梓の非日常/第七章・正しい預金の降ろしかた(五)テニス?
2021.03.28

梓の非日常/第七章・正しい預金の降ろしかた


(五)テニス?

 女子クラブ棟、女子テニス部部室兼更衣室。
 空手の稽古を終えて、制服に着替えている梓。
 主将の木杉陽子が梓に話し掛けている。
「え? 新人対抗試合?」
「そうなのよ。一・二年生を対象にした試合でね。来週の土曜日が試合だからね」
「来週の土曜日?」
「で、いつから練習に参加する?」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。試合とか練習とか、意味がわからないんですけど」
「だからテニス部の練習よ。テニス部入ってくれたんでしょ?」
「いつからそういう話しができちゃったんですか?」
「あら、幸田先生から聞いてないんだ?」
「聞いてません!」
「そっかあ……。幸田先生の音楽部に横取りされちゃったけど、あたし達の方が先に予約してたのよ。覚えているわよね」
「ええ、まあ。そうだけど……」
「当然、あたし達にも権利があるわよ」
「何の権利ですか?」
「もちろん女子テニス部に入ってもらうわよ。幸田先生の許可も貰ってるし」
「どうして幸田先生の許可がいるんですか」
「あら、知らなかった? 幸田先生、女子テニス部の顧問をしてらっしゃるのよ」
「うそー!」
 意外な事実に驚く梓。
「幸田先生が顧問という事は、もしかして」
「ええ。あなた達二人の女子テニス部の入部手続きは済んでるの」
「またなのお? いい加減にして欲しいわ。そういや、音楽部からの誘いがあった時、テニス部からも勧誘があると言ったら、何ら反対しなかったのは、そういうわけだったのね」
「まあ、そういうわけだから。明日からでも練習に参加してね」
 肩をぽんと叩いて部室を出ていく陽子。
「あ、ちょっと……」
 呼び止めるが、聞く耳もたないといった感じですたすたと行ってしまった。
「まったく、先生も先生なら、キャプテンもキャプテンだわ。似た者同士」
「音楽部の部長もだよね。類は類を呼ぶってとこかしらね」
「なんで絵利香ちゃんは怒らないんだよ。……って、元テニス部だったんだね」
「うん。わたしはテニス部に入る予定だったから」
「ちぇっ! 貧乏くじはいつもあたしなんだ」
「で、どうするの?」
「知らないわよ」

 スポーツ用品店のテニスコーナーを眺めている梓と絵利香。
 ラケットを手に取り、素振りしながら品定めしている梓。
 その側で商品説明している店員。
「篠崎スポーツ製、形状記憶ニッケルチタンラケットです……」
「ニッケルチタンねえ……」
「ニッケルチタンは、形状記憶力を持つニッケルに、弾性と反発力に優れたチタンとの合金素材です。両者の利点を合せ持ち、復元性・耐久性・耐蝕性をも増しております。通常のグラファイトの二倍の反発性がありまして、グラファイト繊維との複合素材として使用されています……」
「ふうん……。ありがとう。ところで、テニスウェアとかは置いてないの?」
「はい。レディース用のスポーツウェアは二階でございます。メンズ用は三階です」
「男女で階が別れてるんだ」
「はい。試着とかありますし、水着やレオタードを選ぶのに男子の視線があると恥ずかしいですからね。レディース用のフロアは全員女性店員で、安心してウェアを選べます」
「そういえば大概デパートとかも、二階もしくは三階が女性衣料品、その階上が男子衣料品になってるわね。なんでだろう? 篠崎デパートのご令嬢の絵利香さん。ご存じありませんか」
「わたしも知らないわ。慣習じゃない? たぶんどこかの老舗のデパートがはじめたことがずっと続いているんじゃないかな」
「店員さん、ありがとう。今度はウェアを見に行くから」
「いいえ、どういたしまして。ごゆっくりとご覧くださいませ」
 丁寧にお辞儀をして、二階へ上がる二人を見送る店員。
 そんな店員を見ながら、不思議な表情の梓。
「ちっともいやな顔してないね。あれだけ説明させておいて結局買わなかったのに」
「うん。篠崎スポーツの方針でね。商品そのものを売るだけでなくて、情報提供もサービスの一貫としているの。今日は買ってくれなくても良い、いずれは必ず買ってくれるようになる。それが本人とは限らないけど、その人から情報を得た人が買ってくれるかも知れないでしょ。そんなわけで、篠崎スポーツ指定販売店様の従業員教育は篠崎の研修施設で徹底的に行っているわ。その研修初日のメニューがスマイルよ。ああ、そうそう研修施設といえば、たまに例の蓼科研修保養センターも利用させてもらっているみたい」
「へえ、そうだったんだ」

