解決
2021.08.10

特務捜査官レディー
(響子そして/サイドストーリー)


(三十七)事件解決

 その書類には、磯部氏が響子さんの母親に分け与えた土地・家屋の譲渡に関する資
料や、その資産を不動産会社に転売された金の流れが記されていた。
 内容を要約すると、それらの資産は覚醒剤で精神薄弱となった母親から実印や印鑑
登録証を取り上げて、売人の所属する暴力団が経営する不動産会社のものとなり、そ
こから健児の経営する不動産会社へと巧妙に分割譲渡されたというものだった。
 遺産を横取りした明白な事実を証明する書類を見せ付けられて体を震わせている健
児。
「どうした健児、寒いのか? それとも脅えているのか」
「くそっ!」
 健児が鞄を開いて何かを取り出した。それが何かすぐに判った。
 拳銃だ。銃口は磯部氏を狙っている。
 やはり拳銃を持っていたか!
「おじいちゃん、危ない!」
 響子さんがとっさに祖父の前に立ちふさがった。
「響子! どけ!」
 磯部氏が響子さんを押しのけようとするが、響子さんは動かなかった。
 パン、パン、ズキューン。
 数発の銃声が鳴り響いた。

 もちろんその銃声の一つは、わたしが撃ったものである。
 スカートの中、ガーターベルトに挟んでいた、レミントンダブルデリンジャーを素
早く取り出して、健児の手にある拳銃を弾き飛ばしたのである。
 続けざまに発射されたのが、敬の愛用のS&WーM29(44口径)からで、健児
の腕を貫いていた。
 そして健児の発射した弾は、間一髪響子さんの肩口をかすめていた。わたしの撃っ
た銃弾で銃口がそれたからだ。

 銃声と同時に男性制服警官がなだれ込んでくる。
 遺言状公開で親族全員が揃ったのを見届けてから、屋敷内に突入して大広間を完全
包囲するように打ち合わせしていたのだ。
 健児を確保して安全が確認されるまでは、女性警察官には待機しているように命じ
てある。
 当然の処置である。女性には危険な任務には従事させることができない。

「医者だ! 医者を呼べ!」
 磯部氏が叫んでいる。
 拳銃を構えていた敬が、用心しながら健児に近づいて行く。
 健児が身動きできないように確保して、拳銃を納め、代わりに手帳を取り出して、
「警察だ! 覚醒剤取締法違反容疑、ならびに銃砲刀剣類所持等取締法違反と傷害及
び殺人未遂の現行犯で逮捕する」
 と手錠を掛けた。
 健児を引っ立てて行く敬が話し掛けてくる。
「俺は、こいつを連れて行く。マキは後処理を頼む」
「わかったわ、ケイ。しかし、こいつ馬鹿じゃないの。日本人の体格で50口径の拳
銃が扱えると思ったのかしら。その銃の重さや反動でまともに標的に当てられないの
に」
「ああ、しかもデザートイーグルは頻繁にジャミング起こすんだよな。50AEは判
らんが俺の所にある44Magは、リコイル・スプリングリングやらファイヤリングピ
ン、エキストラクターやらがすぐ破損する。とにかくコレクションマニアは、何考え
ているかわからん。とにかく破壊力のあるガンが欲しかったんだろ。こいつの家にガ
サ入れに向かっている班が、今頃大量の武器弾薬を押収している頃だろう」
 床に健児の撃った、デザートイーグル50口径が転がっていた。
 健児が落とした拳銃を、ハンカチで包んで拾い上げて、鑑識に手渡す。
 そしてわたしは、やおらあの特製の警察手帳を出して一同に見せて宣言する。
「警察です。みなさんから調書を取らせて頂きますので、このまましばらくお待ちく
ださい。現在この屋敷にいるメイドは全員、女性警察官にすり替えてありますので、
そのつもりでいてください」
 実情を知らされて納得している響子さんだった。
 メイドの全員が初顔合わせなのを不思議に思っていたようだったからだ。
「こんなものが、鞄に入ってましたよ」
 鑑識の一人が健児の持ち物を指し示した。
「注射器と……これは、覚醒剤だわ。これで奴の裏が取れたわね」
「三つの重犯罪で、無期懲役は確定ですね」
「そうね……」

 こうして、昔年の恨みともいうべき因縁の健児を逮捕に至ったのである。

 なんか……。
 もっといろいろと言いたいこともあるのだが、言葉になって出てこない。
 それだけわたし達の運命を弄んだ張本人のこと、言葉では尽くせない至極の思いが
あるからである。


 厚生省麻薬取締部と警察庁生活安全局、そして財務省税関とが合同して、警察庁の
内部に特別に設立された特務捜査課の二人。麻薬と銃器密売や売春組織を取り締まる
エージェント。
 それが沢渡敬と斎藤真樹だ。

 つい先日磯部健児の件をやっとこさ決着させて一安心の敬と真樹。
 二人が捜査に手をこまねいている間に、その人生を狂わせてしまった磯部響子のこ
とも無事に解決した。
 気を落ち着ける時間がやっと巡ってきて、安らかなひととき。
「ねえ……。しようよ」
 真樹が甘えた声で、ブラとショーツ姿で敬の身体を揺する。
 事件を解決した後はいつもそうだ。緊張から解き放されて興奮した心身を静めるた
めには一番いい方法……なんだそうだ。
「なんだ。またかよ」
「いいじゃない」
「俺は疲れてる」
 くるりと背を向けて不貞寝を決め込もうとする。
「お願いだよ。このままじゃ、眠れないよ」
 といいつつ敬の身体の上にのしかかっていく。
「一人で慰めてろよ」
「そんな冷たいこと言わないでよ。ねえ……」
「もう……しようがないやつだなあ」
「今日は安全日だから……」
 真樹が言わんとすることを理解する敬。
 しかしできたらできたで、それはそれで構わないと思う敬だった。
 結婚し子供を産み育てる平和な生活。
 真樹にはその方がいいのかも知れない。
 磯部響子の事件に関わるうちに、女の幸せとは何かを考えるようになった。
 斎藤真樹……。
 その身分は本当のものではない。とある事件にて脳死状態となったその女性のすべ
てを彼女に移植されて生まれ変わった……。かつて佐伯薫と名乗っていた性同一性障
害者で女性の心を持っていた男性。
 それが今日の斎藤真樹だ。
 せっかく命を宿し産み出す能力を授かったのだ。
 命を与えてくれた、その女性のためにも、どうあるべきか……。考える余地もない
だろう。
 斎藤真樹と佐伯薫。
 名前や戸籍は違うものの正真正銘の同一人物だ。だがすでに佐伯薫という人物は死
んだことになっている。
 あのニューヨークにおいて……。

 だが結果的には、それがゆえに真樹と敬との将来においては幸せを保証してくれる
ことになったと言えるだろう。
 磯部健児を逮捕に至ったことによって、二人の間にあったすべての垣根が取り払わ
れた。
 男と女。
 自然にある形態としていつかは結ばれるものである。
 二人の将来に幸あらんことを祈ろう。

 それから数ヵ月後。
 響子さんを含めた性転換三人娘の結婚式がとりおこなわれた。
 ウエディングドレスに身を包み、幸せそうな花嫁達。
 そんな光景を、片隅で見守る真樹がいた。
 それは、子供の頃からの夢だった。
 いつか自分も敬と結婚するんだと思い続けてきた。
 実際は果かない夢でしかなかったはずだが、運命の女神のいたずらだろうか、辛い
苦しみを乗り越えて生き続けたその果てに、夢が実現する運びとなった。
「今度は俺達の番だな」
 敬が真樹の手をそっと握り締める。
「ええ、そうね」
 その手を握り返す真樹。
 本当は男の子と知りつつも、やさしい心で女の子として扱ってくれ、生涯を共に生
きようと誓い合った敬だった。
 真樹と敬の間にはもはや一切の垣根は取り払われた。

