梢ちゃんの非日常 懐かしの学園へ(最終回)
2021.08.17

梢ちゃんの非日常 懐かしの学園へ

 その日から、十二年の年月が流れた。
 絵利香は、梢と真理亜を連れて日本へ渡り、二人を聖マリアナ女学院中等部、そして城東初雁高校に入学させた。その進学コースは、絵利香が通った同じ学校に行きたいという、二人のたっての願いを実現させてあげたものだった。
 城東初雁高校の入学式の当日、二人を連れて懐かしの学校の正門をくぐる絵利香だった。
「十五年ぶりか……あんまり変わっていないわね」
「お母さん、感傷に浸るのは後にして。講堂に急がないと入学式がはじまっちゃうわ」
「お母さん、早く、早く」
 梢と真理亜が、両側から絵利香の手を引っ張っていく。
「そ、そうね」
 講堂に入り、絵利香は父兄席に、二人は一年A組の席に前後並んで座る。アメリカ国籍である真理亜は、外国人登録名として、母親の旧姓であり親権代理者である絵利香の性である篠崎を登録しているため、梢と仲良く並ぶことができたのだ。
 周りの生徒達の視線が梢に集中しているのに気づく絵利香。ため息をついたり、隣の生徒とひそひそ話ししていたり。
 ……そういえば、梓は人気者だったわね……こんな風に見られていたんだ。わたし達って……
 式は進んで、新入生代表による答辞となった。
「新入生代表。真条寺梢さん」
 一同の注目を浴びながら、席を立って壇上へと向かう梢。右手には学校側から手渡された答辞の書かれた書面を持っている。
 梢は書面を両手で掲げ持つと、ひと呼吸おいてから静かに答辞文を読みはじめた。
 それは流暢な英語だった。
 唖然とする校長以下の教職員達。場内からざわめきが湧きはじめる。
 いっきに答辞文を読み終えると、深く一礼して静かに退場する梢。
「ええと……ありがとうございました。真条寺梓さんでした。なお彼女はアメリカ国籍の帰国子女でありまして、英語での答辞でした」
 おどおどとした口調で、司会の教師が場をつくろうために以上のように説明を加えた。
 真理亜にピースサインを示しながら、自分の席に戻る梢。


 入学式の後で、職員室に立ち寄り、下条教諭と幸田教諭にあいさつにゆく絵利香。
 どちらも絵利香が、この学校の生徒だった時の担任と音楽担当の教諭である。
 その間二人は校庭で繰り広げられているクラブ活動勧誘の場へと向かっている。
「先生方が、この学校におられて助かります」
「まあ、何とかへばりついているよ。しかし、梢くんが答辞で、英語を喋りはじめた時は肝が冷えたぞ」
「ああ、あれですか。本人によると、『学校側から手渡された答辞をただ読むのでは、面白くなかったからよ』ということらしいですよ」
「うふふ、さすがに梓さんのお嬢さんらしいですね。梢さんをはじめて見た時は、ほんとに驚きましたよ。お亡くなりになった梓さんと瓜二つで、十五歳当時のままの姿で現れたんですから。性格もどうやらそっくりそのまま受け継いでいるようですね」
「真理亜くんも結構絵利香くんにそっくりじゃないか。てっきり君の子かと思ったぞ。血の繋がった従姉の子なら、まあ似ていても不思議ではないがね。しかしさすがにコロンビア大学を首席で卒業した絵利香くんが育てた二人だ。入学試験では、二人揃ってトップを分けあうなんて。日本語というハンデもなかったようだね」
「本当は真理亜ちゃんの方が総合学力では優れているのですが、精神面で多少弱い所がありましてね、異国の地での慣れない日本語での入試で実力を発揮できなかったようです。その点梢ちゃんの方は、母親の死というものを克服していますから、いざという時はタフなんですね」

「それにしても絵利香さんは、たいへんだったでしょう。親友の梓さんの代わりに梢さんを、ここまで育てるなんて、しかも真理亜さんも一緒にね」
「梓が亡くなる以前から、二人ともわたしになついてくれていたし、聞き分けの良い娘達だったから、育てるのは楽でしたよ」
「ところで二人の日本語は、やはり麗香さんが教えたのかね」
「ええ。教えるのは彼女が上手ですから」
「その麗香さんも日本に?」
「もちろんです。わたしの世話役に就任していますから」
「話しは変わるんだけど、梢さんが梓さんの性格を受け継いでいるとなると、音楽の方はどうなのかしら、ピアノとかは弾けるの?」
「やっぱり気になりますか?」
「そりゃあもう……音楽教師ですからね」
「一応弾けることは弾けます。ただ梓の死がトラウマとなって母親を強く思い出させるピアノから、しばらく遠ざかっていました。音感性が最も発達する時期でしたから、梓ほどには上達しませんでした。残念なことです」
「そうでしたか……。しかし素質を受け継いでいるのなら、これからの精進次第では梓さんに優るとも劣らない技術を身に付けることも可能だと思いますよ」
「だといいんですけどね。現在の梢ちゃんの興味は別なところにありますから」
「それってまさか?」
「今頃クラブ活動の勧誘の広場へ向かっていますよ。たぶん体育会系のクラブを物色してるんじゃないかな」
「ほう……すると僕の空手部に入ってもらえるのかな」
「そ、そんなこと……私が許しません! 絶対、我が音楽部に入ってもらいます」
 二人の教師の確執を目にして思わずほくそえむ絵利香。
「絵利香さん。何を笑っていらっしゃるの。失礼ですよ」
「ふふふ、ごめんなさい。昔の自分達と先生方のことを思い出してしまって。歴史は繰り返すんですね」
 顔を見合わす二人の教師だが、やがて気がついて笑いだす。
「あはは、そういえばそうだ。梓くんを巡って似たようなことやってたな」
「その通りですわね。うふふ」
「一応念のために言っておきますけど、以前幸田先生がお使いになった手は梢ちゃんには通じませんから。いくら音楽部に入れたくてもね」
「あら、何の事かしら。おほほ」


 二人の教師との面談を終えて、娘たちのいるであろう校庭へと出てくる絵利香。
「お母さん、探しちゃったじゃないの」
 梢が、真理亜と仲良く連れ立って歩いて来る。
「感慨深げに何を見つめてたの?」
 真理亜が尋ねる。
「ここはね、梢ちゃんのパパとママの出会った場所なの。だから……」
「パパとママが! ふうん、ここがそうなのか……小さい頃、ママに聞いたことがある」
 梢は、三歳の頃を回想していた。
 おやつの後の時間、いつものように梓の膝の上に腰掛け、テーブルの上に三歳児向けの算数の絵本を広げて、梓や自分の指を折りながら数を数える勉強の最中だった。いくら大好きな母親の膝元とはいえ、物語じゃない算数の絵本なので、飽きがきはじめていた頃合だった。
『ねえ、ママ』
『なあに』
『ママは、パパとどうして知り合ったの?』
 物語の絵本では、男女が出会って、めでたく結婚するというものがたくさんある。
『パパとはね。ここから遠い国、日本という国で出会ったのよ』
『にほん?』
『そうよ。今、パパが住んでいる国で、そこの学校というところで、ママはパパを好きになったのよ』
『がっこう……?』
『梢ちゃんが通っている保育園みたいなところよ』
『ふうん……』
 男の子と女の子が一緒に勉強したり遊んだりしている保育園から、三歳なりにパパと ママの出会いと恋愛を思い描こうとしている梢。

「そういえば、わたしもお母さんから聞いたような記憶があるわ。梢ちゃんのパパとママが日本とアメリカに別れて暮らしているのは、どうしてなのかを聞いたんだと思う」
「あら、よく覚えていたわね。それって、真理亜ちゃんが四歳の時よ」
「コロンビア大学を首席で卒業したお母さんに、みっちり教育されてるもの。記憶力はお母さんゆずりよ」
「そんなこと言ってると、ママが泣くわよ」
「だってほんとのことだもの。わたしを教育してくれたのはお母さんで、ママじゃないのは確かよ。第一、ママとお母さんは従姉同士、同じ篠崎家の血筋じゃない」

「ところで、梢ちゃんはどこのクラブに入ったのかな」
「聞いてよ、お母さん。梢ちゃんたら、空手部に入っちゃったのよ」
 真理亜が代わりに答える。
「やっぱりね。で、真理亜ちゃんの方は決めたの?」
「わたしはまだよ。梢ちゃんのことが心配で」
「まったくう。真理亜ちゃんは心配症なんだから」


 執務室。
 正面の窓を境にして、右側に二つ左側に三つの机が並び、向かって右側では絵利香と麗香が、左側では早苗が末席で執務をとっている。明いている机は、学校にいる梢と真理亜のものだが、梢の机の上にはパンダのぬいぐるみと、梓の膝の上でパフェを食べている三歳当時の梢という母娘むつまじい写真が飾られている。
 絵利香は、母親の梓のことを忘れないように、ことあるごとに母娘仲睦まじい頃のアルバムを見せたり、昔の思い出を語ったりして、梢を教育してきたのだ。二度に渡って命懸けで娘の梢を救った梓の魂を安らかにさせるためにも……。
 その甲斐あって、梢の心には梓との思い出が、しっかりと植え付けられていたのである。また梢にはパンダのぬいぐるみと同じくらい大切なあしかのぬいぐるみもあるが、こちらは寝室の方に飾ってある。もちろんそれに関わる絵利香との動物園の思い出もしっかりと記憶の中にある。ただ動物園に行ったというだけならとっくに忘れていただろうが、あしかのぬいぐるみという思い出深い形見があるので、それを見るたびに思い出されるからだ。
 本来執務に関わらない真理亜の机があるのは、二人を姉妹同様に分け隔てなく育ててきた絵利香の方針である。梢が真条寺グループを継承した後も、オブザーバーとして良き協力者となってもらいたいという願いである。もちろん真条寺グループに次ぐ世界第二位の巨大組織となった篠崎グループとの橋渡し役となっている絵利香の後任としても期待しているのだ。


お母さん、やめないで


 梢の十六歳の誕生日を間近に控えたある日。パーティの準備で、ブロンクスの本宅に戻った絵利香と真理亜そして本人の梢。

 執務室で打ち合わせが行われている。
『絵利香さん、遠いところお疲れ様です。今日までの間、本当にありがとうございました。梢も無事十六歳の誕生日を迎えることができそうです』
『そんな堅苦しいことをおっしゃらないでくださいよ。梢ちゃんのこと、本当の娘のように思っているんですから、何でもないことです』
『そう言っていただけると助かります』