 スポーツ用品店を出てきた梓と絵利香。
「あれだけ熱心に商品説明を聞いてたから、てっきり買うのかと思ったわ」
「だってえ、お小遣いが足りないもの」
「何ならうちの製品をプレゼントして上げようか? 選手用に開発してる非売品でもいいわよ」
「いらない!」
「でもラケットとかテニスウェアがないとテニスできないよ」
「何言ってるのよ。あたし、テニス部に入るとは言ってないもん」
「そりゃまあ、幸田先生が勝手に入部手続きしちゃんだけど……」
「これ以上、幸田先生に翻弄されるのはごめんだから」
「じゃあ、なんでスポーツ用品店になんか入ったの?」
「後学のためよ。今どんな素材の製品があるのだろうか興味があったから。お小遣いで買える範囲なら、まあ持ってるだけてもいいかなって。意外と高かったから」
「店員が商品説明してたのは全部高級品ばかりだよ。梓ちゃんが新素材のはどんなの? って聞くから自然に高級品になったのよ。ビギナー用だともっと安いのあるよ」

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梓の非日常/第七章・正しい預金の降ろしかた(四)わさびはほどほどに
2021.03.27

梓の非日常/第七章・正しい預金の降ろしかた


(四)ワサビはほどほどに

 食卓に並んだひと皿の品を差して訊ねる梓。
「これ、なんですか?」
「それは、お刺し身ですよ」
「お刺し……?」
「海の魚を生きたまま切り身にしたものです。おいしいですよ」
「生きたままですか?」
「そうよ。切り身にしても、なおも身がぴくぴく動いているのよ。これは時間が少したってるからもう動かないけど」
「食べられるの?」
「もちろんですよ。こうやって、刺し身にワサビを少しのせて、取皿の醤油につけて食べる」
「ふうん……」
 お手本通りにやって刺し身を口の中に放りこむ梓。
 次の瞬間言葉を失い、鼻筋を押さえて襲いくる刺激に耐えている梓。
「あはは、梓ちゃん。ワサビのつけ過ぎよ」
 目に涙をためて、何とか刺激を耐えぬいて、
「な、なにこれ……」
「ワサビはね、つけ過ぎると今のようになっちゃうのよ。梓ちゃんなら、だいたいこれくらいが丁度いいかな」
「もっとはやく言ってよ。もう……涙が出ちゃったじゃない」
「ごめん、ごめん。でもね、お刺し身好きな人なら、その刺激がたまらないってたっぷりつけるのよ。それが、通なんですって」
「こ、これくらいね」
 今度はワサビをほんの少しだけつけて、あらためて食べなおす梓。
「おいしい!」
「でしょ」
「うん」

