梓の非日常/第五章・音楽教師走る(三)送迎はキャデラック
2021.03.11

梓の非日常/第五章・音楽教師走る


(三)送迎はキャデラック

「日本に滞在するようになってしばらくした頃、突然護身術を習いたいと言い出した時、わたしは渚さまと相談して条件を出しました。ピアノの腕前は毎日弾いていないと鈍ってしまう。そう危惧した渚さまは、護身術を教えるかわりに、ピアノの練習も欠かさないようにとご指示をだされたのです。ピアノが上達していなければ道場出入り禁止ってね」
「護身術を身につけていられたのですか?」
「コロンビア大学やお嬢さまの通われていたセント・ジョン教会は、治安の悪いハーレムの近くにありましたからね。まあ護身術は必要かなと思って身につけていたのですが。結局たいして腕を振るうことなく、アメリカを離れてしまいました。ただ一度だけ不良にからまれていたお嬢さまを助けたことがありましてね。そのことを覚えていらしたようです」
「しかし護身術と空手では内容が違うと思いますが」
「わたしの教える護身術をほぼ身につけられたお嬢さまは、次ぎなる武道の道をお探しになられたようです。お嬢さまの通われている学校には武道といえば剣道、柔道、そして空手部があります。竹刀という武器を使う剣道、身体と身体を密着させる柔道は、お嬢さまには肌が合わないようで、自然に空手をお選びになられたようです。もっとも渚さまとの約束がありますから、手先を傷めるようなことはしないはずです」
「でも護身術はもう教えてらっしゃらないのでは」
「いえ、護身術は毎日の生活の中にも修行があります。直接には教えていませんが、今も約束は生きています」
「そうでしたか、それを聞いて安心しました」

 玄関先に二人がでてくる。
「それにしても広い屋敷ですね」
 改めて感想をのべる幸田教諭。それに見送りに出てきている麗香が答えた。
「そうかも知れませんが、ここは梓お嬢さまが日本での教育をなされる間の別宅となっております。ニューヨークのブロンクスにある本宅は、ここの二十倍はありますし、巷ではブロンクスのベルサイユ宮殿と呼ばれています。私設国際空港もすぐ隣に併設されてますしね。さらに広大な自然緑地が屋敷を取り巻いていて、真条寺家の所有ですが一般に解放されて、市民の憩いの場となっております」
「本当ですか?」
「本当ですよ」
「ここが別宅であの調度品、本宅がここの二十倍で飛行場と自然緑地付……真条寺家って一体、何者なの」
「ついでに申しますと、この川越におきましては、絵利香さまのお屋敷の方が広いですよ」
「絵利香さん? 篠崎絵利香さんですか」
「そうです。篠崎本家は三百年前ほどの豪商が建てた総檜の真壁造りで、何でも二尺角ほどもある二本の大黒柱だけでも、現在の価値で八千万円かかると言われています。もっとも今時これだけの檜の大柱を手に入れるのは不可能とさえ言われていますね。そんな立派な柱が支える堅牢な造りですから、三百年たった今でも多少の修繕を重ねて、快適に暮らせる住環境を保っています。そうそう、四季折々の風情が楽しめる広大な日本庭園も見事ですよ。庭園は午前九時から午後五時の間、一般に開放されているので、一度訪ねられるとよろしいでしょう。茶会や句会、団体での鑑賞には事前の承認が必要ですが、個人での散策はいつでも可能です」

 玄関から幸田教諭と麗香が出てくる。
「幸田様、お役に立てなくて申し訳ありませんね」
「いいえ。充分役に立ちましたよ」
 客人用の送迎車が待ち受けており、運転手が後部ドアを開けて促している。
「外車のことは良く知らないけど、たぶんキャデラック? こんな高級車を用意するなんて」

 雲の上の人たちだ……。

 来る場所を間違えたようである。
 しかし、コンクールの成功のためにも梓は是が非でも欲しい。

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