 滞りなく結婚式は終了し、恒例の花嫁のブーケ投げとなった。
 響子さんの投げたブーケは一直線に真樹の所へと飛んでくる。
 それをジャンプして取り上げて真樹に手渡す敬。ついでに、その頬にキスをした。
 突然のことにびっくりする真樹。
「もう……いきなり、何よ」
 怒ってる。でも本気じゃない。
「何だよ、ほっぺじゃ嫌か。それなら」
 抱きしめて唇を合わせる敬。
 おお!
 公衆の面前で唇を奪われて、しばし茫然自失の真樹だったが、気を取り戻して、
 パシン!
 敬に平手うちを食らわした。
「もう! 知らない!」
 頬を真っ赤に染め、すたすたと会場を立ち去っていく。敬があわてて後を追う。
 しかし真樹は、会場出口付近でふと立ち止まり、ブーケを持った手を高く掲げて叫
んでいた。
 サンキュー!
 それは、ブーケを投げて寄こした響子に向かってである。
 声は届くはずはなかったが、響子は気づいているようだった。
「敬さんと仲良くね。今度のヒロインは真樹さん。あなたなんだから」
 響子の心からのエールは、確実に真樹に届いていた。
 そう……。
 今度はわたし達。
 敬と共に……。

 了

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11
特務捜査官レディー(三十六)遺言状公開
2021.08.09

特務捜査官レディー
(響子そして/サイドストーリー)


(三十六)遺言状公開

「ひろしは……いや、響子だったな……。響子は、私を許してくれるだろうか?」
 京一郎氏は、母親殺しに至った孫のひろしに対して、祖父として何もしてやれなかったことを後悔していた。実の娘である弘子を殺されたことと、手に掛けたのが孫のひろしということで、人間不信に陥ってしまっていたのである。
「磯部さんの気持ちは判ります。響子さんだって、自分のしたこととして反省をすれ、祖父であるあなたを恨む気持ちなどないでしょう。双方共に許しあい手を取り合えば気持ちは通じるはずです。血の繋がった肉親ですからね」
「あなたにそういってもらえると少しは気持ちも治まります。ありがとう」
「どういたしまして」
「それでは、響子を迎えに行くことにしましょう」
 ということで、磯部氏は出かけていった。

 屋敷内に残されたわたし。
「さて、わたしも屋敷内を見回ってみるか……」
 健児を迎えて、想定されるすべての懸案に対して、どう対処すべきか?
 逃走ルートはもちろんのことだが、健児のことだ拳銃を隠し持っている可能性は大である。
 銃撃戦になった場合のこと、メイドに扮した女性警察官を人質にすることもありうる。
 あらゆる面で、屋敷内での行動指針を考え直してみる。
「それにしても広いわね……」
 つまり隠れる場所がいくらでもあるということになる。
 遺言状の公開は大広間で行う予定である。
 問題はすべて大広間で決着させるのが得策である。
 事が起きて、大広間から逃げ出されては、屋敷内に不案内な捜査員や女性警察官には不利益となる。
 何とかして大広間の中で、健児をあばいて検挙するしかないだろう。
「うまくいくといいけど……」
 計画は綿密に立てられた。
 必ず健児はぼろを出すはずである。

 やがて磯部氏が響子さんを連れて戻ってきた。
 車寄せに降り立った磯部氏と響子さんの前にメイド達が全員勢ぞろいしてお出迎えする。
「お帰りなさいませ!!」
 一斉に挨拶をするメイド達。
 響子さんの後ろで、もう一人の女性がびっくりしていた。
 誰だろうか?
 予定にはない客人のようだった。
 計画に支障が出なければいいがと思い悩む。
 執事が一歩前に出る。
「お嬢さま、お帰りなさいませ」
 全員女性警察官にすり替わっているのだから、メイド達のことを響子さんが知っているわけがないが、この執事だけは顔馴染みのはずだ。
「お嬢さまだって……」
 女性が響子さんに囁いている。
「そちらの方は?」
 執事が尋ねると響子さんが答えた。
「わたしの親友の里美よ。同じ部屋で一緒のベッドに寝るから」
 そうか、例の性転換三人組の一人なのね。
 名前だけは聞いていた。
「かしこまりました」
「わたしのお部屋は?」
「はい。弘子様がお使いになられていたお部屋でございます」
 引き続き執事が受け答えしている。
 メイドには話しかける権利はなかった。
 相手から話しかけられない限り無駄口は厳禁である。
「紹介しておこう。響子専属のメイドの斎藤真樹くんだ」
 磯部氏がわたしを紹介する。
「斎藤真樹です。よろしくお願いします。ご用がございましたら、何なりとお気軽にお申しつけくださいませ」
 とメイドよろしくうやうやしく頭を下げる。
「こちらこそ、よろしく」
「響子、公開遺言状の発表は午後十時だ。ちょっとそれまでやる事があるのでな、済まぬが夕食は里美さんと二人で食べてくれ。それまで自由にしていてくれ」
「わかったわ」
 そういうと執事と一緒に奥の方に消えていった。
 他のメイド達もそれぞれの持ち場へと戻っていく。
 残されたのは響子と里美、そしてわたしの三人だけである。
「里美に、屋敷の案内するから、しばらく下がっていていいわ」
 響子がわたしに命じた。
「かしこまりました、ではごゆっくりどうぞ」
 下がっていろと言われて、それを鵜呑みにしてしまってはメイド失格である。
 わたしは響子さんの専属メイドである。
 主人の身の回りの世話をするのが仕事であり、万が一に備えていなければならない。
 目の前からは下がるが、少し離れた所から見守っていなければならなかった。
 響子さんが、里美さんを案内している間にも遠めに監視を続けることにする。

 やがて夕食も過ぎ、午後九時が近づいてとうとう遺言公開の時間となった。
 次々と到着する親類縁者たち。
 響子さんの専属であるわたしを除いた他のメイド達が出迎えに出ている。
 自分の部屋でくつろぐ響子さんと里美さん。
「ぞろぞろ集まってきたみたい」
 窓から少しカーテンを開けて覗いている響子さんと里美さんだった。
 遺言公開の場に出ない里美さんはネグリジェに着替えていた。
「お嬢さま、旦那様がお呼びでございます」
 そうこうするうちに、別のメイドが知らせにきた。
「いよいよね」
「頑張ってね。お姉さん」
 何を頑張るのかは判らないが……。
 里美さんを残して部屋を出て、響子さんを大広間へと案内する。
 わたしと別のメイドの後について、長い廊下を歩いていく。
 大広間の大きな扉の前で一旦立ち止まって、
「少々、お待ち下さいませ」
 軽く会釈してから、その扉を少しだけ開けて入って行く。
「お嬢さまを、ご案内して参りました」
「よし、通してくれ」
「かしこまりました」
 指示に従って、大きな扉をもう一人のメイドと共に両開きにしていく。


 広い部屋の真ん中に、矩形にテーブルが並べられている。
 一番奥のテーブルには磯部氏が座り、両側サイドのテーブルには親族が座っている。そして一番手前には、きっちりとしたスーツを着込んだ弁護士らしき人物が三名座っている。
 その一人は、弁護士に扮した敬だった。
 上手くやってよね。
 声にはならない声援を送る。
 まかせておけ。
 そう言っているように見えた。

 響子さんの入場で、親族達は一様に驚いていた。
 それもそのはず。
 響子さんは、母親の弘子に瓜二つだというのだから。
「弘子!」
 全員の視線が響子さんに集中している。
「そんなはずはない! 弘子は死んだ。それに年齢が違う」
「そうだ、そうだ」
 そんな声には構わず祖父が手招きをしている。
「良く来たな。響子、儂のそばにきなさい」
 テーブルを回りこむようにして、彼らのそばを通り過ぎて祖父のところまで歩いて行く。
 わたしも、しずしずと響子さんの後ろに付いていく。

 弘子じゃないとすれば、一体この女は何者だ?