『招待状を出した各国首脳からご出席のご返事が届いております。米国大統領と第七艦隊司令長官、英国からは皇太子様と首相殿、仏露大統領、独伊首相、EU議長……出席予定率百パーセントです』
『まあ、梢の十六歳の誕生日は歴然として変わるはずもないから、みなさんこの日のために、一年以上も前からスケジュールを組んでいらっしゃったようですね』
『空港での政府専用機の出迎えの準備や、要人警護の手筈も万端整っています』
『パーティーの料理の準備はどうかしら。メニューは決まったのかしら』
『第一厨房のフランス料理、第二厨房の中国料理共、メニューは決定しました』
『結構です。絵利香さんの方はどうかしら』
『わたしの担当の日本料理の方も大丈夫ですよ。メニューを一通り試食してみましたけど、十分ご来賓のみなさまを満足させるだけの自信があります。ふぐ料理なども考えましたけど、さすがに万が一を考えると出すわけにいかず、板前達は残念がっていましたよ』
『お手数かけましたね。後は当日を迎えるだけですか』


 三階バルコニーで渚や麗香と共にお茶の時間を楽しんでいる絵利香と梢。
『梢ちゃんも、もう十六歳か。母親としてのわたしの役目も、そろそろ終わりね』
『何よ、母親をやめるって言うんじゃないでしょうねえ』
『梓が遺言したとおり、わたしの母親としての役目は、梢ちゃんが十六歳になるまでということだったから。今までわたしのことを、お母さんって呼んでくれたのは嬉しかったけど』

『いやだよ。お母さん。お母さんは、ママから依頼されたから、母親代わりを引き受けたわけじゃないでしょ。あたしのこと、心底愛していたから大切に思っていたから、母親になったんでしょ。哀しいこと言わないでよ』

 梢は涙をぽろぽろと流しながら、記憶の中にある母娘の情景を語りだした。
『あたし、ママが亡くなった時の事覚えているよ。お母さんが、あたしを慰めようと一所懸命に世話してくれていたこと。お母さんに向かって『ママじゃないもん』って口答えして飛び出しちゃったけど、本心で言ったんじゃないよ。後で後悔してベッドの中でお母さんに謝っていたよ。その頃心労がたたってお母さんは胃潰瘍で入院してたんだよね。あたし何も知らなくて、夢中で屋敷中お母さんを探しまわったよ、でもどこにもいなくて寂しくなって、このまま会えなくなるのかと思って泣きじゃくってた。病室でお母さんに会えた時は本当に嬉しかった。泣いていたあたしを慰めようと差し出してくれたお母さんの手は、とっても温かったよ。そしてあたしを見つめるその表情も、やさしさと愛情に満ち溢れていたのを感じたよ。もう二度と離れたくないと思ったから、お母さんのネグリジェをぎゅっと握りしめながら、病室のベッドで一緒に眠ったこと覚えてるよ』
 梢の顔は、涙でくしゃくしゃになっている。
『わかった。わかったわよ。わかったから、もう泣かないで』
 バックからハンカチを取り出して梢に渡す絵利香。
『だって、お母さんが母親をやめるなんて言うんだもん。お母さんは梢にとっては本当の母親なんだよ』
 涙を拭ってから渚に向かって、
『グラン・マ』
『ん?』
『そういうわけだから。これからもお母さんの事よろしくね』
 とお願いする梢。
『ああ。言われなくても最初からそのつもりだったよ』

 こうして絵利香は、引き続き梢の母親としての生活を続けるのだった。

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11
梢ちゃんの非日常 梢よ泣くな!
2021.08.16

梢ちゃんの非日常 梢よ泣くな!

 パンダのぬいぐるみを抱きかかえたまま眠る梢。
『今夜は何とか寝かせつけられたけど、というよりも泣き疲れて眠っちゃった。問題は朝なのよね。起きて梓がいないのに気がついて、ママがいない! って泣くのは目に見えているし……。梢ちゃんにとって梓のいない朝は、出張で出かけている時ぐらいだけど、必ず帰ってくるという確証があったから、わたしがそばにいてやれば平常心でいられた。でも二度と梓は帰ってこない。わたし一人で、梢ちゃんの世話ができるのかしら』

 翌朝。
『絵利香さま』
 目覚める絵利香。
『お休みのところ申し訳ありません。朝でございます』
『麗香さん……』
『お疲れかと思いますが、起きていただけますか』
『梢ちゃんは……』
 隣を見ると、パンダを抱いたまま眠っている梢がいた。
『本当は、もう少しお休みいただきたいところなのですが、梢お嬢さまのことを考えますと』
『判っているわ。梢ちゃんより、先に起きていないとね』
『眠気覚ましに、熱いシャワーでも浴びてはいかがでしょうか。その間にお嬢さまがお目覚めになることもなさそうですし』
『そうしましょう』
 梓の遺言によって、梢が十六歳になるまで、絵利香が養母となると同時に、梓グループの全権代行執権として暫定的に就任し、それに伴い麗香が世話役として就くこととなった。二人は、絵利香が三歳の頃から親しくしているので、何の抵抗もなく主従関係が成立していた。


 三時の休憩時間。
 バルコニーに集まる一同。
 絵利香は両肘をテーブルにつき、手を組んで額に押し当てている。
『絵利香さん、顔色が悪いわよ。大丈夫?』
『ちょっと頭痛がして』
『今日は、部屋に戻って休みなさい』
『そうします。梢ちゃんには悪いけど、今日は幼児用椅子に座ってもらってください』
 絵利香の言葉に、メイドが幼児用椅子を運んでくる。
 丁度その時にパンダを抱えた梢がやってくる。
 空いた席にパンダを置いて、いつものように絵利香の膝に乗ろうとする。
『ごめんね。今日はそっちの椅子に座ってくれるかしら?』
 と絵利香が指差した幼児用椅子を見て、
『いやだもん!』
 と拒絶する。絵利香がそばにいるのに、幼児用椅子には座りたくないのが心情だろう。
『絵利香がいい』
『梢ちゃん、絵利香はね、気分が悪いのよ』
 という渚の言葉に絵利香を覗きこむが、病気であることの表情を、梢が読み取れるわけがない。
『もういいもん』
 パンダを再び抱えて三・四歩後退する梢。絵利香に拒絶されるくらいなら、おやつもいらない。
『絵利香は、梢がきらいになったんだ』
『そうじゃないのよ』
『だって、絵利香、ママじゃないもん』
 その声を聞いて、絵利香の表情が強ばっていくのが、目にみえてはっきりと判った。
『これ! 何てことを言うんですか!』
 渚が、強い口調で叱責した。
『そうですよ。絵利香さまは、一所懸命に梢ちゃんのために』
『ママじゃないもん!』
 梢も大きな声で叫び、くるりと背を向けて、パンダを抱えたまま駆け出していった。
『だめよ。梢を一人にしちゃ。追わなくては』
 絵利香が、梢を追いかけようとして、立ち上がる。
 しかし次の瞬間だった。
『あ……』
 突然崩れるように倒れる絵利香。
『絵利香さま!』
 一同が驚いて絵利香のもとに駆け寄る。
『医療センターに連絡して、担架を持ってきて!』
『はい!』

 病室。
 ベッドに眠る絵利香。その腕には点滴の針が刺さっている。ベッドサイドでは、渚がその様子を見守っている。病室の扉が開いて麗香が入ってくる。
『美紀子さまと連絡がとれました。今こちらに向かっておられます』
『そう。ありがとう』
『絵利香さまの容体はいかがですか?』
『心労とそれからくる軽いストレス性胃潰瘍だそうよ。精神的にかなり無理をしていたようだね』
『無理もありません。二十年来の親友であり、姉妹のように育った梓さまを失っただけでも辛いのに、母親代わりに梢お嬢さまのお世話までしてらしたのですから』
『わたし達、絵利香さんに頼り過ぎていたようですね』
『はい。その通りだと思います』
『かといって、梢の心を癒せるのは、絵利香さんしかいないのも事実なのよねえ』
『お嬢さまに、ママじゃないと拒絶されたのが、ショックだったみたいです』
『でもね。梢ちゃんも本気で言っているわけじゃないのよ。喧嘩したときに、本当は大好きなのに、大嫌いと言ってしまうあれよ。そしてその後で後悔してしまう』
『第一反抗期ですからね。とにかく、どうしたものでしょうか』
『しばらくは、二人を離したほうがいいでしょう。絵利香さんには、執権実務と梢のことは忘れて、養生してもらわくちゃ。真条寺家のものではない絵利香さんに、これ以上の心労をかけさせては、篠崎さまに申し訳がたちません。いくら梓の遺言があるからといって、それで縛りつけることはできないのです』
『お嬢さまのこともそうですが、真理亜さまのことは、いかがいたしましょう』
『そうね。あの子も梢と同じで、絵利香さんにかなり依存していますからね。絵利香さんが帰ってこないとなると、心配するのは必定だものね。まあ、真理亜ちゃんのことは美紀子さんの判断にまかせましょう。とにかく梢には、絵利香のことを伏せておきましょう。私達だけで何とかしなくちゃね』
『はい。早苗さんに、指示を伝えておきましょう。お嬢さまには、絵利香さまが病気であることを伏せておくこと』
『お願いします。ところで、梢はもう見つかったのでしょうか』
『寝室に入るところを、警備室がモニターしていました。今、早苗さんが行っています』
 その頃、梢はパンダを抱えたまま寝室のベッドに潜り込んでいた。
『絵利香……』
 梢も、大好きな絵利香をママじゃないと叫んだことを後悔していたのであった。
『ごめんね、絵利香』
 涙をこらえながらも、いつのまにか眠ってしまう。

 食堂。
 パンダを抱えた梢が早苗に付き添われて入って来るが、不審そうにきょろきょろとあたりを見回している。それもそのはずで、いつもなら絵利香が手を引いて連れてきていたからだ。

『ねえ。絵利香は?』
『絵利香さまはね、ちょっとお出かけしてらっしゃるのよ』
 三時に病気だと言っておいて、お出かけはないだろうとは思ったが、他に適当な言葉がみつからない。
『絵利香、いないの?』
『そうよ』
『うそだもん』
『え?』
『絵利香、梢に黙って出ていかないもん』
『だからね……』
 言葉につまる早苗。
『探してくる』
 くるりと背を向けて、食堂を駆けて出ていった。
『いけない! 追いかけて! 絶対見失わないで』
 渚が早苗に即座に指令した。
『は、はい』