「ほんと、あの時の梓ちゃんの表情ったら、可笑しすぎてお腹が痛かった」
 ぷっと思い出し笑いする絵利香。
「笑わないでよ」
「でもさあ、握り寿司ではトロより赤身が好きなんて変わってる。普通の人だったら、口の中でとろける感じがたまらないってトロを選ぶんだけど」
「そうかなあ……あたしにはとろけるというよりも、ねちゃねちゃしてて気持ち悪いよ」
「それは噛みくだそうとするからですよ。握り寿司のトロは数回噛んだら飲み込む感じかな」
「日本人ってさ、良く噛まずに飲み込む感じの、いわゆる喉ごしっていうのかな、そんな食文化が多いみたいねえ。ところてんとか、白魚の踊り食いとか、おそばだって通は噛まずに飲み込むっていうじゃない」
「うーん……やっぱり肉料理文化と魚料理文化の違いかしらね。日本人は牛肉も霜降りとかいって脂肪が多くて柔らかいのを好むし、あたしその値段聞いてびっくりしたわよ。あたしんちでアメリカの契約酪農家から取り寄せている極上のロースよりも、さらに倍以上高いんだから」
「牛肉に関しては、霜降りでなくても日本のお肉はべらぼうに高いのよ」
「さあさあ。お話しばかりしていないで、召し上がってくださいな」
 絵利香の母親が食事が冷めないようにと、気配りして話しを中断させた。
「あ、ごめんなさい。おばさま」

 食事が済み、居間の方へ移動して、談笑する一同。
「それでね、怪我しちゃったの」
「ははは。元気でよろしいじゃないですか」
「よくないわよ! そばで見てるだけのわたしは、いつも気が休まらないんだからね」

 玄関車寄せ。
 ファントムVIが停車し、麗香が後部座席のドアを開けて待機している。
「今日は、ひさしぶりにおじさまと色々とお話しができて楽しかったです」
「まあ、私とはたまにしか会えないとは思いますけど、いつでも気楽に遊びにおいで下さい」
「はい。そうさせていただきます」
 後部座席に腰を降ろしながら、
「それじゃ、絵利香ちゃん。また明日、いつもの時間にね」
「うん」
 麗香がドアを閉め、やがてゆっくりとファントムVIは発進した。
 その後ろ姿をしばらく見つめていると、
「お嬢さま、先生がお見えになられました」
 メイドが知らせにきた。
「わかりました」

 本殿と長屋の間に位置する中庭の片隅に修練場がある。本来は長屋に住まう武士達が日頃の鍛練をする場所だったのだが、武家から商家と身分を変えた篠崎家にとっては、武闘から護身へ、剣道から合気道の修練場となっている。
 袴道着を着込んだ絵利香と女性師範代が、相対峙して正座している。
「今日からは実情に即した稽古をはじめましょう」
「はい」
 静かに立ち上がる両者。
「まずはお嬢さまが経験されたという、後ろから羽交い締めされた時の対処法からですね」
「では相手からなされた通りに組んでください」
「はい」
 師範の背後から、竜子にされたように羽交い締めにする絵利香。
 だが次の瞬間には、投げ飛ばされ師範の足元に崩れてしまった。

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梓の非日常/第二部 第八章 小笠原諸島事件(十)津波の後で
2021.03.26

梓の非日常 第二部 第八章・小笠原諸島事件


(十)津波のあとで

 津波は過ぎ去った。
 無事に生き残った生徒達が、恐る恐る地上へと降りてゆく。
「みなさん、大丈夫ですか?」
 IRが生存確認を始める。
 互いに見合わせるが、
「梓さんがいません!」
「沢渡君も見当たりません!」
 念のために島内に届く大声で、点呼を取ってみるが返事はなかった。
「流されたのか?」
 一人の女子生徒が前に出た。
「梓さん、あたしを木に登らせようと、お尻を押し上げようとしていたんです。その時……」
 とここまで言って、顔を手で覆って泣き伏した。
 他の女性達が寄り添って慰めている。
「沢渡君は、梓さんが流されるのを見て、救助しようと追いかけるように波に出たようです」
 引率していた生徒が行方不明になったことで狼狽える下条教諭とIR。
 無線機は津波に流されてしまって、連絡を取ることができない。
 津波が発生したことは、船の方でも分っているはずだから、安否確認のために島までやってくることを期待するしかない。