 一同がそんな表情をしていた。

 やがて磯部氏が事情を説明しだした。
 目の前のこの女性が、まぎれもなく磯部ひろしであり、性転換して響子と戸籍を変更したこと。
 そして、その証拠である戸籍謄本。医師の発行した性同一性障害に関する報告書、裁判所の性別・氏名の変更を許可する決定通知書などが公開された。
「つまり男から女になったというのね」
 親族の一人が納得したように呟いた。
「そ、そんなことしたって、ひろしの相続欠格の事実は変わらないぞ。今更、出てきてもどうしようもないぞ」
 早速、健児が意義を申し立てる。
 そりゃそうだろうな。
 磯部氏の財産を狙っているのだから、新たなる相続人の登場を快く思わないだろう。
 この場に現れたのだから、なにがしかの財産が譲られるだろう事は誰にでも想像できる。
「そうよ。健児の言う通りよ」

 親族の意義申し立てとかには構わずに磯部氏は話を続ける。
「さて、この娘が儂の孫であることは、書類の通りに事実のことだ。その顔を見れば、弘子の娘であると証明してくれる。儂が言いたいのは、相続人として直系卑属はただ一人、この響子だけということだ」」
「それがどうしたというのだ」
「儂は、今この場で生前公開遺言として、この響子に財産のすべてを相続させる」
 椅子を跳ね飛ばして、四弟の健児が興奮して立ち上がった。
「馬鹿な!」
「でも健児、遺留分があるから、すべてを相続させることできないんじゃない?」
「姉さん、知らないのかい? 直系卑属の響子に遺言で全額相続させたら、俺達の遺留分はまったく無くなるんだよ。被相続人の兄弟姉妹には遺留分は認められていないんだ」
「ほんとなの?」
「そうだよ」
 さっきから、何かにつけて意義を唱え続けている、四弟の健児。
 さすがに、動揺しているわね……。
 明らかに響子さんを拒絶する態度を示している。響子さんが性転換したひろしだと紹介された時からずっとだ。
「まあ、落ち着け健児。先をつづけるぞ。では、儂の生前公開遺言状を発表する。弁護士、よろしく」
「わかりました……」
 三人並んだ中央にいた弁護士が鞄から書類入れを取り出した。
「それでは、公開遺言状を読み上げますが、これは正式には公正証書遺言となるもので、遺言者の口述を公証人が筆記し、証人二人が立ち会って署名押印したものです。
 なお、証書は縦書きになっておりますので、そのように理解してお聞きください。
 読み上げます。

 その内容は、ほとんどすべての財産を響子さんに譲り、兄弟には一人当たり金十億円という示談金的な金額を譲るというものだった。
 そして当の健児だけが、たった五百万円という額が相続されるとした。

 もちろん健児が黙っているはずがなかった。
「馬鹿な! なんで俺だけが五百万円なんだよ」
「おまえは、弘子の遺産を譲り受けているじゃないか。それを相殺したんだ」
「弘子の遺産だと? そんなもん知らん」
「ならば、もう一つの調書を見てもらおうか」
 弁護士が再び書類を配りはじめる。

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11
特務捜査官レディー(三十五)磯部京一郎
2021.08.08

特務捜査官レディー
(響子そして/サイドストーリー)


(三十五)磯部京一郎

 数年の時が過ぎ去った。
 特務捜査課の捜査員として、優秀なるパートナーである敬と共に、数々の麻薬・銃器密売組織や人身売買組織の壊滅という業績を上げて、わたし達の所属する課も警察庁の中でも確固たる地位を築き上げていた。
 相変わらずとして、若い女性と言う事で尾行や張り込みといった捜査には出してはくれないものの、女性にしか携わることのできない事件には、囮捜査官として派遣されることは少なくなかった。
 基本的に週休二日制をきっちりと取れることは、制服組女性警察官と同等であると言えた。
 五日の勤務のうち一日は、麻薬取締官として目黒庁舎に赴くことになっている。

 その一方で例の響子さんは、黒沢先生の製薬会社の名受付嬢として新たなる生活をはじめていた。
 性転換によって女性となったことによる戸籍の性別・氏名変更も滞りなく完了。
 倉本里美、渡部由香里という新たなる仲間も増えて、張りのある楽しい人生を謳歌していた。
 闇の世界にも顔が利く黒沢先生のおかげで、彼女達は平穏無事に暮らしている。

 そんなこんなで、もう心配することもないだろうと考えていた矢先だった。

 その黒沢医師から、社長室に呼ばれた。

 そこには、見知らぬ老人が同席していた。
「紹介しよう。磯部京一郎さんだ」
 磯部?
「まさか、響子さんの?」
「祖父の磯部京一郎です」
 と、深々と礼をされた。
「あ、斉藤真樹です」
 あわてて、こちらもぺこりと頭を下げる。
「真樹さんは、麻薬取締官とお伺い致しました」
 突然、わたしの職業に言及された。
「はい。その通りです」
「実は、甥の磯部健児についてご相談がございまして」
 その名前を耳にして、わたしは全身が震えるような錯覚を覚えた。

 暴力団を隠れ蓑にして、その裏で麻薬・覚醒剤の密売をしている。
 響子さんが人生を狂わされた元凶の極悪人だ。
 そして、あの生活安全局長をも影で操り、わたし達をニューヨークに飛ばして抹殺を企んだ黒幕。
 憎んでも飽き足りない、わたし達が日夜追っている張本人。

「おそらく健児についてのことはご存知かと思いますが……」
「はい。麻薬覚醒剤の密売をやってますよね」
「そうです。孫のひろし、いや今は響子でしたね。響子の人生を狂わした、殺してやりたいぐらいの奴です」
 まあ、そう思う気持ちは良く判る。
 孫と甥とを比べれば、直系子孫の孫の方が可愛いのは当然だ。所詮甥などは、兄弟の子供でしかない他人に近いものだ。
 その上、その可愛い孫を手に掛けたとなれば殺したくもなるだろう。
「その健児が再び響子を手に掛けるかも知れないのです」
 え?
 冗談じゃないわよ。
 せっかく平穏無事な幸せな暮らしを築いているというのに、再び健児の魔の手に掛かることなんて絶対に許さないから。
「どういうことですか? 詳しく説明してください」

 それはこういうことだった。
 この磯部京一郎氏は、莫大なる資産を有しているという。
 その資産を、孫の磯部ひろし、つまり性転換し戸籍の性別・氏名も女性となった現在の響子さんに、全額遺産相続させたい。
 ところが響子さんは、母親殺しという尊属殺人によって、法定相続人としての資格を剥奪されている。
 どうしても響子さんに遺産相続させたい京一郎氏は、相続人指名を響子さんとした
公正証書遺言状を作成したらしい。
 しかし自分が死んで相続が発生した時点で、相続問題で親族間に紛争が起きることを懸念した氏は、親族一同を集めて遺言状の生前公開をすることを決定した。響子さんに遺産の全額を相続させることを、親族に明言し納得させるためにである。
 しかし、京一郎氏の甥である、あの極悪人の磯部健児が、黙って指を加えているわけがない。
 響子さんが遺産相続人となれば、本来自分が遺産相続できるはずだった法定相続額の全額がなくなってしまう。被相続人の甥には遺留分は認められていないからである。
 かつて娘の弘子、つまり響子さんの母親を、覚醒剤の密売人を使って手篭めにし、その所有資産を暴力団を使って巧妙に搾取してしまったという。
 再び同じような手を使って、響子さんを謀略に掛けて陥れ、その相続した資産を独り占めにするのは目に見えている。
 何とかして健児の魔の手から響子さんを救いたい。
 そこで、日頃から面識のあった闇の世界にも顔が利く製薬会社社長にして産婦人科医師の黒沢英一郎氏に相談に来たというのだった。

「……というわけだ。真樹君、何とか協力になってあげられないか」
 命の恩人の黒沢医師に頼まれたら断れるわけがない。
 幸せに暮らしている響子さんとは関わりたくなかったけど、そうもいかなくなったらしい。
 あの健児を放っておく訳にはいかないからだ。
 奴を野放しにしていると、響子さんを手に掛けるのは間違いない。これ以上彼女を悲劇に合わせるわけにはいかない。
 奴にはそろそろ幕をひいてもらうとしよう。
「もちろんです。健児にはいろいろと世話になっていますからね。何とかして監獄送りにしたいと思っていますから」
「そう言ってくれると助かる。麻薬取締官としての君の協力が得られれば、健児を挙げることができるだろう」
「お願いいたします」
 京一郎氏が頭を下げた。