 寝室、バルコニー、執務室、居間など絵利香がいそうな場所を次々と回っては、名前を呼んで探しまわっている梢。パンダを抱えていては邪魔だと思ったのか、どこかに置いてきたようである。
『絵利香! 返事をしてよ』
 呼べど叫べど、絵利香の返事はない。
『絵利香、いないの?』
 涙声でなおも呼び続ける梢。
 亡くなる直前に言い残した母親の、
『泣いちゃだめよ』
 という最期のいいつけを、守り続けてこれたのも絵利香がいたから。梓と同年齢で同質の香りのする絵利香は、もう一人の母親として心のよりどころだったのだ。その絵利香が自分に黙っていなくなり、こらえていたものが、堰切って涙となって溢れてくるのだった。絵利香がいなくなって、はじめてその存在の大切さを改めて認識する梢。
『ぐすん……ママ。絵利香、どこにいるの』
 涙で顔をくしゃくしゃにし、目を真っ赤に腫らし、絵利香と梓を呼びながら、とぼとぼと歩いている梢。さんざん探しまわっても絵利香はどこにもいない。
 そんな落胆した梢を見つける早苗。
『お嬢さま、探しましたよ』
『絵利香がいないの。梢を残してどっか行っちゃったの……ママもいないし……ねえ、絵利香、どこなの? ママじゃないって、言ったから怒って、出ていったの?』
『お嬢さま……』
 こんなにも落ち込んで涙している梢を見るのははじめてのことだった。
 監視カメラに向かって話す早苗。
『警備室。聞こえてますか?』
 天井のスピーカーから声が聞こえて来る。
『はい。聞こえています』
『渚さまのところに繋いでください』
 ややしばらくたってから、スピーカーから渚の声が返ってくる。
『早苗さん、梢を見つけたようね』
『はい。でも、かなり精神的に参っているようです。梓さまと絵利香さまの名を交互に呼びながら泣いています』
『これ以上、梢に隠しているわけにいかないでしょう。絵利香さんのところへ連れていってください。私もすぐ行きます』
『かしこまりました』

 梢を連れて、絵利香の病室の前にくる早苗。
 病室ということで、梢がびくついているようだ。亡き母親の事が思い起こされるようだ。
『絵利香さまのご容体は?』
 病室の前にある看護婦詰め所の看護婦に話し掛ける早苗。
『はい。つい先程お目覚めになられました』
『入っても大丈夫ですか?』
『大丈夫ですが、お静かにお願いします』
 ノックすると、
『お入り下さい』
 という絵利香の声が返って来る。その聞き慣れた声に、顔をあげる梢。
 早苗に連れられて中に入った梢は、窓際のベッドに弱々しく横になっている絵利香を見つけて駆け寄る。
『絵利香!』
『梢ちゃん、来たのね』
『絵利香、病気なの?』
 ベッドのそばに寄り掛かるようにして、絵利香の顔色を伺いながら心配そうに尋ねる。
『そう。ちょっとね』
 まさか梢のことで心労になったとは言えない。
『どうして連れてきたのですか?』
 絵利香の看病を続けていた麗香が、早苗を叱責している。渚からの連絡はまだ届いていなかったようだ。執務室と病室を直接つなぐ回線がないからである。
『申し訳ありません。絵利香さまをあちこちと探しまわり、絵利香がどこにもいない、って泣いてしようがないのです。渚さまのご指示で連れて参りました』
『そうなの、それで目が真っ赤なのね』
 絵利香が頭をなでてあげようと、手を差し出すと、梢は一瞬首をすくめてしまった。 死ぬ間際の母親の冷たい手を思い出したようだ。
 絵利香もそれに気がついて、
『うふふ。大丈夫よ、ほら触ってみて』
 恐る恐るその手に触る梢。
『温かい……』
『でしょ。生きている証拠よ』
 遅れて渚がやってきた。
『いつもすまないね、絵利香さん。早苗から聞いていると思うけど』
『はい。梢ちゃんは、わたしがそばにいないとだめなんです』
『そうね。考えが甘かったわ。あなたに気苦労させないようにと、梢に病気で倒れたことを黙っていたんだけど。まさかこれほど、梢が取り乱すとは』
『隠しちゃ、だめですよ。梓もわたしも、梢ちゃんには何でも正直に話して、納得させてから物事を進めてきたんですから。本当は聞き分けの良い娘ですから、病気だと知っていれば、こんなに泣きじゃくることもなかったはずです。ね、梢ちゃん』
 といって、梢の頬にそっと手を当てる絵利香。その手を、上から自分の手で押さえて、 その温もりを感じている梢。
 二人の間に、切っても切れない熱い思いが交差する。
 絵利香にとっては、自分の事を目を真っ赤に腫らしながら探しまわったという梢のいたいけさ。梢にとっては、そばにいていくれるだけで、心安らぐ母親の温もりのある絵利香であり、梓と同質の香りを持っている。
『絵利香、ごめんね。ママじゃないって言ったこと』
『いいのよ。本気じゃなかったこと、知っているから』
『ごめんね……』
 その時梢のお腹が鳴っているのに気づく。
『梢ちゃん。夕ごはんは食べたの?』
『ううん』
 首を横に振る梢。
『お腹すいてるでしょ』
『う、うん』
『じゃあ、お食事にしましょうか』
『うん』
 大きくうなづく梢。
『早苗さん。梢ちゃんの食事を、ここへ持ってきてくださるかしら』
『かしこまりました』

 やがて食事が、ワゴンに乗せられて運ばれてきた。
『さて、起きなくちゃ』
『無理しないでください。電動でベッドを起こせますから』
『大丈夫よ。自分の力で起きれるわ』
 麗香が、絵利香を支えて起き上がるのを手助けしている。
『梢ちゃん。ここへいらっしゃい』
 といって、絵利香は自分の脇の布団を持ち上げている。
『うん』
梢は靴を脱いで、椅子を踏み台にしてベッドに這いあがると絵利香の隣に座り込んだ。
『早苗さん、そこのベッドテーブルを』
『はい』
 早苗が、ベッドの両側に差し渡すタイプの簡易テーブルを設置した。その上に並べられる梢の食事。食事がこぼれてもいいようにテーブルの下にシーツが敷かれる。
『梢ちゃん。食べていいわよ』
『絵利香は?』
『わたしはいいのよ。ほら、これがごはんよ』
 といって自分の腕に刺されている点滴を指し示した。
『痛くないの?』
 腕に刺された太い針に、心配そうな梢。
『大丈夫よ。ほら、わたしのことはいいから、食べなさい』
『う、うん』
 おやつを抜いていたので、かなり空腹状態だったようだ。ときおり絵利香のことをちらちらと見つめながらも、夢中で食事を口に運んでいる。
『うふふ。ずいぶんお腹がすいていたみたいね。でも、ゆっくり食べなさいよ』
『うん』
 やがて食事をきれいに平らげてごちそうさまする梢。
『食器を、お下げします』
 早苗が食器を乗せたトレーを下げて退室する。

 食事を終えた梢は、絵利香から一時も離れずに、その膝に乗ったり、膝枕にして絵利香を下から見つめたりして、精一杯甘えた行動をとっている。もちろん絵利香がそれを許しているからだが。

『さあ、梢ちゃん。絵利香はお休みしなくちゃいけないの。そこにいるとお休みできないでしょ』
 と渚が、面会時間が過ぎたのを確認して、梢を連れて立ち去ろうとする。
 しかし梢は、絵利香のネグリジェをぎゅっと握り締めたまま、身動きしない。
『渚さま、梢ちゃんはここで寝かせます』
『しかしあなたは……』
『心配いりません。梢を放っておくほうが、よほど心配で眠れなくなりますよ』
『判りました。あなたがそういうのなら』
『梢ちゃん。グラン・マと一緒にお風呂に入ってきなさい』
『絵利香は?』
『絵利香は病気だから、しばらく入れないの。梢ちゃんだけでも、入ってきてね。絵利香の言うこと聞けるわね』
『う、うん』
『お風呂に入ったら、パジャマに着替えて、歯を磨いて、そしたらここに戻ってきてね』
『うん。わかった』
『渚さま。梢ちゃんをお願いします』
『ああ、まかせといて。子供だった頃の梓にしてきたことだよ。たいしたことないさ』
『それと、絵本とパンダのぬいぐるみも持ってきて頂けますか』
『梢、ジュリアーノいらない』
『あら、ジュリアーノちゃんがいないと眠れないんじゃない?』
『だって、ベッド小さいもん。梢とお母さんしか眠れないもの。ジュリアーノと一緒に眠れないもん』
『そうね。じゃあ、今夜は二人きりで寝ましょう』
『うん』
 そもそも病院のベッドは一人で寝ることを前提としているので、小さな梢が一緒に入るだけでも、ぎりぎりの幅しかない。

 ベッドの上で絵利香の膝の上に跨り、ベッドテーブルに絵本を広げて、読み聞かせしてもらっている梢。その背中に温もりと懐かしい香りに包まれ、振り向けば絵利香のやさしい笑顔が見つめている。そんな絵利香の愛情のこもったスキンシップのおかげで、落ち着きを取り戻しつつある梢だった。

 絵利香のネグリジェを握り締めながら、安心したように眠る梢。
『お母さんか……はじめて呼んでくれたわね』
 梢は、梓が亡くなるずっと以前から、絵利香をもう一人の母親として認識はしていたが、面と向かってお母さんと呼ぶことには、ためらいがあったようだ。それでも絵利香に連れ添われた先で、絵利香が「ママ」とか「お母さん」とか間違われて呼ばれると、非常に喜んでいた。
「お母さん」と呼べる相手が、絵利香一人しかいなくなった現在、もうためらうことはない。意識することなくごく自然に梢の口から出てきたようだ。