 それから数時間後。

 とある島の砂浜に打ち上げられている梓。
 気絶している梓の頬をさざ波が打ち付ける。
「ううん……」
 唸るような声を出して、梓が気が付いた。
 起き上がって周囲を見回すと、離れたところに慎二が倒れていた。
 駆け寄る梓。
「慎二!」
 身体を揺すって起こそうとする。
「ううん……」
 と一言唸ってから目を覚ます慎二。
「目が覚めたようね」
「ああ……」
 辺りを見回して、他の生徒がいないのを確認してから、
「みんなは?」
「いないわよ」
「なぜ?」
「どうやらあたし達だけ、別の島に流されたみたいよ」
「流された?」
「頭打ってない? 大丈夫?」
「大丈夫……みたいだ。それより、ここは?」
「分からないわ。津波に流されて、ここにたどり着いたってところ」
「他の生徒は?」
「それも分らない。ここに流されたのは、あたし達だけみたい」
「そっかあ……」
 すっくと立ちあがって、大声を張り上げた。
「誰かいませんかあああ!」
 しばらく待ったが、返事はなかった。
「やはり、他には誰もいないようね」
 というと、適当な木切れを拾って砂浜に何かを描き始める梓。
「なにやってるんだ?」
「救助信号のS.O.Sを書いているのよ」
「救助?」
「こうやって書いていれば、捜索出動で近くを通ったヘリコプターに『ここにいるよ!』って知らせることができるでしょ」

 梓ならば、救助ヘリではなくても、宇宙から人工衛星の探査カメラで確認できるだろう。
「慎二の着ているシャツを貸してくれない?」
「なにすんだよ?」
「いいから。でなきゃ、あたしが脱ぐしかなくなるでしょ?」
 何かしらんが……という顔しながら、シャツを脱いで渡す。

 シャツを受け取ると、信号を描いた棒にシャツを括り付けて、旗のようにして砂浜に突き刺した。
「これで船からでも、ここにいることが分かるでしょ」
「なるほどね」

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梓の非日常/第七章・正しい預金の降ろし方(三)和食のおもてなし
2021.03.25

梓の非日常/第七章・正しい預金の降ろしかた


(三)和食のおもてなし

 純和風建築の篠崎邸の平棟門を通って、客殿玄関先車寄せにベンツが入ってくる。
 ベンツの後部座席から降りてきたのは、この屋敷の主であり絵利香の父親の篠崎良三であった。ふと車庫の方に、中に入りきらないではみだしているファントムⅥを見出して、
「ロールス・ロイスがあるところをみると、梓お嬢さまが見えてるようだな」
 と出迎えに出ているメイドに尋ねる。
「はい。只今絵利香お嬢さまのお部屋にいらっしゃいます。今夜はお泊まりになられるそうです」
「そうか。どれ、お会いするとするか。しかし……車庫をもっと広げなきゃいかんな」
 頭を掻きながら屋敷の中へと入ってゆく。
 全体的には畳や障子で構成される和風様式だが、家族が出入りする客殿から続く渡り廊下の先に、絵利香の部屋や食堂など洋式に改造された棟がある。こういった改造が自由にできるのも、文化財指定を受けていない理由である。
 絵利香の部屋。制服から着替えを済ませて仲良く談笑している二人。時々泊まりにくることがあるので、衣装タンスには数日分の梓の衣装が用意されていた。
 ドアがノックされる。
「お父さんだよ。絵利香入っていいかい?」
「いいわよ」
 絵利香の許可を得て、良三が入って来る。
「お帰りなさい。お父さん」
「ただいま、絵利香」
「お邪魔してます、おじさま。今晩、おせわになります」
「やあ。気がねなく、ごゆっくりしていってくださいな」
「はい。でも、この時間におじさまが帰ってらっしゃるなんて、めずらしいですわね」
「ん? お嬢さまがいらっしゃるような予感がしてね。仕事を切り上げてきましたよ」
「うそつき。仕事の虫のお父さんが、仕事を放り出すなんてことないでしょ」
「ははは。今日はたまたま早く予定が終わったのさ」
 しばしの談話を続ける三人のもとに、メイドが知らせにきた。
「旦那様、お食事の用意が整いました」
「おう、すぐ行く」
 腕を差し出す良三。
「それでは、参りましょうか。お嬢さま」
 梓はその腕に自分の腕をからめて歩きだす。
「もう、お父さんたら。梓ちゃんには甘いんだから」
 しようがないなあ、といった表情で二人の後をついてくる絵利香。
 父親を早くに亡くしている梓には、良三は身近にいる唯一の親しい男性であり、理想の父親像を当てはめてなついていた。それを知っているからこそ、梓にもまた実の娘に匹敵するくらいの愛情を抱いている良三であった。