 というわけで、敬を交えて早速打ち合わせに入ることにする。
1、生前公開遺言状の発表の日に磯部健児ほか関係親族を呼び寄せること。
2、同じく磯部響子も同席させること。
3、響子の護衛として、専属メイドとして真樹があたる。
4、敬は遺言状公開の立会人の一人として列席する。
5、当日において屋敷内で勤務するメイド達を全員女性警察官にすりかえる。
6、その他必要事項……。
 響子さんにも事情を説明して、計画に加担してもらえれば完璧なのだろうが、素人さんに役回りを押し付けるわけにはいかない。それに精神的負担から挙動不審となって、健児に勘ぐられる可能性も出る。

 警察庁特務捜査課にも動いてもらうために、担当課長に報告する。
「ほう……。健児を罠に陥れようというわけか?」
 警視庁生活安全部麻薬銃器取締課から、警察庁のこの新しい課の長に異動で収まっ
た課長が頷く。
 そうだね。
 やはり馴染みの上司がいた方が上手くいくというものだ。
「健児のことですから、財産が全部響子さんに渡ると知らされれば、必ず動くはずです。以前に響子さんの母親を陥れたように、今回も卑劣な手段を講じて、何とかしてでもその財産をすべて奪い取ろうとするでしょう。そこに付け入る隙が生まれます」
「なるほどな……。しかし、上手くいくだろうか?」
「やってみなければ判らないでしょうが、何らかの行動に出るはずです。やってみる価値はあります」
「響子さんに身の危険を与えるかもしれないぞ」
「もちろん、その手筈はちゃんと打っておきます」
「その一貫として、磯部氏宅のメイドを全員女性警官にすり替えることか?」
「はい。一般市民を巻き添えにする可能性を少しでも排除しておきます」
「だが、女性警官を危険を伴う現場に派遣することは出来ないんだが……。麻薬取締官の真樹君は知らないかも知れないが、女性警察官は、駐禁取締や交通整理といった交通課勤務と決まっているのだよ。つまり交通課の協力を取り付けなければいけないということになるわけだ」
 確かに、我が国においての警察は明治の昔から断固として男社会であり、元々男女差が無かった教職とは大きく対照的にある。女性だから昇進できない、役職につけないという人事がいまだに存在し、確固として女性警察官は男性警察官のサポート役に過ぎないという考えが根強い。全国警察官中20%を占める女性警察官のうち刑事部門の職務にあるものは極めて少なく男性刑事99%に対し1%程度である。しかし、女性独自の特性を生かした職務も一部導入され、性犯罪・幼児虐待事件などへの刑事事件への捜査に積極的に女性捜査員を就かせて捜査に当たらせようとの動きも出ており今後の活躍が期待されている。警視庁としては捜査一課の内部に女性捜査員のみで構成される女性捜査班なるものが存在し、強姦事件専従班として活躍している。
 ……のだが、やはり何と言っても女性警察官といえば、交通課に尽きる。
「しかし、健児に不審を抱かせることなく磯部邸に張り込ませるには屋敷内勤務のメイドに扮装するしかありません。男性職員といえば料理人や庭師がいますが、これは厨房や庭園が職場で、屋敷内を動き回れません」
「そうだな。メイドなら部屋から部屋へと自由に行き来できるが……全員女性ということになる」
「決断してください。必ず健児は動きます。公開遺言状の発表の日に、交通課女性警察官を30名、屋敷にメイドとして配置させてください。さらにはもう一日、メイドとしての作法を覚えてもらうために、訓練日を儲けさせて頂きます」
「判った。交通課には私から協力を願い出よう」
「ありがとうございます」

 さすがに理解のある上司だった。
 例の生活安全局長とは、雲泥の差だ。
 まったく違う。

 磯部氏に遺言状の公開を健児に伝えてもらい、屋敷内に潜入させる女性警察官の手配も済んだ。
 後は決行日を待つだけとなった。

 決行日の朝。
 目覚めたわたしは、身に引き締まる思いで、敬の運転する車で磯部邸へと向かった。
「ついに来るべき時がやってきたというわけね」

 わたしと敬の身の回りに起こったすべての元凶。

 麻薬取締りで磯部健児を追っていたあの頃から、一日として忘れたことはない。
 磯部親子がその毒牙にかかって、母親は死亡し響子さんは殺人で少年刑務所へ。
 それを追求しようとしたわたしと敬は、局長の策謀でニューヨークへ飛ばされて、危うく命を奪われるところだった。
 そして、組織によって瀕死の重傷を負った命を救うために黒沢医師によって、移植手術が行われ女性へと性転換された。
 日本に帰ってからは、生活安全局長の逮捕劇である。
 
「着いたぞ」
 運転席の敬が言った。
 磯部邸の車寄せに停車する。
 玄関から幾人かのメイド服を着た女性達が出てきた。
「巡査部長、遅いじゃないですか」
 と苦情を言いつけてきたのは、交通課の女性警察官だった。
 当初の計画通りに当屋敷のメイド達に成り代わって、今日の捜査に加わっていた。
「ごめんなさい。敬がなかなか起きなくてね」
「まさか、毎日起こしてあげてるのですか?」
「まあね……」
 敬は警察の独身寮住まいだった。
 基本的に独身警察官は独身寮に入寮するのが通例であった。
 それは女性も同様であるが、真樹のように家族と同居の場合は入寮することはない。
 敬の寮は、丁度真樹の実家から警視庁への途中にあるから、ついでに寄っていくのであるが、公私共々夜更かしが多くていつも寝坊していることが多い。
「それで研修ははじめているの?」
「もちろんです」

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特務捜査官レディー(三十四)新しい生活へ
2021.08.07

特務捜査官レディー
(響子そして/サイドストーリー)


(三十四)新しい生活へ

 というわけで、とんでもない展開になってしまったが、勧誘員の情報を得て、警察と麻薬取締部が結束して、売春組織の壊滅に成功したのである。

 それから数ヶ月が過ぎ去った。
 その勧誘員は……。いや、そういう言い方はやめよう。

 彼女の名前は、榊原綾香。
 黒沢医師による性転換手術を受けて、完全なる女性として生まれ変わった。
 もちろん完全であるからには、妊娠し子供を産み育てることのできる真の女性としてである。
 黒沢産婦人科病院にて女性看護師見習いとして忙しい毎日を送りながらも、正看護師になるべく看護学校に通っている。
 おだやかな性格で、子供に対してもやさしく、入院している妊婦達からの評判も上々で、まさしく看護師となるべくして生まれてきたような仕事振りだった。
 そんな働き振りを見るにつけても、性転換を施しすべての罪を許すという、黒沢先生の決断は正しいと言えるかもしれない。
 例の薬によって、脳の意識改革が行われて、男性脳から女性脳へと再性分化が起きたと考えられている。もはや心身ともに完全に女性に生まれ変わったのである。
 彼女は性転換されることによって罰を受け、さらに看護師として人の命を守る職につくことで、罪を償っている。
 罪を憎んで人を憎まず。
 彼女はもはや一人の善良なる女性に生まれ変わったのである。