 数日後。
 ベッドの上で眠っている絵利香。まだ朝早いので麗香達はまだ来ていない。
 その傍らにあるサイドテーブルに、少し大きめの花瓶が置かれている。パジャマ姿の梢が椅子を持ち出して上に乗り、その花瓶を動かそうとしている。が、水が入っているので重すぎて、梢には動かすのは少し無理なようだ。そのうちに手を滑らせて、花瓶は真下に落ちて大きな音を立てて割れてしまい、水飛沫が飛び散る。梢の服も濡れてしまった。
 大きな音に目を覚ます絵利香。すぐそばにばつの悪そうにしている梢が、椅子の上にたったまま、床の割れた花瓶を見つめている。
『どうしたの? 梢ちゃん』
『あのね、あのね。お花のお水を換えようとしたの、そしたらね』
麗香が毎朝花瓶の水を換えているところを見ていたので、自分の手で換えてあげようとしたのだった。
『手が滑っちゃんたんだ』
『うん……花瓶が、割れちゃった……』
『気にしなくていいのよ。それより怪我はしなかった?』
『ううん。でも服がぬれちゃった。ごめんなさい』
『梢ちゃんは、お母さんのためにと、お水を換えようとしたんでしょ』
『うん。でも……』
『お母さんは、梢ちゃんの気持ちだけでも、とっても嬉しいのよ。
 病室の扉がノックされて看護婦が入ってくる。
『大きな音がしましたが、何かありましたか?』
『花瓶を落として割ってしまったので、片付けていただけませんか』
『あ、はい。わかりました』
 看護婦は、椅子の上に立ちすくしている梢を、割れた花瓶のない安全な場所に降ろしてやり、部屋の隅にある掃除道具入れから、ほうきとちりとりを持ち出して、床に散らばった花瓶の破片を片付けはじめる。
『実は梢ちゃんが、わたしのために花瓶のお水を取り替えようとして、落としてしまったんですよ』
『まあ、そうでしたの。梢ちゃん、お利口なのね。お母さんのために、何かするって、とってもいいことよ』
 といって、梢の頭を軽くなでてあげている。
 子供が人の為に何かしようとして失敗した場合、その行為を大いに誉めてあげるべきで、失敗した結果を決して非難してはいけない。子供が失敗するのは当然のこととして、温かく見守ってあげたいものである。そうしないと失敗ばかり恐れて、何も出来ない子供に育ってしまう。
 絵利香だけでなく、第三者の看護婦にまで誉められて、少し落ち着きを取り戻す梢だった。
 梢は反対側のベッドサイドへ移動している。
『梢ちゃん。お片付けは、このお姉さんにまかせて、着替えてらっしゃい』
『でも……』
『わたしは、大丈夫だから。早く、行ってらっしゃい。風邪を引くわよ』
『うん』
『外にもうひとり看護婦のお姉さんがいるから、お部屋まで案内してもらってね』
『わかった』
 後ろ髪を引かれながらも、病室を出ていく梢。

 寝室。
『今日のお洋服はこれがいいかしら。お嬢さまが気に入ればいいけど』
 早苗が梢用のタンスを開けて、衣類を取り出しているところへ、梢が入ってくる。
『お嬢さま、おはようございます』
『おはよう』
『今日は、お早いお目覚めですね。あら、パジャマが濡れているじゃありませんか』
『あのね。お花のお水を換えようとして、花瓶落としちゃったの。それで濡れちゃった』
『まあ、そうだったのですか。すぐに着替えましょうね』
『うん』
『でも、えらいわよ。お花のお水を換えようとしたのは、お母さんのためなんでしょう?』
 梢の着替えを手伝いながら、誉めてあげる早苗。
『えへへ』
 大好きな早苗にも誉めてもらってご満悦の様子だ。失敗して花瓶を割ったことは薄れてきていた。しかしそれでいいのだ。良いことをしようとしたことのほうが大切なのだから。
『これでいいわね。それじゃ、髪を梳いてあげますから、ドレッサーの椅子におすわりください』
『でも……』
 絵利香のことが心配な梢は、着替えが済むと同時に戻りたかったようだ。
『いけませんよ。ちゃんと身支度しないと、お母さんに笑われちゃいますよ』
『ん……速くしてね』
 梢にとっての髪梳きは、毎日欠かさず続けられている朝の日課である。梓ゆずりのしなやかな細い髪も、毎朝の手入れがあってこそ維持できるもので、梓や絵利香の手で丁寧に梳かしてもらっていた。それをしないで絵利香のもとに戻れば、間違いなく注意されるだろうことは、梢にもわかったのだ。
 梢の肩にケープを巻いてから、梓や絵利香に教えられた通りに、注意深く静かにブラシを髪に通しはじめる早苗。
『ほんときれいな髪だわ』
『あのね。梢の髪、ママゆずりなんだって』
 言ってから、母親のことを思い出させてしまって、しまったと思う早苗。しかし、梢は気にしていないようだった。すでに梓のことは過去の思い出になりつつあり、今の梢には絵利香が変わって母親の位置についているからだ。
 梢の髪を丁寧に梳いてあげた後に、可愛いリボンをつけてあげる早苗。実はこのリボンの金具には超小型発振器がついていて、梢が今どこにいるかを、警備室で常時モニターしているのだ。
『はい。いいですよ』
『あのね。病院出る時、迷ったの。それでね、お母さんのお部屋わかんなくなっちゃった』
『うふふ。いいわよ。一緒にいきましょう』
早苗は、にっこりと微笑んで梢に向かって手を差し出す。
『うん』
 その手を握って、歩きだす梢。
 世話役を仰せ付けられるだけあって、早苗の梢への応対は見事としかいえない。誉める・注意する・やさしく誘う、実に要点をついていて、梢が数ヶ月でなついてしまうのも納得がいく。とはいっても、梢錯乱事件のこともあるように、絵利香にはとうてい及ばないのも事実なのだが。いつまでたってもやさしいお姉さんでしかなく、母親代わりには決してなれないのだ。

 梢が病室に戻ると、丁度真理亜も見舞いに来ていた。
『真理亜ちゃん!』
『梢ちゃん!』
 双方ほとんど同時に叫んでいた。
『真理亜ちゃん、ごめんね。梢のせいなの。お母さんが、病気になったのは』
 梢が自分から謝った。
『お母さん?』
 真理亜がけげんそうな表情をして、絵利香をみつめている。
『梢ちゃんのママは、死んじゃったのよ。だから、絵利香がお母さんになったのよ』
 美紀子が真理亜を諭すように言った。
『そんなあ、ひどーい! 絵利香は、真理亜のお母さんなんだから』
『真理亜にはちゃんとママがいるじゃない』
『ママはママ。お母さんはお母さんだもん』
 その時、絵利香が二人の手を結びあわせ、その上に自分の手を重ねて、静かに諭すように語りだした。
『二人とも、これから絵利香が言うことを良く聞きなさい』
 いつもとは違う厳しい口調に、息を飲む二人。
『真理亜ちゃんは、梢ちゃんのママが亡くなったのは知ってるわね』
『うん、知ってる。天国にいっちゃったのよね』
『そうよ。梢ちゃんには、もうママがいないの。だから絵利香がママの代わりに、お母さんになってあげたのよ。真理亜ちゃんだって、ママがいなくなったら寂しいでしょ』
『う、うん』
美紀子に言われるよりも、絵利香の口から言われるほうがはるかに説得力があった。
『絵利香が、梢ちゃんのお母さんになっても、真理亜ちゃんとはこれまで通りよ。一緒に動物園にだって連れていってあげるし、絵本も読んであげるわ』
『ほんと?』
『絵利香が、嘘言ったことあるかな?』
『ううん。ないよ』
『もし真理亜ちゃんが、絵利香をお母さんと呼びたいなら、呼んでもいいわ』
『お母さんって呼んでもいいの?』
『もちろんよ。絵利香はね、真理亜ちゃんと梢ちゃんを差別したくないの。二人には、いつまでも仲良しの姉妹のように育ってほしい。梢ちゃんと、仲良くできるかな?』
『うん。わかった。お母さん』
いきなりお母さんと呼ばれて失笑する絵利香だが、言ったてまえもあるし、しばらくは様子を見ることにする。
『梢ちゃんも、真理亜ちゃんと仲良くしてくれるかな』
『うん、いいよ』
 といって梢は、真理亜に向かって微笑み、真理亜もにっこりと微笑みを返していた。二人の間にあったわだかまりはきれいに消失していた。
『さすがに絵利香ね。二人の心をすっかりまとめ上げちゃったわね』


 大の男達によって寝室に運びこまれる子供用のベッド。
 何事かとそばに寄ってくる子供達。
『危ないから離れてなさい』
 絵利香が注意すると、隣のベッドに乗っかって、うつぶせで頬杖をついて大人達の作業を見守っている。
 絵利香の指示された位置に固定され、続いてベッド用の羽毛布団がセットされる。
『ねえ、お母さん。このベッドは?』
『梢ちゃんと真理亜ちゃんのベッドよ』
 顔を見合わす二人。
『二人とも、小学校に上がるんだから、これからはお母さんのベッドじゃなくて、自分達のベッドで寝て欲しいの』
 それはいずれ個室を与える前段階としての、絵利香の考えだった。今までずっと同じベッドに寝ていたのに、いきなり個室では寂しがるだろうと、まずは絵利香のすぐ隣のベッドで二人で寝てもらうことにした。これなら絵利香の姿が見えるし、いつでも絵利香のそばに戻ることもできるから、安心して眠られるだろうとの配慮である。
『わかった!』
 素直に答える二人。新しいベッドには、やはり興味を覚えるようである。
『絵利香さま、完了いたしました』
『どうもご苦労様です』
『それでは失礼いたします』
 男達は一礼して退室していった。
 早速自分達のベッドに這い上がり、トランポリンのようにして上下に弾ませながら、クッションの感覚を確かめている二人。そのうちに梢がベッドの縁に立って飛び込みの態勢を取ったかと思うと、
『ミサイル発射!』
 と叫びながら、隣のベッドにダイブインする。
『こらこら、危ないからよしなさい』
 絵利香がたしなめる。
『……ん? はーい』
 と返事をする梢だが、その表情から察するに少しも懲りていない様子。絵利香の目を盗んでは、また繰り返しそうだ。
 ……まあ、何にしても。すっかり以前の、活発でやんちゃな梢ちゃんに戻ってくれたようね。もう大丈夫みたい……
 ほっと胸をなで降ろす絵利香であった。

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11
梢ちゃんの非日常 真条寺梓、逝く
2021.08.15