 食堂。テーブルを囲んで談笑する篠崎一家と梓。
 なお念のために述べておくと、真条寺家では家族同様の扱いで、一家の食事の列に同席を許されている麗香達世話役は、他家に招かれての食事会やお茶の席では、ただの使用人でしかないので席をはずしている。その間、麗香や運転手の石井は、使用人達用の食堂で食事をとることになっている。もちろん主人達に出されものとまったく同じメニューである。使用人だからといっても、上客には違いないからである。と言ってしまえば聞こえがいいのだが、かつて封建制度の色濃く残る昔、主人に出される料理のお毒見係り、というのが本当の役目だったというのが実情なのだ。真条寺家も篠崎家も戦国時代から綿々と続く豪族旧家なので、そんな風習が残っていても不思議ではないが、もちろん今日ではそんなことの有り様がない。
「わあ、今日は、お刺し身に天ぷらですね」
 鮪と鯛の刺し身。車海老と野菜の天ぷら。さざえの壺焼き。鰆(さわら)と絹さやの炒めもの。つくし・ぜんまい・せりのゴマ和え。舞茸と人参の吸い物。大根の吉野本葛あん掛け。筍と小松菜のおひたし。椎茸と銀杏の蒸し碗。山の幸、海の幸、ほどよく取り混ぜて食卓を賑わしている。
 梓が来訪した時の篠崎家のメニューは必ず和食になる。
 真条寺家別宅では、和食料理が出されることはない。フランス料理を専門とする第一厨房、中華料理を主としてその他の調理をする第二厨房、そして寄宿舎にある従業員用厨房、いずれも和食を調理できるような厨房になっていないからだ。
 以前に和食をメニューに入れられるように一流処の板前を雇おうとしたが、和食を調理できる厨房がないのと、何よりも屋敷全体の装飾や調度品があまりにも欧風にカスタマイズされているために、和食に合わないと無碍に断られてしまったのだ。
 自宅では和食を食べられない梓のために、篠崎家は和食をもって歓待することになったのだ。もちろん梓も来訪する時は、午前中までに知らせることにしている。突然のメニュー変更で食材の調達が必要になるかも知れないからだ。
 真条寺家の三代前の家督長の茜と、篠崎家の先々代の社長夫人の涼子は、大の仲良し幼馴染みで、以来両家は親戚同様の付き合いを続けている。梓と絵利香が紹介され仲良しになり、共に暮らせるようになったのも、そんな事情があったわけで、二人が双方の屋敷を遠慮なく出入りできるような環境が整っている。和食が食べたくなったらいつでも篠崎家を訪れる梓であった。
「でもはじめてお刺し身を出された時は、面白かったわね」
「しようがないじゃない。お魚を生で食べるなんて習慣なかったもん」

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梓の非日常/第七章・正しい預金の降ろしかた(二)篠崎邸にて
2021.03.24