 ところで、この榊原綾香のこともそうではあるが、黒沢産婦人科病院にはもう一人、気にしなければならない患者が入院していた。

 磯部響子である。
 覚醒剤の犠牲となり、母親殺しから少年刑務所に入り、その後には暴力団の情婦として性転換して女性に生まれ変わって生活していたものの、暴力団の抗争事件から捕らえられて覚醒剤を射たれた挙句に投身自殺した、あの悲劇の女性である。
 綾香の勤務ぶりを視察した後で、話題を切り替える真樹だった。
「響子さんの具合はどうですか?」
「ああ、やっと覚醒剤を体内から除去できたよ。フラッシュバックも起きないだろう。もうしばらく様子をみたら退院だ」
 フラッシュバックとは覚醒剤特有の再燃現象と呼ばれるもので、大量に飲酒したり、心理的なストレスが契機となって、幻覚・妄想といった覚醒剤における精神異常状態が再現されるものである。
→薬物乱用防止「ダメ。ゼッタイ。」ホームページ http://www.dapc.or.jp/data/kaku/3-3.htm
「良かったですね。もし響子さんに何かあったら、一生後悔ものです」
「会っていかないのかね?」
「いえ……。わたしは麻薬取締官です。わたしの身の回りは麻薬の匂いにまみれ、麻薬に関わる人間達との抗争の毎日です。そんな世界に生きるわたしが、響子さんのそばにいればいずれ麻薬の災禍が降りかからないとも限りません。遠くから見守るだけにした方が、響子さんのためだと思います」
「そうだな……。君の言うとおりかも知れないな。君が麻薬取締官である限り、犯罪組織と関わらざるを得ない。組織に君の顔が知られることもあるだろう。そうなった時に響子君がそばにいれば身代わりにされることも起こりうるというわけだ」
「ですから、会わないほうがいいんです。これ以上、響子さんを覚醒剤の渦中に引きずり込むことは避けたいのです」
「判った」

 それから数ヶ月して、磯部響子は無事に退院し、黒沢先生の経営する製薬会社の受付嬢として就職。
 ごく普通のOLとしての平和な日々を暮らしているという。
 さすがというか、思春期以前から女性ホルモンの投与をし続けてきたおかげで、どこからみても女性にしか見えない美しい顔とプロポーションで、指折りの美人受付嬢として社内はおろか出入りする業者の間でも評判となっていた。

 そしてわたしの方にも大きな変化があった。


 その朝、麻薬取締部目黒庁舎に赴いたわたしは課長に呼ばれた。
「真樹君。非常に特殊なケースなのだが、君の警察庁への出向が決定した」
「警察庁へ出向……? どういうことですか?」
 敬をまみえて、麻薬取締官と地方警察が一致団結して、売春組織&覚醒剤密売組織を壊滅させたことと、例の生活安全局局長押収麻薬・覚醒剤横流し事件と合わせて、縦割り行政によらない新しい組織の発足が促されたというのである。
 警察庁特殊刑事部特務捜査課。
 これが新しく発足した組織名だ。
 警察庁はもとより、厚生労働省麻薬取締部・財務省税関・海上保安庁・東京都警視庁/福祉保険局/知事局治安対策本部などから、麻薬・銃器取締や売春(人身売買)取締にあたる捜査官が集められた。
「一応階級は巡査部長待遇ということになっている。君は国家公務員採用試験I種行政の資格を持つ国家公務員だから、本来ならキャリア組としての警部補からスタートしても良いはずなのだが、出向組ということで巡査部長からということになった。まあ……実情を話せば君が女性ということなんだ。警察というところは、今なお男尊女卑的な部分があって、女性の配属されるのは交通課と決まっている。そもそも警察官は初任配属先は地域課もしくは交番勤務と人事規定され、キャリアでも最初は地域課に配属されるのだが女性警官の場合は原則的に交通課なのだ。実際に危険が伴う部署、いわゆるおまわりさんと呼ばれる交番勤務などは全員男性だ。一般的な地方警察職員は地方公務員で、警視正以上になってはじめて国家公務員扱いとなる。つまり資格から言えば君は地方警察ならば警視正と同等以上ということになるのだが、いかんせん麻薬取締部と警察では、その構成員の数が一桁も二桁もまるで違う。警視正と言えば、警察庁の各警察署長や地方警察本部方面部長にも任命されようかという地位で、その配下に収まる警察職員は数千人から数万人規模にもなる。そんな地位にいくらなんでも、大学出たばかり麻薬取締官ほやほやの君が就任できるわけがない。双方の構成員と部下として動かせる人員から考えて、巡査部長待遇が順当という線で落ち着いた。
どう思うかね」
 課長の長い説明が終わった。
「巡査部長ですか……」
「不満かね?」
「いえ、そんなことはありません。巡査でも身に重過ぎるくらいです」
「まあ、そう言うな……。国家公務員がいくらなんでも平巡査待遇では、麻薬取締部の沽券(こけん)に関わるからな。これだけは譲れないというところだ。本来なら警察大学校卒同様に警部補あたりからはじめてもいいのだがな」
 警部補といえば地方警察署の課長クラスである。
 わたしとしては、別に平巡査でも構わないと思っている。
 何せ前職の時の階級は巡査だったもの。
 敬は日本に帰ってきて、研修を終えたと言う事で巡査部長に昇進したけどね。
 生死の渕を乗り越え、特殊傭兵部隊で鍛えられたんだから、それだけのお手盛りがあってもいいだろう。
 しかしわたしは……。
 何もしていない。
 先生に救われて斉藤真樹として生まれ変わって、女子大生として気楽に生活していただけだから。
 
 なんにしても、警察庁出向か……。
 元の鞘に納まるという感じがなきにしもあらずである。

「ああ、それから君の友達の沢渡君も一緒だよ」
「敬もですか?」
「ああ、何せ我々と一緒にこれまでの事件を解決してきた功労者でもあるし、組織改革を上申して新組織の発足を促した本人だからね」
 そうだったわ。
 以前からずっと、上層部に上申してきたんだったわ。
 それがやっと認められたということ。
「ところで個人的な質問なんだが……」
「何でしょうか?」
「君と彼は、随分親しいようだが」
「ええ、婚約しています」
「そうか、やっぱりね」
「何か問題でも?」
「いやなにね、結婚となると寿退社するんじゃないかと思ってね」
「大丈夫です。結婚しても、この仕事は続けます。もっとも妊娠すれば、出産・育児休暇を願い出ると思いますけど」
「そうか……。安心したよ。君みたいな優秀な職員を失うのは、局の一大損失になるからね」
「ありがとうございます。そう思って頂けていると思うと光栄です」
「まあね……」
 一般の会社なら、育児休暇を好ましく思っていない所も少なくなく、退職を勧められたり、復帰しても居場所がなくなっているということも良くあることである。
 しかしわたしの所属する麻薬取締部は厚生労働省内の一部局である。
 男女雇用均等法やら育児休暇促進委員会とかが目白押し。
 「寿退社」という慣用句で、女性を退職に追いやることは不可能だ。
「それで、警察庁へはいつから出向ということになりますか?」
「来週の月曜からだ。その日に直接その足で警察庁へ赴きたまえ」
「判りました」
「それから、新しく君に交付された警察手帳を渡しておこう」
「警察手帳ですか?」
「麻薬取締官としての身分と、警察庁職員としての身分の双方を記してある、特別誂えの手帳だ。君の今持っている警察手帳と交換してくれ」
「はい」
 わたしは、現在持っている麻薬取締官証と引き換えに、その新しい警察手帳を受け取った。
 開いてみると、最初のページは今まで通りの麻薬取締官証と同じものであった。次のページを開くと懐かしい警察手帳の図案が飛び込んできた。中身の様子は、上部には顔写真、階級、氏名、手帳番号が書かれた証票、下部には警察庁という名と、POLICEの文字が入った金色の記章(バッチ)がはめ込まれている。ちなみに大きさは縦10.8センチ、横6.9センチ。
「なるほど、巡査部長になってるわ」
「これで君は、あらゆる警察犯罪を取り締まることができるようになったわけだ。しっかり心して任にあたってくれたまえ」
「判りました」
 警察流の敬礼をしてみせるわたしだった。
 今後はそういうことも多くなるだろう。
「もちろん麻薬取締官としての自覚と任務も忘れないでくれ」
「はい」

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11
特務捜査官レディー(三十三)巨乳なる姿
2021.08.06

特務捜査官レディー
(響子そして/サイドストーリー)