梢ちゃんの非日常 真条寺梓、逝く

 真条寺家の敷地内には、航空機事故に備えて救命救急医療センターが併設されている。PED(陽電子放射断層撮影装置)やMRI(核磁気共鳴断層撮影装置)をはじめとする各種最新診断装置や医療機械を備え、医療スタッフや医療技術も世界最高水準を誇っている。もちろん航空機事故がそうそう起きるはずもないので、救急外来として一般にも門戸は解放されている。
 診療部門において特筆すべき点として、乳幼児特別救急診療部があることである。
 コンロで沸かしていたやかんの熱湯を頭からかぶってしまったとか、階段やベランダから転落して重体になったり、煙草や毒物を飲み込んでしまったなど、乳幼児にありがちな事故に対応する専門の診療部である。麻酔装置や人工心肺装置に血液交換器などの医療器械はもちろんのこと、メス・ピンセット・鉤・止血鉗子そして手術台にいたる各種手術用具までもが、乳幼児専用に特注製造したものが配置されているのだ。小さな身体に大人用の手術台などは、大きすぎて邪魔になるだけである。
 投薬の分量一つとっても、厳密にしなければ命に関わるほどデリケートな身体、大人に処置した方法が乳幼児に使えるとは限らない。年齢・体重・体力・体調に応じた適切な処置を施さなければならない。
 また最近は幼児虐待による救急患者も急増しており、身体的治療が済んだ後には、養護施設へ場所を移動しての精神面での治療も大切になってきている。
 乳幼児診療部は、梓の誕生と同時に発足した経緯がある。渚の親心から、一人娘の梓に万が一の事故が起きた時のために、いかなる症状をも完璧に治療できるように、小児科はもちろんの事、脳神経科・循環器科・胃腸科・内科・皮膚科・麻酔科・放射線科などから医療スタッフが集められたのである。現在は梓に代わって、娘の梢がその対象になっている。発足当初は、小児科医以外は乳幼児に不慣れな医者や技術者の寄せ集めでしかなかったが、救急診療を数多くこなすうちに、成功と失敗の積み重ねの中から、膨大な乳幼児診療マニュアルが集大成され、医療スタッフ達はスペシャリストへと育っていった。医師団64名、研修医26名、看護士160名、医療器械技師34名、薬剤師12名、事務系職員18名など、総勢300余名にも及ぶ大学病院並みの組織を誇っている。
 医師団の勤務体制は、当直・待機・準待機・休日の勤務レベルがあって、勤務時間として当直医は、日勤(12名)・夜勤(12名)・深夜勤(16名)の三交代制。その他の医療スタッフも、それに準じている。深夜勤の当直が多いのは、夜間は診療終了している一般の病院の分を補うためである。
 現在では全米はおろか世界各地からも、その高度の医療技術を頼って、真条寺空港を経て乳幼児患者が運びこまれるようになっている。搬送に必要な生命維持装置や各種治療器械を備え、簡単な応急手術さえも可能な「空飛ぶ病院」との別称がある救命救急のための専用ジャンボジェット機も就航している。もちろん医者団が現地に赴いて直接診療することも可能である。


 救急治療が本道であるが、真条寺家の人々の日常生活に発祥する多種の病気や事故に対する治療も行っている。


 医療センターのICU(集中治療室)のベッドに横たわる梓。
 人工呼吸器に接続されて、その表情も生気がなく青ざめている。
 隔離された隣室のガラス越しにその様子を窺っている渚と麗香。

「麗香さん、本当にご苦労様。あなたは部屋に戻って休みなさい。梢ちゃんは、私が面倒みますから」
「いいえ。わたしは……」
 梢の世話をするのは、梢専属の世話役が任命されるまでは麗香の担当だった。引き続き世話をするつもりだった。
「だめですよ。あなたは緊張の連続で気がつかないだけです。梓を気遣うばかりで、あなた自身が相当疲れていることにね。これは命令ですよ」
「わかりました。部屋に戻ります」
 病室を出て、屋敷に向かう麗香。

 自分の部屋に戻った麗香。
 ふうっと大きなため息をつき、今になって肩の荷を降ろした感じを覚えるのだ。
「梓さま……」
 ベッドの縁に腰掛け、ぱたんと後ろ向きに倒れこみ、そのまま眠ってしまった。渚の言うとおり、満身創痍、心身ともども疲れ切っていたのだった。


 病室。
 梢が泣いている。
 ベッドで眠っている梓が、その泣き声に目を覚まされる。そばのベビーベッドから聞こえる泣き声。その調子で、お腹を空かしていると直感していた。
「梢ちゃん……? ミルクをあげなくちゃ」
 起き上がろうとするが、
「痛い!」
 腕の痛みに右手を見てみると、点滴の針が刺さっているのに気づく。
 しばし、状況判断がつかめなかったが、
「そうか……あたし達、助かったのね」
 身代金誘拐の人質になっていたことを思い起こしていた。
 ひときわ高くなる梢の泣き声。母親の気配を感じて、催促しているようだった。
「あ。ごめんなさい、梢ちゃん。お腹空かしてるのよね」
 力の入らない両腕でふんばって、何とかベッドの縁に腰掛け、梢を抱き上げる梓。
 胸をはだけて乳首を梢の口にふくませると、一心不乱に飲みはじめる。
「良かったね、梢ちゃん。あたし達助かったのよ」


 それは、梓が見ていた夢だった。
 目が覚める梓。
 天井が見えている。
 どこからともなく聞こえてくる機械的な音。
「ここはどこだろう?」
 と首を回そうとしたが、
「動かない?」
 手足を動かそうとしてみてもやはりダメだった。
 首から下が麻痺しているようだった。
 微かな足音が聞こえる。
 患者の様子見と計器の管理をしている看護師だ。
「しかし暑いわねえ。体温調整できない患者さんのために室温を上げてるとはいえ、そこで働くもののことも考えてほしいわ」
 看護婦が、生命維持装置に流入するぶどう糖の入ったバックを取り替えている。そして、その患者である梓に視線を移した時だった。
「まったく……え?」
 看護師が、眼を見開いて天井を見つめている梓に気が付いた。
「たいへん!」
 ベッド傍のナースコールを押す。


 その頃、主治医となった教授の部屋で説明を受けている渚、絵利香、麗香の三人。
 MRIなどの画像データを参照しながら、
「……と、このように銃弾が延髄に突き刺さっており、全身麻痺を起こしているようです」
「銃弾を摘出できないのですか?」
「それは無理です。今でもギリギリで生命維持している状態でして、摘出手術すればさらに脳幹に損傷を与える可能性が大です」
 銃弾が摘出できなければ、発射された銃の特定ができない。
 犯人たちが撃ったのか、流れ弾が当たったのか……。
「回復する見込みはありますか?」
 絵利香が尋ねるが、教授は静かに首を横に振った。
「現在のところ、大脳の活動は何とか保たれていますが、脳幹に障害がある場合はいずれ大脳も活動停止に陥る可能性が大です」
 暗く押し黙る一同。
 その時、教授のPHSが鳴った。
* 法人用PHSは2023年3月末終了。
「私だ……。なんだと! それは本当か? 分かった、今すぐそちらに行く!」
 何事かと教授の顔を見つめる一同。
「今しがた、梓さまの意識が戻られたそうです」
「なんですって!」
 驚きの表情で見つめあう一同。
「何はともわれ、ICUへ急ぎましょう」
 意識を取り戻したとしても、一過性のものである可能性が高い。
 大急ぎでICUへと駆け出した。

 ICUに入室して、梓の容態を診察している教授。
 ガラス一つ隔てた隣室で待機していると、
「どうぞお入りください」
 と、入室を許可される。
 梓のベッドを取り囲む一同。
「梓」
 渚が声を掛けるが反応はない。
 目を開けたまま天井を見つめたままだった。

「まったく信じられません。こんなほぼ脳死状態から意識を取り戻すなんて、奇跡としかいいようがありません。普通じゃ、ありえないことです」
「梓は、二人分の精神力を持っているのよ。それくらいできないことじゃない」
「しかし、あくまで意識が戻ったというだけですから。すでに脳幹部の大半は機能停止しており回復の可能性はありません。この状態から生還する見込みは、限りなくゼロに近いです」
「判っているわよ。この状態で意識を維持するには、強靱な精神力がなければできないわ。死んでしまう前に、何か重要なことを言い残したいのよ。だから死の淵から舞い戻ってきたのよ」
「死んでしまう前にって……患者がそんなこと判断できませんよ」
「普通の人間ならね。とにかく、本人に確認すればわかることよ」
 ベッドサイドに歩み寄って梓に声をかける絵利香。
「梓。梓、聞こえる?」
 梓がゆっくりと声のする絵利香の方にゆっくりと向き直った。そして、唇を動かして何かを伝えようとしている、しかし肺は機能停止しており、息を出して声帯を震わせ発声することができない。
「ごめんなさい。あなたは、声が出せないみたい。でも、わたしの言うことが判るわよね? 判ったら瞬きをしてみて」
 絵利香の問いかけに答えるように、ゆっくりと瞬きをしてみせる梓。
「何か言い残したいことがあるのよね?」
 瞬き。
「それは梢ちゃんによね」
 瞬き。
「判ったわ。何とかするから、それまで頑張るのよ。いい?」
 瞬き。
「おばさま、梓は気が付いていますわ」
 思わず歓喜の声を漏らす絵利香。
 今度は、渚に代わった。
「お母さんよ。分かる?」
 そして再び瞬き一回。
 よく見ると、眼球も少しだが動いているようだった。

「これはどういうことですか?」
 渚が教授に質問する。
「筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病をご存じでしょうか?」
「存じております。体を動かすための筋肉が痩せていく病気で、筋肉そのものではなく、運動神経系が選択的に障害を受ける進行性の神経疾患です。最終的には、人工呼吸器に繋がれて意識を伝達することもできなくなります」
「梓さまは、その病気の最終段階に入った状態に似ております。意識はあるのですが、神経系が切断されているために、意思を伝えることができないのです」

「おばさま、ALS患者用のコミュニケーションツールとスタッフを用意していただけませんか? 視線の動きと瞬きで会話できる装置がどこかで開発されていたと思います、大至急しらべて取り寄せてくださいませんか。一分一秒を急ぎます、ありとあらゆる方法を使って、梓の命が尽きないうちに」
「分かりました。ただちに手配しましょう」
 そして改めて梓に伝える。
「今ね。視線の動きとまばたきで、会話できる装置を至急取り寄せているところなの。それがあれば、梢ちゃんにも言いたいことを伝えられるわ。もう少し待っていてくれるかしら」
 天井を向いたまま、まばたきする梓。
「梓、いいこと。辛いかもしれないけど、どんなに眠くなっても眠っちゃだめよ。そのまま永遠に眠ってしまうかも知れないから。歯を食いしばって起きていて、わかった?」
 分かったと瞬きをする梓。

 意思疎通のために、
 YESの時は瞬きする。
 NOの時は、上を向く。
 それが梓との会話のルールとなった。

 意識が戻ったというだけでも奇跡的なことだというのに、意識を維持していることがいかに辛いことか、それを眠るなという過酷な指示を出さねばならない絵利香。そしてその真意をくんで答えようとする梓。二十年来もの長きに渡って築き上げられた絶大なる信頼関係がそこに存在していたからこそのことであった。
 これはもう梓の精神力がいつまで持つかの、時間との勝負である。
 涙が溢れそうだった。
 しかし泣いている場合ではない。
 辛く悲しくても、今の梓に比べれば大したことはない。