梓の非日常/第七章・正しい預金の降ろしかた


(二)篠崎邸にて

 延々と続くかと思われるほど長い土塀と銀杏並木に囲まれた中、広大な日本庭園を伴った篠崎邸が建っている。三百年程前に川越随一とも言われた豪商、絵利香のご先祖さまが金にあかせて建てた総檜真壁造りの豪邸である。基本的に桃山時代以降に発展した武家屋敷に取り入れられた書院造りに準じた屋敷となっている。書院造りとは、桃山時代の工匠が記した【匠明】に詳しい。
 東側の御成門をくぐると主殿(客座敷・母屋と呼んでいる)から御成御殿(主客間)、中書院(居間・良三夫妻の部屋)と続く。
 家族が出入りする北東の平棟門からは客殿(居間)、大台所(食堂・厨房)、北書院(絵利香の部屋)と続いている。
 南東門からは、茶会を開く数奇屋と路地、南書院(客間)、主殿に相対する位置に能舞台と楽屋など催事関連の寝殿が建っている。
 そしてそれらの本殿を取り囲むように、中庭を挟んで使用人が暮らす長屋が連なっている。それ以外にも随所に土蔵や小部屋が散らばっている。
 邸宅だけでも現在の価値にして、総工費三十二億円は下らないだろうと噂されている。主殿の二尺角の大黒柱だけで八千万円相当の価値があるそうだ。
 大黒柱に連なる尺五寸のはり受け、それに台持継ぎされた屋根を支える尺寸の小屋ばり、そして軒げた・敷げた・もや等々、天井裏をのぞけば三百年の風雪に耐えたその頑丈さを証明してくれるだろう。その頑丈な骨組に本瓦の屋根が乗っている。現代に良くみられる桟瓦は、江戸時代以降に発明されたものであるから当然であろう。
 これらの屋敷や調度品には、国宝や国指定重要文化財としての価値があるものがあり、文化庁からの申し出があるのだが、篠崎家は文化財指定を頑なに断り続けている。

 日本庭園には、四季折々の木々や草花が咲き誇り、一般市民に随時解放されて憩いの場ともなっている。事前の承認が必要だが、句会や茶会なども頻繁に開催されている。但し第一・第三・第五水曜日は休園なので注意。
 春の桜とすみれやアイリス、梅雨時のノイバラと菖蒲や紫陽花、夏のクチナシと露草や向日葵、秋の金木犀と菊や秋桜、そして冬には椿と水仙やシクラメンなどなど。もちろんこれらはほんの一部の紹介でしかない。一年中入れ代わりで、それぞれの季節に花を咲かせる樹木と、和洋取り混ぜた草花が咲き乱れる。日本庭園というくらいだから、当初は花鳥風月枯れ山水というような、純日本風のたたずまいだったのだが、庭園を市民に解放してからというもの、現代風の花壇造りが三分の一を占めるまでになっていた。ボランティアで草花の手入れをしてくれている、「花を愛する市民グループ」の意向があったからだが、花の種や球根を持ちより毎日入れ代わりでかいがいしく世話をしている。
 もちろん花期とは別に、秋の紅葉を楽しむこともできるし、銀杏並木での地面に落ちたギンナン採集は近隣家庭の楽しみとなっている。そのかわりに並木の落ち葉などの清掃が暗黙の約束ごととなっているが。

 もうひとつの人気のスポットは、日本庭園入り口から並木を隔てた反対側、旧倉庫跡に隣接されて建っている『誕生日の花と花言葉の展示館』である。入館は無料で、一年三百六十六日の誕生花が植えられており、その花の植性と花言葉の解説がパネル展示されている。当然花期からずれているものは、青葉のみとかパネル展示だけという寂しいものもあるのだが、自然が相手なので仕方ないだろう。
 こちらは絵利香の草案で三年前に建設されたものだが、現在は「誕生日に花を送る会」というボランティアグループが主催・運営しており、その主旨から年中無休である。その日が誕生日になっている来館者には、花の種のプレゼントがある。またグループが丹精込めて栽培した切り花・種・球根の廉価販売も行われており、誕生日や花言葉に関わる贈り物として買っていく来館者も多い。梓が美智子の病気見舞で花を買ったのもこの展示館だった。
 ついでに付け加えると、市民に無料で常時解放され、ボランティアグループが主催しているということで、日本庭園と展示館にかかる固定資産税は、市の条例による公園管理特例法が適用されて納税を免除されている。また、団体客はご遠慮下さい、ということで観光ルートには入っていない。

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