(三十三)巨乳なる姿

 翌日となった。
 真樹は敬を連れて、早速黒沢医師の下へと急行していた。
「先生! あの男はどうなりました?」
「早速来たな。見てみるか?」
「もちろんです」
 というわけで、昨日の場所に向かう。
 例の産婦人科用の診察台に括り付けられたままの勧誘員はまだ目覚めていなかった。
「どれどれ、見るか」
 と、診察台に近づいて勧誘員の診察をはじめる黒沢医師だった。
「台に縛り付けたままにしていたのですか?」
「ああ、逃げられたくないからな。完全独房の覚醒剤患者用リハビリ病室というのもあるが、どうせまたこれに乗せなきゃならんから、二度手間は面倒だ」
「で、どうなんですか?」
「ふふふ。面白いことになっているよ」
 勧誘員の上着がはだけられて、胸が露出していた。
「こ、これは……」
 そこにはまさしく豊かな胸が形成されていた。
 それもFカップはありそうな巨乳サイズだ。
 普通の日本人は仰向けに寝たりすると、乳房がのっぺりと扁平状態になってしまうものだが、これはまあ……張りがあって天を向いて、豪快なくらいに山形になったドーム上の乳房を維持していた。
「あれから、豊胸手術をしたんじゃないですよね」
「本物の乳房だよ。手術なら一晩では治らない縫合痕ができるはずだろが」
「まあ……そうですが。しかし、たった一晩でこんなに大きな胸ができちゃうなんて信じられないわ。どんな薬剤なのですか?」
「私の製薬会社の新薬開発研究所の所員が開発したものでね。ハイパーエストロゲンとスーパー成長ホルモンというものが調合されている」
「どちらも女性化には必須のホルモンじゃないですか」
「まあな……。実はその研究員は、君と同じ性転換手術を行った最初の女性なんだ」
「性転換……してるのですか?」
「ああ、彼女は性転換をテーマにした新薬を開発していてね。MTFの人々の気持ちは身に沁みて感じているから、一人でも多くの患者を救いたいと、実に真剣に日夜取り組んでいるよ。で、臨床試験直前にまでこぎ着けた新薬の成果がこれだ」
 と、勧誘員を指差す。
「へえ、面白い話ですね。確かに一晩でこれだけの胸が出来ちゃうなんて、すばらしいじゃないですか。人体実験されたこの人には悪いですけど」
「天然痘の予防方法の種痘法の効果を確かめるために、当時下僕だった8才のジェームズ・フィップスという父親のいない子供(自分の子供という説は誤りであり、その効果を確認した後に自分の息子のロバートに摂取したというのが正しい)に牛痘摂取したというジェンナーのように、何事にも誰かが犠牲にならなければならない。たまたま、悪事を働いたこいつに実験台になってもらったわけだ」
 話し声や黒沢医師に胸を触れているせいか、勧誘員が目を覚ました。
「ん……ん?」
「どうかね、気分は?」
「お、おまえは!」
 一瞬として、自分の身に起きていることを理解できなかったようだが、昨日のことにすぐに気がついて叫んだ。
「俺に、一体何をしたんだ!」
「おや、気がつかないようだ。じゃあ、これならどうかな」
 と言いながら、その豊かな胸を掴んだ。
「これを見たまえ。おまえの胸だよ」
 寝てていても張りのある巨乳である。目の前にあるそれが見えないわけがない。
「こ、これは……!!」
 さすがに事態を飲み込まざるを得ないようだった。
「見事なものだろう。おまえの胸にできた本物の乳房だよ。これだけ大きな、いや巨乳というべきかな……。これだけのものはそうは見られないぞ。どうだ、嬉しいか?」
「誰が、嬉しいものか?」
「納得していないようだな」
「当たり前だ!」
「うむ……じゃあ、これならどうかな」
 というと計器を操作する。
 天井に固定されていたとある器械が、かすかな音を立てて降りてくる。
「鏡だよ。おまえの位置から、自分の姿を良く見ることができるぞ」
 やがて鏡が静止して、診察台の勧誘員の全身像を写した。
 はだけられたシャツの胸から、大きく張り出した巨乳に釘付け状態になっている勧誘員。
「さてと、これだけじゃまだ。信じられないだろう」
 というと、洋裁用の大きな鋏を取り出して、勧誘員の服を切断しはじめた。大やけどを負った患者の衣服を切り裂くために用意してあったのだろう。やけどを負うと体液で衣服が皮膚に張り付いて、衣服を脱がそうとするとべろりと皮膚まで剥がれてしまう。それを避けるために癒着していない部分を選んで切り裂いていくための鋏である。

 とにもかくにも診察台に縛り付けている者の衣服を剥ぐには切り裂くしかない。
「な、何をする!」
「鏡を見ているんだな。面白いことになっているぞ」
 やがて上半身は露になった。
 驚いたことに、その上半身は男性ではない、撫で肩の細い体格をした明らかに女性的な骨格になっていたのである。
「す、すごい!」
 真樹が思わず声を上げた。
「どうだ。どこから見ても女性にしか見えないだろう?」
「ええ、本当にあの勧誘員なのですか?」
「別人ではないよ。当の本人そのものだ」
 その本人は変わり果てた姿に茫然自失となって言葉を失っていた。
「たった一日でこれですか?」
「私もこの目で見るまでは信じられなかったよ。何せ、この薬を使ったのはこの男がはじめてだからな。一体どうなるかとね。さてと……下半身はどうなっているかな」
 黒沢医師は鼻歌交じりで、ズボンを切り裂きに掛かった。
 科学者的な探究心で目が輝いていた。
「何か今日の先生……。怖いくらいね」
 真樹が敬に小声で囁く。
「ああ、まるでマッドサイエンティストだ」
「言えてる」
 確かに、性転換に関わることとなると目つきが異常に鋭くなる黒沢医師だった。まるで自分の世界に没頭したように夢中になってしまう性格を持っていた。
「どうですか?」
 真樹が覗き込む。
「残念だが、完璧な性転換とまではいかなかったようだ」
 とその股間を指差す。
 そこには男性特有のものが残存していた。
「ありゃりゃ。可愛い♪」
 まあ、確かに男性自身であったが、子供くらいに小さくなっていたのである。
「ここまでが限界のようだ。内性器がどうなっているか調べる必要があるな」
 と勧誘員の方に振り向いて、話しかける。
「おい、呆然としてないで、そろそろ自分の現状を見つめて、今後のことを考えてみたらどうだ?」
「ど……、どうしろというのだ?」
 やっとのことで言葉を搾り出したという感じだった。
「まあ、不完全だが……おまえはもはや、今のままではまともな男としては生きられないと言う事だ」
「嘘だ!」
「どうだ。この際、この股間のものも取り去って、今すぐ完全な女性にしてやろうか? おまえが望めば今すぐにでもできるぞ」
「じょ、冗談じゃない。女になんかなりたくない」
「そうだなあ……。このまま女性にしてしまって、どっかの売春組織に売り飛ばすこともできるぞ。生きている限り抜け出せないような所がいいだろう」
「な……。や、やめてくれ!」
「これだけ、大きな乳房ならひっきりもなしに客が付くかも知れないな。もちろん、おまえにはそれを拒絶することはできない。毎日毎日、より多くの男に抱かれなければならないというわけだ。身体を壊すのもそれだけ早いと言う事だ」
「い、いやだ……」
「身体を壊して使い物にならなくなった売春婦の行き着く末は……。おまえなら知っているかも知れないが……」
 勧誘員の言葉には耳を傾けることなく、売春婦にされ残酷な日々を暮らす惨状を、たんたんと語り続ける黒沢医師だった。
「やめてくれ!」
 突然に大きな声を張り上げて黒沢医師の言葉を遮る勧誘員。
「た、たのむ。昨日も言ったように、なんでも言う事を聞く。アジトのことも話す。たのむから女にするのはやめてくれ!」
「そうか……女にはなりたくないか……。残念だな」
 というと勧誘員に微かな安堵の表情が浮かんだ。
「仕方ないな。おまえが心を入れ替えて、善人の道に入るというのなら、元の男性に戻してやることもできるのだが……」
「も、元に戻れるのか?」
 急に明るさを取り戻す勧誘員だった。
「ああ、今ならまだ間に合う。男性ホルモンを飲めば、時間は掛かるかもしれないが、元に戻ることができるだろう。しかしこのまま放って置いて時間が経てば、さらに女性化が進んで手の施しようがなくなる」
「た、頼む! 元に戻してくれ。男性ホルモンといったな。それをくれ!」
「それには条件がある! もちろんおまえの組織のアジトを吐いてもらう以外にな」
 と険しい表情に変わる黒沢医師だった。
「それは……?」
 ごくりと唾を飲み込んで黒沢医師の次なる言葉を待つ勧誘員だった。


