梓の非日常/第二部 第八章 小笠原諸島事件(四)出航
2021.02.12

梓の非日常 第二部 第八章・小笠原諸島事件


(四)出航


 出航の時間となった。
 昔は出航のセレモニーがあり、ドラが鳴らされたり、紙テープの乱舞があったものだが、最近では時刻がくると静かに出港するようだ。
 岸壁を離れてゆく絵利香号。
 乗客にとっては、胸躍る瞬間でもある。
「なあ、船尾に回れないか?」
 慎二が尋ねてくる。
「何しに行くのよ」
「そりゃ、スクリューが回って渦ができるところを見たいじゃないか。船が出発したんだなという情感に浸れるだろ?」
「気持ちは分かるけど、駄目ね」
「なんでだよ」
「貸し切りフロアからは出られないのよ」
「そこを何とか……」
「あなた、ドレスコードとか知らないでしょ?」
「ドレス……?なんだよ、それ。制服のことか?」
「知らないなら、無理ね。諦めなさい」
「中高生の制服は、冠婚葬祭でも着用できるから、どこでも出られるよな」
「制服は正式礼服だけどね」
「というわけで……何とか」
「無理よ。あたし達は特別招待客で一般客とは違うんだから。それにこの船は米国籍で、あの境から向こうはアメリカ領土なの。Do you understand?」
「じゃあ、今いる場所はなんだよ?」
「まあ、特別に許可された日本国飛び地よ。大使館と同じ治外法権なの。というわけで諦めてね」
 無碍もなく拒絶する。
「だいたい最近のクルーズ船は、電気制御のポッド型プロペラ(Azimuth thruster)使ってるから、そんなに泡立たないし」
「電気? ディーゼルエンジンじゃないのかよ?」
「ディーゼルで電気を起こして、それでプロペラを回すのよ。扇風機と言えば分かるかな、左右に転回するときも、ポッドを回転させるだけでいいから、余計な舵が必要なくて、それだけ振動とかも少なく速度を上げられる」
「水中で扇風機を回しているのか? 曲がるときには首振りするのだな」
「言いえて妙だけど、その通りよ」
 あまり理解できない様子の慎二。
「とにかく船尾には行けないのだな?」
「その通り」
「わかった……」
 ぶつぶつと言いながらも諦める慎二だった。
「ところで、さっきからずっと船の前を邪魔するように進んでいる船があるんだが、なんだあれは?」
 梓が、言われた方向を見ると、紅白の吹き流しをなびかせながら進行する船があった。
「ああ、エスコート船よ。水先案内人とか聞いたことあるでしょ」
「なんとなく」
「東京湾は一日の船の通行量が半端ないから、衝突や座礁事故とか起きないように、周囲の船の監視をしながら先導してくれる船よ。湾内から浦賀水道を抜け出すまでの間ね。東京汽船とか新日本海洋社とか、エスコート業務の許可を受けたタグボート会社が行ってるわ」
 エスコート船には、『AB34C-・1-3海〇〇〇』というような、海上保安庁指定の許可表示板の据え付けが義務付けられている。頭から、Aは進路警戒船、B34は消防設備、Cは側方警戒船、・1は浦賀水道、最後は第3管区保安部そして交付番号である。
 ちなみに東京湾に入港する長さ50m以上の船舶は、中ノ瀬(なかのぜ)航路を通ることが義務付けられている。


「面倒なんだな……」
「船の運航には、人命を守るためのいろいろな決まりごとがあるのよ。例えば船同士が衝突コースを取りそうな時は、『相手の船を右に見る船は、相手の船の進路を避ける』『正面衝突の危険ある時は、双方が右に舵を切る「右側通行の原則」』とかね」
 右側通行の原則も、岸壁に左舷側で着岸するのと同じ理屈。

 そうこうするうちに、外海に出る。

「あれれ? スマホが圏外だよ」
 と嘆いている者が続出した。
「当たり前だよ。基地局から離れた海上なんだから」
 早速、鶴田委員長が絵利香に打診する。
「船内 Wi-Fi とかないのですか?」
「あることはあるけど、30分1,000円か、もしくはクルーズ中使い放題プランで1日5,000円になるわ」
「そんなに高いの?」
「通信衛星電波を使うからね。ほとんどのクルーズ船の料金はそんなものよ」
 嘆いているクラスメートを横目に、
「ふうん……そうなんだ」
 と、自分のスマホをいじりながら、意外な顔をしている梓だった。
 梓のスマホは圏外にはなっておらず、正常にインターネット接続できる。
 なぜなら、梓は自己所有の通信衛星があり、スマホには専用回線衛星電波を使えるから。
 スマホのデザリング機能を使えば、みんなに Wi-Fi 環境を与えられるが、機器にはうとい梓なので思いつかない。

 ◇◇ 冒頭シーンに戻る。 ◇◇

 貸し切りなので、プールサイドには、生徒達しかいない。
 気兼ねなく泳ぎ回っている。
「今回の旅、本当にありがとうございました。絵利香さん」
 鶴田が丁寧に頭を下げて礼を述べる。
「気にしなくていいわよ。あなたも余計な事しないで、旅を楽しむといいわよ」
「そうそう。幹事だからといって、自分を束縛しちゃだめ! 自由になりなさいね」
 添乗ガイドがやってきた。
「絵利香様、ちょっとよろしいですか? 明日の行動予定のお話があります」
「分かりました。あそこのピーチパラソルのあるテーブルの所で聞きましょう」
「僕もご一緒して伺っていいですか?」
「そうね。構わないわ。梓ちゃんはどうする?」
「あたしは、もう少しここにいるわ」
 梓を残して、三人はピーチパラソルの方へと歩いてゆく。

 絵利香はいわぱスポンサーなので、その意向を無視することができない。
「今夜は船中泊となりますが、明日はフリータイムで船旅を満喫していただきます。鳥島と孀婦岩(そうふがん)を周遊します」
「父島に到着するのは、明後日の何時ごろかしら?」
「午前六時に到着です」
「天候の方はどうかしら?」
「大丈夫です。この先、一週間は好天が続く予報が出ております」

 
 日が暮れて、就寝の時間となった。

 旅館に泊まる修学旅行なら、定番の枕投げがはじまるところだろうが、クルーズ船で各二人部屋なので、それはできない。

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