 梓が何度も間断なく瞬きをしている。まぶたが重くて開けているのが辛いという表情であった。横になったまま、何もしていなければ、眠くなるのは当然である。
「いけない。眠くなってきたんだわ」
 眠気を催している時に、まぶたを閉じていると、人はそのまま眠ってしまうものである。だから梓は、必死でそれをこらえようとしているのだった。
「ねえ、梓。昔ばなしをしましょう。梓は聞いているだけでいいわ。答えようとしなくていい。だから、まぶたをしっかりと開けて聞いていて」
 絵利香は、梓と一緒に暮らしたスベリニアン校舎の話をはじめた。

「血糖値が下がってきました」
 生命維持装置を監視していた医師が告げた。
「ぶどう糖の投入速度を少し速めよう」
 主治医が指示を伝える。
 大脳は、ぶどう糖を大量消費する組織である。かといって血糖値を上げ過ぎてはいけないし、低すぎてもいけない。常に正常値を維持しなければならない。
 しかし梓には、インシュリンやアドレナリンを分泌する機能を消失しており、ぶどう糖を肝臓や筋肉中から放出して血糖値を管理する能力がない。ゆえにつねに血糖値を監視する必要があり、必要に応じてぶどう糖を投入しなければならない。
 血糖値が下がったせいなのか、大脳活動が低下し、梓がまぶたを閉じる時間が長くなってきていた。
「ドクター!」
「申し訳ありません。血糖値が上がるのにもうしばらくかかります。ショックを防ぐために、急激には上げられないのです」
 このままでは、眠ってしまう。そう判断した絵利香は、梓の頬を何度も叩いて目を開かせようとした。
「梓、しっかりして! 目を開けて! 梢ちゃんに言い残したいことがあるんでしょう! だから、目を開けるの!」
 梢の名前を聞いて、はっと我にかえる梓。再び目をしっかりと開いて絵利香を見つめる。
「そう。それでいいわ」


 絵利香が、梓が眠らないように激励している頃、麗香は会話装置の入手に成功、帰還の途中であった。
 そのジェットヘリの機内、防音ヘッドフォンを耳にあてがい、会話装置の調整をつづけている麗香。病院にたどり着くまでの間に、装置の音声パターンを、梓の音声に限りなく近くなるように微調整を続けていた。
「病院が見えてきました」
「屋上のヘリポートに降りてください」
 ヘリポートにジェットヘリが降下をはじめた。
 その様子は、ICUの窓からも見える。ジェットヘリの機体に、AFCのマークを確認した絵利香は、梓に伝えた。
「会話装置が届いたわよ。もうしばらくの辛抱よ」

 早速ICUに会話装置が運びこまれ、技術者によって手際よく端子類が接続されていく。視線の動きを感知するセンサー、まばたきを感知するセンサーなど、各種のセンサーが梓の頭部に取り付けられる。麗香は、音声合成装置の最終調整を続け、よりいっそう梓の音質に近づけようと努力している。その間に技術者から説明を受ける絵利香。
 会話装置の準備が終了する。
「接続が完了したわ。梓、いいかしら。視線方向にレーザーが出るから、文字を拾って瞬きすれば確定、確定文字が液晶表示に出るわ。間違えたらBSで戻して、必要な文字をすべて入力したらENTERで瞬きすれば、音声になって出るわ。やってみて」
 絵利香の説明通りに、視線を動かし瞬きして文字を入力しはじめる梓。
 そして、
『ありがとう、えりか』
 入力された文字が、一言一句音声となってスピーカーから流れてくる。
「成功よ。ちゃんと聞こえているわよ。これなら梢ちゃんにも意志を伝えられるわ」
『みんなをいれて。ただ、こずえはもうすこしあとにして』
「わかった」
 梓の指示通りに、梢以外の一同を入れる絵利香。その間、梢は専属メイドに預けることになった。
『えりか、おねがいがあるの』
「なに? 言ってみて」
『あたしは、もうだめ。だから、これからさきのこと。こずえの、ははおやになってほしいの』
「梢ちゃんの、母親に?」
『こずえには、まだははおやが、ひつようなの。たのめるのは、えりかしかいない』
「判ったわ。梢ちゃんのことは、まかせて。大人になるまでしっかり育ててあげるわ」
 梓に頼まれるまでもなく、その回復が絶望と知らされた時点で、絵利香は梢の世話をする覚悟を決めていた。母親を失うことになる梢の心を癒すことのできるのは自分以外にないと思った。

 梢は、母親と同年齢の絵利香になついていた。梓以外に絵本を読んでとせがむ唯一の人物でもあり、母親と同質のものを感じていたようである。ママの次に大好きな人は誰? と尋ねると必ず絵利香と答える梢。パパでもグラン・マでもない。絵利香が梓のもとに泊まりにきた時は、一緒に寝ようとせがみ、絵利香と梓の間に川の字になって、ベッドに入っては、
「えへへ、ママが二人だよ」
 とはしゃいでいた。
 だからこそ、梓は自分の亡き後のことは、絵利香に委ねる以外にないと判断したのである。

『ありがとう、えりか。これで、なにもしんぱいはいらない』
 梓の瞳から涙が流れている。それをハンカチで拭ってやる絵利香。
『れいかさん。いる?』
「はい。ここにいます」
『いままで、いろいろとむりをいってごめんなさい』
「いえ、そんなこと」
『いまのあたしがあるのは、れいかさんが、いっしょうけんめいに、きょういくしてくれたからです。ほんとうにかんしゃしています』
「梓さまは、妹のように思っていましたから。何も気にすることはありません」
『ありがとう』
 しばらく無言が続いた。
『おかあさん』
「ここにいますよ。梓」
『あたしを、うんでそだててくれて、ありがとう。さきにいってしまうことを、ゆるしてほしい。おやこうこう、できなくてごめんなさい』
「親孝行なら十分してもらったわよ。気にすることはないわ」
『こずえのこと、おねがいします。えりかのそうだんあいてになってあげてください」
「もちろんよ。絵利香さんだけには、苦労させないわ」

『みんな、ありがとう。こずえをよんでくれないかしら』
 梢がICU内に迎え入れられる。
「ママ!」
 梓のベッドサイドに駆け寄る梢。
『こずえちゃん。ままはもう、あなたのそばにいることができません。これからは、えりかやぐらんまのいうことをよくきくのよ。そしてえりかを、おかあさんとおもって、なかよくくらしていくの』
「おかあさん?」
 梢は、ママとおかあさんという言葉が、ほぼ同義語なのを理解している。自分だけのおかあさんが、ママなのだと思っているのだ。
『こずえちゃんは、えりかがだいすきよね』
「うん。ママの次に大好きだよ」
『だからね。ままがしんだら、えりかがおかあさんになるの』
「いやだ。ママ、死んじゃいやだ」
 死という言葉を聞いてたまらず泣き声を出す梢。絵利香が少しでも梢の気を安らげようとその肩に手を置いている。
『なかないで。こずえちゃんが、なくと、ままは、かなしくなるの』
 梓の右手がゆっくりと動いて、梢の頭をなではじめた。
「馬鹿な! 腕が動くはずがないんだ」
 医者が信じられないといった表情で叫んだ。
「最後の精神力を振り絞って動かしているのよ。念動力と言っていいかもしれない」

「ママの手、冷たいよ」
 母親の手に触った梢が不安な声で言った。
 自律神経系が機能していないため、身体は正常な体温を維持することができないのだ。また、大脳活動を維持するだけのぶどう糖しか投与されていないので、発熱量が少ないことにもよる。
『ごめんなさいね。ままのからだは、もうしんでいるの』
「死んでる?」
『そうよ。だからからだはつめたいし、こずえちゃんのぬくもりも、かんじることができないの』
「ママ……」
『もういちど、いうわ。えりかをおかあさんとおもって、なかよくくらしていくのよ。ままのさいごのおねがいなの。わかるわよね、こずえちゃん』
 梢が絵利香を見上げて答える。
「うん。わかった……」
『そうよ。こずえはおりこうだものね』
「ママ」

 じっと天井を見つめていたが、やがてゆっくりと操作をはじめる。
『もうこれで、おもいのこすことはなにもない。ありがとう』
 そして静かに瞼を閉じる梓。
 最後の言葉が入力され、閉じられたまぶたはもはや二度と開く気配はなかった。
 脳波計の波形がしだいに弱まっていき、そして完全な平坦になる。
「脳波が消えました。完全な脳死状態です。いかがなされますか?」
「もう、十分です。生命維持装置をはずしてください」
「かしこまりました」
 静かに手際よく生命維持装置や脳波計が外されていく。
 そして、念のために脈が計られて、
「ご臨終です。午後三時二十二分三十五秒」
 と臨床医の死亡宣告が行われ、静かに梓の顔に白い布が掛けられる。
「梓……」
「ママ、ママ、ママー!」
 梢の悲痛な叫びがこだまする。
 梢に涙を見せないように、必死でこらえている人々。


 ー真条寺梓ー


 波乱万丈の末に、壮絶ともいえる死の淵をさまよい、愛娘の梢を残し逝ってしまった、まだうら若き二十四歳の人生の最期。
 梓のたましいが、やすらかな眠りにつくことを切に願おう。
 そして、残された梢と家族達の未来に幸あらんことを祈ろう。



 予告/ルナリアン戦記

 十二年後。
 月世界は真条寺財閥の手によって開発が進められ、
 真条寺家当主となった梢は、月世界共和国「ルナリア」を建国し独立宣言を行う。
 母親の梓を死に至らしめた黒幕である神条寺家に対して宣戦布告をするのだった。

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11
梢ちゃんの非日常 梢ちゃん誘拐される!
2021.08.14

 梓ちゃん誘拐される!