「男性に戻る限りには、二度とあんな真似をする気が起きないように、罰を受けなければならない」
「罰だと?」
「そうだ。すぐに男に戻しては罰を与えることができない。おまえはその格好のまま一年の期限付きで奉仕活動をしてもらうことにする」
「奉仕活動だと……?」
「そうだ。奉仕だよ。それも男性相手のな」
「な、なんだって?」
「つまりゲイバーで一年間働いてもらうことにする」
「ゲ、ゲイバーだと!」
「そうだ。女装して酒飲みの男達を接待する仕事だ」
「そこを逃げ出したらどうする?」
「構わないさ。しかし、一生をそんな中途半端な姿で暮らさなければならないぞ。男でもなく女でもない、そんなおまえが生きていくには、他に仕事はないぞ」
「しかし……」
「無事に一年の勤めを果たしたら、男性に戻してやる」
「ほんとうだな」
「ああ、私は医者だ。信じることだ。というより信じるしかないのがおまえの現状だ」
 現実を突きつけられ、考えあぐねている様子の勧誘員だった。
 こんな姿に変えられてしまった今、元に戻るにはこの医者の言う事を聞くしかないだろう。
 しかし、男相手に女装して接客するゲイバーのホステスになるしかないのか?
 ある日突然に女性に性転換されてしまって、自分がなさなければならない現実を考えるとき、将来の不安に掻きたてられるのであった。

 黙ったまま考え込んでいる勧誘員のその豊かな胸を注視しながら、黒沢医師が次なる段階へと言葉の口調を変えて切り出した。
「なあ、これだけのものを持ったんだ。男に戻るより女性になった方がいいんじゃないか?」
「いやだ!」
「残念だなあ……。顔も飛び切りの美人だというのに。例え男に戻ってもたぶんその顔はそのままだろうなあ……」
「な、なに?」
「おや、まだ気が付いていなかったのかい? もう一度じっくりと自分の顔を見つめてみろよ」
 改めて鏡を見つめる勧誘員。
「こ、これは……?」
 どうやら今までは巨乳にばかり目が行っていて、顔の方には注目していなかったようだ。
「どうだ。きれいだろう? 今時、これだけの美人はいないぞ」
「う、嘘だろう。これが俺の顔だというのか?」
「正真正銘の今のおまえの顔だよ」
「し、信じられない……」

 その会話を耳にした真樹が敬に耳打ちする。
「ねえ、わたしと彼とどっちが美人かしら?」
 やはり女性としては、美人だと言われた相手が気になるようだ。
 特に男だった相手には負けられないという感情があるのだろう。
「そ、そんなこと……比べられないよ」
「あ! やっぱり彼の方が美人だと思ってるんでしょ」
「そうじゃなくて……」
「いいわよ。どうせ、わたしは整形美人だもん。ぷん!」
 と膨れ面をしてみせる真樹だった。
 そうなのだ。
 真樹の顔は確かに誰の目にも美人として映るが、黒沢医師によって死んだ女性そっくりに整形されたものだった。
 そして方や、性転換薬によって変貌した美人。
 果たしてどちらが真に美人と言えるものなのか。
 敬が答えに窮するのも当然と言えるだろう。

「信じられないだろうが、今見ている通りに現実だ。顔だけではなく、体格もまんま女性そのものだよ。ほんとに……、まさかこの薬が、ここまでほぼ完璧に女性化させるとは、私もこの目で見るまでは、とても信じられなかったよ」
「お、男にする薬はないのか?」
「ないな!」
 きっぱりと断言する黒沢医師。勧誘員の表情が暗くなる。
「この薬の開発者は、男性から女性への性転換を可能にする薬剤の研究をしてはいるが、その反対の女性から男性への薬の開発研究する意思は毛頭ないからだ。つまり……それがどういうことかというと……」
 と、ここで一旦言葉を止めて、勧誘員の身体を嘗め回すように観察する。
 勧誘員に自己判断を促しているようだった。
「つまり……なんだよ。ま、まさか……」
 おそらく自分でも結論に達しているのだろうが、認めたくない感情から尋ねずにはいられないといったところだろう。
「そう……。その、まさかだよ。おまえは、生涯その女性の身体と言う事だよ」
「嘘だろ?」
「物体というものは、大きいものを小さくするのは簡単だ。氷像みたいに削って小さくすればいいのだからな。だから筋骨隆々だった身体が、こんな風に華奢でしなやかな身体にするのも簡単というわけだ。だが、一旦小さくしてしまったものを、元の大きさにするのは不可能だ。それくらいは判るだろう?」
「い、いやだ。そんなこと……。そうだ! さっき男性ホルモンで元に戻れる言ったじゃないか。あれは嘘なのか?」
「嘘ではないが……。ここまでほぼ完全な体型に女性化してしまうと、完全な元の男性に戻ることは不可能だ。今さっき言った通りなのだが、例え男性ホルモンを飲んだとしても、骨格までは変えられないということだ。せいぜい筋肉がついてくる程度のものだ」
「も、戻れないのか?」
「ああ、戻れないな。……なあ、この際男性に戻るのはあきらめて女性になってしまわないか? 完全なる女性にしてやるぞ。もちろん手術の費用はただにしてやる。女性になったからには、これまでの罪はすべて水に流してやろうじゃないか。男性として行ってきた過去は一切無罪放免にして、女性として何不自由なく暮らしていけるように、ちゃんとした仕事も斡旋してやるぞ。だが、元の男性に戻るというのなら、しかも不完全な身体のままだ、罪を償わなければならない。どうだ? 男性に戻って罪を償うか、女性に生まれ変わって新しい人生を踏み出すか。男性といってもおかまみたいな男性にしか戻れないが、女性になればその美貌を活かしてファッションモデルにすらなれる」
 勧誘員は黙り込んでしまっていた。
 そりゃそうだろう。
 たとえ元の男性に戻っても、身体はほとんど女性並みでおかま扱いされるのは必至である。そしてどんな罪の償いをさせられるか……。この黒沢医師の性格を推し量ってみるにつけ、とんでもないような苦しい罰が待っているような気がする。
 だが、女性になることを選択すれば、この豊かな乳房と美貌で黒沢医師の言うとおりの薔薇色の人生が待っているかも知れないのだ。そして無罪放免され仕事も紹介してくれるという。
 どう考えても、答えは一つしかないじゃないか……。
 勧誘員は、じっと考え込んでいる。
 その表情を見つめ柄、にやにや笑っている黒沢医師だった。

「ねえ、先生ったら……。女性への性転換ばかりすすめているけど、元の男性に戻すつもりはないんじゃない?」
「ああ、たぶんな。先生の悪い癖がまたはじまったというところだ」
「可哀想ね。どうやら女性になるしかないみたい」
「だが、あの格好のままだとしたら、男に戻ってもなあ……。笑い種だ」
「そうね……」

「か、考えさせてくれないか」
 ついに、勧誘員が折れてきた。
 さすがに、黒沢医師の性転換薔薇色人生攻撃? を畳み掛けられては、承諾するよりないと結論に至ったようだ。
 ただもうしばらく考える時間が欲しい。
 そういうことのようだ。
「いいだろう。二日待ってやる」
「なあ、せめてこの格好から解放してくれないか?」
 勧誘員は診察台に縛られている。
 その状態で二日もいることは我慢の限界を超える。
「そうだな……」
 というと、敬の方を向いて言った。
「解くのを手伝ってくれ」
「いいですよ」
「悪いな」


 だが、解き放たれた瞬間だった。
 勧誘員が、猛然と敬に体当たりしてきた。
 隙を見計らって、脱出を試みたようだった。
 しかし……。
「い、いたた……。痛い」
 敬に簡単に腕をねじ上げられてしまった。
 勧誘員は、自分が女性の身体になっていることを、すっかり忘れていたのだ。
 その女性的な華奢な身体では、特殊傭兵部隊時代に鍛えた筋骨隆々の敬を、弾き飛ばすことすらできなかった。
 腕を取られてもそれを振りほどく腕力さえもまるでない。
 体格も筋力も、そしてその美貌をもして、勧誘員は完全なまでに女性化していた。
「どうやら、まだ自分のことが判っていないようだな。言ったろうが、おまえはもはやほぼ完全な女性になっているんだよ。あきらめるんだな」
 その言葉に、うなだれる勧誘員。
 もはや女性になるしかない状況なのだと理解したようだ。
「もう、結論は出たな」
 問いかける黒沢医師に対して、ゆっくりとうなづく勧誘員だった。
「ほ、ほんとうに……。完全な女性になれるんだろうな?」
 女性になると決めたからには、やはりまがい物ではない真の女性になりたいと願うのは当然だ。
「もちろんだ。わたしは産婦人科医だ。女性の身体の事はすべて理解しているし、性転換手術のことなら、ここにいる真樹が証明してくれる」
 と、突然に言い出した。
「な、何を言い出すんですか? 先生! そのことは……」
 さすがに慌てふためく真樹だった。
 それを知っているのは、黒沢医師と敬、そして両親の四人だけである。
 全くの他人に明かすような内容ではないだろう。
「いいじゃないか。今日からこの娘は……。そう、この娘と言おうじゃないか。私たちの仲間となるんだ。言わば真樹とこの娘は姉妹というわけだよ。秘密事はなくして、仲良くしようじゃないか」
「そんな……。勝手に決めないでください!」
「あはは、さてと……。いつまでも裸のままじゃ、可哀想だな」
 といいながら、戸棚から手提げ袋を取り出した。
「さあ、これを着なさい」
 と勧誘員に手提げ袋を手渡す。
 勧誘員がそれを開けると……。
 出てきたのは、女性用の衣料だった。
 ワンピースドレスにブラやショーツといったランジェリーも揃っていた。
 それを見た真樹が驚いたように言った。
「せ、先生! やっぱり最初から、この人を女性にするつもりだったんですね?」
「あはは……。その通りだよ。私は男は嫌いだからな、男に戻すことは端から考えていない」
 女性衣料を手渡されて勧誘員はとまどっていた。
 そりゃそうだろう。
 これまで男として生きてきたのだ。
 例え身体が女性になってしまったとはいえ、いきなり女性衣料を着るには勇気がいるだろう。
「成り行きでこういうことになってしまったが、判るな?」
 と念を押す黒沢医師だった。

 少し考える風だったが、やがてゆっくりとその衣料に手を伸ばす勧誘員だった。
 黒沢医師は、最初から性転換するつもりだった。
 だが、それを知ったところで、今更どうすることもできない。
 男には戻れない。
 黒沢医師にその意思がない以上、これは確定的だ。
 一生をこのまま女性として生きていくしかない。
 ならば、この目の前にある女性衣料……。
 着るしかないじゃないか。
 ブラジャーを手にした勧誘員だったが……。
「どうやって付けるんだ? これ?」
 というような困った表情をしていた。


「真樹、着方を教えてやってくれ」
「ええ? わたしが?」
「他に誰がいる。彼女は、ブラジャーなんかしたことないんだ。正しい付け方を教えてやらないと、せっかくの形よい乳房が型崩れしてしまうじゃないか」
 そう……。ブラジャーは正しい付け方というものがある。
 それを知っているのは真樹だけだ。
「でも、先生だって正しい付け方があることを知ってるくらいだし、産婦人科医として診察の際に、多くの女性の着衣を見てきたんでしょうから、付け方ぐらいは知っているんじゃないですか?」
「あのなあ……。ただ見ていただけじゃないか、実際に身に付けている女性でないと、良く判らないことがあるだろう」
「そりゃそうだけど……」
 そんなわけで、ブラジャーの正しい身に着け方をレクチャーすることになった真樹だった。
「あのね、ブラジャーの付け方は……こうやってね……」
 勧誘員のそばに寄って、手取り足取り教える真樹。
「はい! これでいいわ。しっかり覚えておいてね。あなたみたいに、これだけ大きな乳房だと、しっかりカップに入れて正しく付けておかないと、先生のおっしゃったように型崩れしていわゆる垂れパイになっちゃうからね」
「はい。判りました」
 生まれてはじめてのブラジャーを身に着けた勧誘員は、すっかりしおらしくなっていた。
 女性になると覚悟した以上、おとなしく言う事を聞くしかないと判断したのであろう。
 それ以上に女性のランジェリーを身に着けたと言う事が、何にもまして女性としての気概を植えつけてしまったと言ってもよい。女性だけが身につけることを許されたランジェリーの持つ魔性ともいうべきものである。
 それからその他の服をもすべて身に付けてすっかり女性的な外観に変わってしまっていた。
 もはやどこから見ても立派な美しい女性にしか見えない。
「ところで先生、こんな大きなカップのブラジャーなんか、どうして用意できたんです?」
「なあに、簡単だよ。ここは産婦人科だ。はじめての出産を経験する初妊婦は、分娩の後に授乳が始まるのは予備知識で知っていても、いざ乳が張ってきて予想外に大きくなって、用意してきたブラが入らなくて困るということが良くあるんだ。だから購買部でそんな人のために大きなサイズのブラジャーを置いてあるんだ。もちろん授乳専用の前部が開くやつがほとんどなのだが、普通のやつもある。それを持ってきたのさ」
「なるほどね……」
「あの……。真樹さんと言いましたね」
「え、ええ」
「教えてくれませんか。女性のこと……何も知らないから」
 話しかけられてとまどう真樹。
「え? 突然そんなこと言われても……。ねえ、敬」
「あのなあ……。こっちに話しを振るなよ。これはおまえとこの人の問題だろ」
「だって……」
「俺は、思うんだけどさあ……」
 と何か言いかけて口を噤む敬。
「なに、言って? 考えがあるんでしょう?」
 真樹は何事かと聞き出そうとする。
「この人は、女性に性転換されてしまったことで、もう罪に対する罰は十分に受けたと思うんだ。先生も言ったように、これからは新しい人生をはじめることになる。生まれ変わってね」
「それで?」
「しかし女性としての経験はまるでないだろう? 社会に出て女性として生きていくには最低限の知識は必要だ。衣服の着こなしはもちろんのこと、化粧とかも必要だろう。それを教えられるのは真樹しかいないんじゃないか?」
「そうかも知れないけどさあ……」
「教えてやれよ。真樹なら、この人の気持ちは良く判ると思う。違うか?」
 真樹が元々は男性であり、性転換して女性になったことを示唆しているのだった。
 同じ境遇である真樹にしか、その気持ちは判らない。
 他に誰が、この性転換女性を正しい道に導けるものがいるだろうか?
「もう……。判ったわよ。教えてあげればいいんでしょう」
 致し方なく承諾する真樹だった。
「あ、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします」
 深々と頭を下げる勧誘員だった。
 その仕草も態度もすっかり女性的な雰囲気があった。
 郷に入れば郷に従えだ。
 女性として生きることを決心したことが、その態度をすっかりと変えてしまったのである。
 あるいは性転換薬が、身体だけではなく精神構造をも、純朴な女性的な性格にしたに違いない。

「それじゃあ、性転換手術をする日は後で決めるとして、早速例の組織のことを教えてくれないか」
 黒沢医師が本題に話題転換した。
 囮捜査のことも何もかも、すべては売春組織を探し出し壊滅することだった。
 その情報を知っているのは、この勧誘員である。
 そのためにこそ、黒沢医師は性転換を実施し、言葉巧みに仲間に組み入れたのである。
「はい。何もかもすべて話します」
 すでに勧誘員はこちら側の人間である。
 それから売春組織のアジトはもちろんのこと、勧誘員の知りうる幹部達のことなど、洗いざらいの情報を話し始めたのである。
 黒沢医師の目論見大成功である。

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