 ニューヨーク市街。
 けたたましくパトカーがサイレンを鳴らして、ある一点に収束するように向かっていた。
 そこは、とある廃ビル。
 すでに十数台のパトカーが取り囲み、サーチライトが当てられていた。
「海兵隊の到着はまだか?」
 ここの現場を取り仕切るニューヨーク市警コードウェル署長。

 そのビルの近くに、GM社製キャデラック・エルドラド・フリートウッドが停車しており、運転手の白井が立ち尽くしていた。
 そこへフェラーリ・F50・クーペ・ベルリネット(五十周年記念特別仕様車)が颯爽と登場してくる。
 車から降りてきたのは、凛々しくも美しい容姿をした竜崎麗香。
 そしてフリートウッドの運転手に質問を投げかける。
「白井。説明してください」
 汗を拭き拭き、事の成り行きを弁明する白井。

■ 事の成り行きはこうだった。

 梢と梓が用を済ませて建物から出て、歩道からフリートウッドに乗車しようとする寸前だった。
 猛スピードで走る大型バイクが歩道上に乗り上げ、二人に接近したかと思うと、梢を抱きかかえて走り抜けた。さらに五十メートル先には、ナンバープレートを隠した黒塗りの車が待機していて、梢はその車に移乗させられて走り去ってしまったのである。
 一瞬の誘拐事件に、梓そして周辺で密かに警護任務に当たっていたSPも対処する暇もなかった。
「梢の髪飾りに付いている発信機の信号を追ってください!」
 白石に指示してフリートウッドに乗車する梓。
 梓がそうであったように、梢にも居場所を知らせる発信機が付けられている。
 発信機は宇宙空間にある人工衛星によって常に監視されているが、そのデータはフリートウッド車内のナビゲーションシステム上に表示することができる。
 ナビのマップ上を、梢の位置を知らせる赤い点滅と、追いかけるフリートウッドの青い点滅が動き回っている。
 やがて赤い点滅が一か所で止まった。
 そこは廃墟となったビルだった。
 玄関脇には、梢を浚ったバイクと自動車も乗り捨てられていた。
 ナンバープレートから所有者を特定できるだろうが、どうせ盗難車であろう。
「私たちが後を追いかけているのには気づいているはずよね」
「おそらくは」
「つまりは、娘を返して欲しくば一人で入ってこい! ってところでしょうか?」
「まさか! お一人で行かれるおつもりですか? 救援を待った方が……」
「でも娘は恐怖に怯えながらも、母親の私を待っているのです。一刻一秒も待ってはいられません」
「しかし……」
「あなたは、救援がくるのを待っていてください」
 すでに真条寺渚と警察には、この事態を連絡済みである。
「わかりました。お気をつけて」
 梓が一度言いだしたことには絶対服従な白石だった。
 気を引き締めて、建物の中へと入ってゆく梓。
 手には三次元レーダーを手にしている。
 平面だけでなく上下方向にも探知できるもので、ビル内で梢が迷子になった場合などに備えて常備していた。
 何もないコンクリートのビル内を探索する梓の靴音だけが響いている。
 階段そばに立つと、信号は上方向を指している。
「どうやら最上階のようね」
 周囲に警戒を張り巡らしながら、階段を慎重に登ってゆく。
 途中誰にも会わずに最上階へと到達した。
「この部屋かしら?」
 探知機の信号は間違いなく、その部屋を指示していた。
 バッグの中に探知機をしまって、扉脇に置いた。
 深呼吸をして、静かに扉の取っ手を回した。
「ママ!」
 梓の姿を見て梢が叫ぶ。
「梢ちゃん!」
 駆け寄ろうとした時に、ドア側に隠れていた男たちに制止された。
「動くな!」
 銃を突き付けられ身動きできなかった。
「何が目的ですか?」
 梢を拘束している、首謀者らしき人物に尋ねてみる。
「そうだな。まずは百億ドル相当のビットコインを用意してもらおうかな」
「ビットコイン?」
「そうだ。現ナマは足が付きやすいし、運ぶのも大変だからな」
 取引所でのビットコイン送金には、一日10~20TBCまでと制限があるが、個人間の送金には制限はない。
 足が付くと言っていたが、ビットコインもアカウント間の入出金の流れは記録として保存されており、現金として降ろしても足が付くのは同じである。
「それだけの金額を提示するということは、私が誰かも知っているわけだな」
「ああ、総資産六十五兆ドルの真条寺家財閥の当主だろ? 百億ドルなどはした金だろうな」
「そんな大金、あなた達には使いきれないでしょ。つまり裏に黒幕の組織がいるということね」
 もし巨大な組織なら現金化できるかもしれないが、百億などはした金に過ぎない。払うのか払わないのか、その反応を見るためだけの行為なのかもしれない。その黒幕の組織が何者かは、薄々と感じていた梓だった。
「そんなことはどうでもいい! 出すのか出さないのか?」
「いいでしょう。出しましょう。で、逃走の乗り物も要求するのよね」
「話が早いな、その通りだ。と言いたいが、すでに屋上にヘリが待機しているよ」
「用意がいいのね」
「まあな。但し、ヘリに乗るのはおまえらだ」
「どういうことよ?」
「簡単な話だ。例えヘリで逃げても、追撃を交わすのは不可能だろう。最悪撃墜されてしまうからな」
「可能性は高いわね」
「そこでだ。自動操縦設定になってるヘリにおまえらを乗せて飛んでもらう。ビルの周囲を取り囲んでいる奴らは、当然俺たちが逃走したと思ってヘリを追いかけるだろう」
「このビル内にも捜索隊が入るわよ」
「大丈夫だ。実は、隠し部屋があるんだよ。絶対に気づかれない秘密のな。そこで息を潜めていて、捜索隊が撤収した後でなら歩いて脱出できるというわけさ」
「私達が乗ったヘリが撃墜される可能性は考慮しないのね」
「ああ、先のことは関知しない。運を天に任せるんだな」
「冷たいのね」
「さあ、ママの所に行くんだよ」
 梢の拘束を解く男。
「ママあ~!」
 駆け出して梓の胸に飛び込む梢。
「梢、怖かったでしょ。もう大丈夫よ」
「うん」
 小さな身体が小刻みに震えている。
「さあ、感動の再会を果たしたところで、ビットコインの送金をしてもらおうか。ここにパソコンがあるから使いたまえ」
 机の上にあるパソコンを指して命令する男。
「分かったわよ。ただ、私はビットコインを直接扱ったことがないから、屋敷のものに指示するメールを送ってもいいかな」
「いいだろう」
 男が指定するアカウントに送金するように、麗香宛にメールを送る梓。
 しばらくすると、パソコンの男のものだと思われるアカウントに入金の表示が現れた。
「入金を確認した。それでは予定通り、屋上に上がってもらうか」
「まだ出発の準備が出来ていないぞ」
 別の男が注意した。
「そうか……。なら、準備が整うまで座っていろ。妙な動きをしたら撃つからな」
「わかったわよ」
 男が指し示す窓際に腰を降ろす梓と梢。


 暴漢達と対峙しながらも、梓は一つのことを考えていた。
 誘拐事件は、渚の元にも知らされているはずだ。
 手をこまねいているはずがない。
 何らかの行動を起こしているはずだ。
「さてと、お母さんはどう出てくるかな」
 まず最初に思い浮かんだのは、宇宙空間に浮かぶ十三基のあずさシリーズの人工衛星。そのすべてが何らかの機能をもって、自分の行動を監視していことを知らされた時は驚いたものだった。光化学式超高解像度の地上監視カメラによる映像監視ができる予備機を含めた八基の資源探査気象衛星「AZUSA」と、高性能のGPS位置情報を梓の持つ携帯電話や、ファンタムⅥとフリートウッドのナビシステムに地図情報として送り届ける五基の超高速・大容量通信衛星「あずさ」である。国際的公共衛星としての役割を果たしながらも、その裏で私的に活用されてきた両機種であった。
「まったくお母さんたら、あたしに内緒でよくもまあやってくれたものだわ。公私混同も甚だしいじゃない。といってみても、娘を心配する母親としては当然なのだろうけど、財力に物を言わせるのは反則行為かもね」

 人質救出作戦で必要なのは、ビルの正確な見取り図と周辺の地理。そして人質のいる正確な場所である。
「まずはビルの正確な見取り図と周辺の地理は、通信衛星あずさのナビゲーションシステムを利用すれば何とかなるとして……。問題は、あたし達のいる正確な場所をどうやって知るかね」
 天井を仰ぐ梓。
「ほぼ六時間ごとに周回を繰り返す「AZUSA」には、遠赤外線探査レーダーが搭載されていたわね。遠赤外線なら壁を通過してあたし達の体温を感知できるはず。各機と予備機を使えば連続的に同時探査ができるのよね。両極回りコースを通る太陽フレア観測機「なぎさ」三号・四号機を姿勢制御して搭載された遠赤外線レーダーを地上に合わせれば三点探査が可能になる。三方向からの遠赤外線レーダー探査のデータをコンピューター処理すれば、ビル内の人物の正確な位置情報がつかめる」
 梓は、飛行機が太平洋の孤島に墜落して、鍾乳洞に閉じこめられた時のことを思い出していた。あの時の探索にも「AZUSA」搭載の遠赤外線レーダーが使用された。梓の考えた理論が果たして正しいのか、ましてや同様のことを渚が考えついているかも、まったくの不明である。
 しかし信じるしか道は残されていなかった。
「後は、救出作戦の突入路をどこにとるかということと、人質であるあたし達がどこにいれば最も安全かということね」
 突入には最も容易と思われるベランダに面した南側には四人の犯人が監視して立っている。北側の小さな窓には犯人が一人で、窓枠の下に座り込んでいる梓の監視役として張り付いている。その窓の向こうには五メートルと離れずに窓のまったくない隣の雑居ビルがあり、屋上にも犯人がいる関係上ここからの進入は通常不可能と思われる。そして、西側にある昇降階段には犯人が一人。東側は何もない壁である。もちろん上下の階には他に多数の犯人がたむろしていると思われる。もちろんすべての犯人が銃火機を携帯しているのは言うまでもない。
 犯人と梓達の位置関係はざっとそんなところだ。
 突入路はどこからか?
 西側の階段を登ってくるのは人的被害甚大で、時間もかかりその間に人質の命は失われる。戦闘ヘリなど使って南側の窓から進入しても、銃撃戦となって室内の人質に流れ弾が当たるのを防ぐことは出来ない。東側の壁を突き破る作戦は論外である。
 となると残るは北側の窓しか残らないが、隣の雑居ビルが邪魔になっている。この狭い間隙を進撃できる航空機は、今の梓には考えがつかない。小型で垂直上下移動のできる旋回半径が極小な高速VTOL機があれば、ここからでも突入が可能なのだが……敵の裏をかいて救出作戦の確率も高くなる。
「でももしかしたら、大統領も一目置いているお母さんの事だもの。アメリカ軍や民間航空産業界が所有する航空機、研究中の試作機まで含めて、すべての資料を検討して最良の答えを導きだしているかもしれない」
 梓は、母親である渚が突入路として選ぶのが北側の窓と結論した。その手段は判らないが、人質としてもっとも安全な場所はどこだろうと考えた時、北東の隅が一番だというのはすぐにわかった。そこなら銃撃戦になっても流れ弾に当たる確率が最も低い。

「梢ちゃん、おしっこはしたくない?」
 あえて男たちに聞こえるように促す梓。
 前回用を足してからかなりの時間が経っている。
 そろそろ尿意を感じることだと思ったのだ。
「うん。したい」
 素直に答える梢。
「動くな!」
「娘が催したのよ。どうせトイレには行かせてくれないんでしょ。部屋の隅でさせてもらうわ」
「我慢できないのか?」
「子供ができるわけないじゃない」
「ちっ! 変な真似するなよ」
 部屋の隅に移動する梓と梢。
 男の一人が付いてくる。
「ちょっと、離れなさいよ。たとえ赤ちゃんでも女の子よ。少しはデリカシーを持ちなさいよ」
 と梓が強い口調で言い放つと、渋々といった表情を見せて、ベランダ側に移動して行く。娘を連れた母親には何もできないと知っているからだ。
 これで死角に入ったはずだ。



 梓が人質になっているビルから、雑居ビルを挟んだ空き地に二機のジェット戦闘ヘリと一機の超小型VTOL機が待機していた。犯人達に気づかれないように大型トレーラーで搬送されて、この地に到着して整備され、出撃を待っている。
 超小型のVTOL機。その機体の名前は、スカイ・スナイパー。
 アメリカでの軍需産業部門を率いる篠崎重工アメリカが設計し、AFC財団が資金を出して開発中の機体だ。
 空からの狙撃者という意味のそれは、ジャングルに潜むゲリラの掃討用に開発中の小型ジェット戦闘VTOL機の試作機だった。生い茂る木々をかき分け、自由自在な旋回能力を発揮して高速移動しながらゲリラを掃討する。ベトナム戦争以来、森や山岳に潜むゲリラに業を煮やしている米軍が、喉から手が出るほど欲しがる機体だ。しかし研究開発できる企業が存在しなかったため今日にいたっている。
 財団を梓に譲る以前の渚が、アメリカ軍需産業に進出した時に、米軍から依頼を受け開発に着手した。アメリカの軍需産業に日本企業が進出するのは、少なからぬ問題が発生するために、当初篠崎重工が開発していたが、梓がAFCと篠崎重工が資本提携したアメリカ国籍企業である、篠崎重工アメリカを立ち上げたときに、そのまま移行してきたものだ。初代CEO(最高経営責任者)には篠崎重工元専務である花岡一郎が就任している。
 現在、渚が相談役に退いてもその開発は引き続き行われていた。もちろん清楚なイメージを持つ梓にはふさわしくないということで、娘に知らされることなく極秘理に進められていた。
 なお、現在空席の篠崎重工の専務には、現在進められている絵利香の婿養子選びを待って決定されることになっている。


「渚さま、スカイ・スナイパーの準備が整いました。いつでも出撃可能です」
 執務室に、現地で陣頭指揮をとる麗香からの報告が届く。
「わかりました。そのまま待機させておいてください」
 目の前のパネルスクリーンには、梓母娘が人質になっているビルの、精密な三次元投影画像が映しだされている。動いている赤い点滅は犯人達の現在位置を示しており、五階の窓際に動かないままの青い点滅が梓母娘を示している。
 この映像は数台の人工衛星からの遠赤外線レーダーのデータを、十台のスーパーコンピューターを並列結合し超高速演算して、リアルタイムな映像として現れるようにしたものである。この映像は通信衛星「あずさ」一号機を介して、現地のフリートウッドのナビゲーションシステムにも転送されて、麗香に伝えられている。
「問題は、梓さまに張り付いている一人の犯人ですね。こいつがそばにいる限り突入は不可能です」
 青い点滅のそばで点滅する赤い点を示している恵美子。
「それと梓さまのいらっしゃる場所も問題です。この位置では銃撃戦の巻き添えになります。一番安全な北東の隅でないと」
「何とか梓さまに連絡がとれればいいのですが……」
 人質となっていることで、突入の機会が難しくなっている。

 現地で指揮を執る麗香も落ち着けない。
 陸軍から戦術コンピューターの搭載された戦闘指揮車が派遣されてきていた。
 中には、ずらりと液晶ディスプレイが並び、ビルの外観映像はもちろんのこと、内部見取り図と敵の配置図などが表示されている。
 スナイパーや戦闘ヘリの位置も一目瞭然。合図一つですぐにでも動き出せる状態だった。

「気丈で精神力のある方の梓さまが出ておられると助かるのだけど……」
 何とか、梓の方で行動を起こしてくれたらと願う麗香だった。

 だが次の瞬間事態が急変したことに気づく。
 戦闘指揮車のオペレーターが知らせる。
「あ! 見てください。梓さまが北東に移動しています。しかも張り付いていた犯人もベランダの方に」
「梓は、わたし達の計画に気づいているんだわ」
「今がチャンスです」
「そうね。突入して下さい」
「はい。突入開始します」
 麗香の攻撃命令以下、二台のジェット戦闘ヘリと超小型VTOL機がエンジンを轟かせながら発進した。

 ビルの中。
 突然沸き起こる大きな音と、微かに揺れるビルに何事かと窓の外を眺める犯人達。屋上でジェット戦闘ヘリによる最初の銃撃戦が開始されたのだ。屋上に強襲着陸する目的と、五階の窓に向かうVTOL機が屋上から攻撃されないための第一波攻撃だった。
 梓はとっさに梢をしっかりと抱きかかえると身体を小さく屈めた。たとえ自分の身体に流れ弾が当たっても、決して梢には当たらないようにしている。
 犯人達の背後の北側の窓に、突然出現した一台の超小型VTOL機。その機銃の銃口から一斉掃射される弾丸。耳をつんざくような銃撃音の中、梓は梢を抱いたまま微動だにしない。一斉射撃が止み銃口を階段に向けたままホバリング状態にはいるVTOL機。次には、さらにもう一台のジェット戦闘ヘリがベランダ側に出現して、ロープが降ろされて中から四人の兵士が飛び降りてきた。倒れている犯人達を乗り越え、梓の側にやってくる。
「梓さま、大丈夫ですか?」
 ゆっくりと振り返る梓。
「こちら突入部隊。梓さまを確保しました。母子ともご無事です」
「よし、一人は梓さまをヘリに回収して脱出しろ」
「残る三人は、屋上強襲班と共に犯人の掃討にあたれ。他の階から犯人達がその階に移動している、一人残らず射殺しろ」
 兵士の一人が梓をベランダに連れていき、ヘリから垂らされているロープにしっかりと梓を結わえると言った。
「お子様を、お渡しください」
 上昇時のショックで子供を振り落とすことを心配したからだが、梓は黙り込み梢をしっかり抱きかかえたまま離そうとはしない。
「わかりました。絶対に離さないでくださいよ」
 兵士がヘリに合図をすると、ロープがするすると巻き上げられ、梓母娘は無事にヘリに回収された。
 そこには麗香が待ち受けていた。
「梓さま! ご無事で何よりでした」
「麗香さん……」
 麗香の姿を確認しても、梓の表情は虚ろだった。無理もないだろう、目の前での耳をつんざくような銃撃戦、幾人かの人間が死んでいき、その死体の上を歩いてヘリに乗ったのだから。
「梓さまを、無事助けだしました。これより屋敷に直行します」

 真条寺家屋敷のそばに併設されている私設の飛行場に、ジェット戦闘ヘリが着陸する。
 待ち受けていた人々が一斉に駆け寄って行く。
 渚、恵美子、そして専属のメイド達。
 担架に乗せられた梓と麗香に抱きかかえられた梢がゆっくりと降りてくる。
「二人は大丈夫なの?」
 声を掛ける渚だったが、
「梢さまは気を失っていますが無傷です。しかし、梓さまは……」
 麗香は項垂れて言葉を繋げることが出来なかった。
 その真意を受け取って、その肩を抱いてその気苦労を誉める渚。
「分かりました。ともかく梓を医療センターに運びましょう」

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梢ちゃんの非日常 page.22
2021.08.13

梢の非日常(ルナリアン戦記前章譚)


page.22

『麗香さん、スタートの合図をお願いします』
『かしこまりました。ただ美鈴さん一人で、撮影しながらの雪の上の移動は滑って危険なので、後二人カメラ担当を増やしましょう。スタート地点、プールサイド地点、その中間点に配置して固定撮影します』
『そういえばそうね。気がつかなったわ。すぐに手配してください』
 早速携帯を使って、カメラと担当者を手配する麗香。
 数分後、明美と美智子が呼ばれ、カメラの準備も整って、スタートの合図を待つだけになった。
『では、用意してください』
『ああ、待って。一応フェアプレイとして、忠告しておくわ。母娘で動かせる限界は、これくらいの大きさだからね』
 といって、手のひらで高さを示す絵利香だった。

『ママ、負けてるよ。真理亜ちゃんの方が大きいよ』
『大丈夫よ。今は負けてるけど、だいぶこつがつかめてきたから、十分逆転できるわ。最後に勝つのは梢ちゃんよ』
『そうだね。勝とうね』
『ママにまかせておきなさい』
『うん!』
 日頃学業と仕事とで忙しい梓ゆえに、一緒に身体を動かして遊ぶ機会の少ない梢にとって、母親と力を合わせて雪だるまを作り上げるというゲームは、このうえなく幸せな気分を味わえる至極の時間といえた。満面の笑みを浮かべ、梓にぴったり寄り添うように一所懸命に雪球を押している。
 梢組の雪球は次第に大きさを増して、真理亜組にほぼ並んだようだ。
『終了まで、あと十分です』
 麗香が残り時間を告げる。
『ようし、梢ちゃん。最初の地点にいっきに戻るわよ』
『わかった!』
 怒濤の勢いで雪球を転がしはじめる梢組。妊娠出産授乳を経て体力をかなり失っている梓ではあるが、スポーツマンとして鍛えた身体にはまだ十分な体力が残されているようだ。
 一気に押しまくってスタート地点に舞い戻る梢組。ほとんど同時に真理亜組も到着する。
『ふう……さすがに堪えるわ。少し頑張りすぎたみたい』
 両膝に手をつき、肩で息をしている梓。
『ママ、大丈夫?』
 梢が心配そうに顔をのぞいている。
『大丈夫よ。少し休めば、元気になるわ』
『ほんと?』
『心配ないわ』

『終了まで、あと五分です』
『ふう。休んでる暇はなさそうね』
 すっくと立ち上がり、大きく深呼吸して息を整えると、
『梢ちゃん、もうひと頑張り。今度は頭を作るわよ』
 と声をかける。
『うん。頑張る』

 梓母娘の奮闘ぶりを眺めている絵利香。
『さすがに実の母娘ね。はじめて雪だるまを一緒に作ったというのに、息がぴったり合ってるわ。といって真理亜ちゃんがひけをとるというわけじゃないけど』
『絵利香。梢ちゃん達、行っちゃったよ。負けちゃうよ』
 梢たちを指差しながら、真理亜が不安そうにしている。
『ようし、こっちも頑張ろう。行くわよ』
『うん!』
 遅れ馳せながら絵利香たちも動きだした。

『時間です』
 正午を告げる鐘が鳴り響いた。
 スタート地点には、ほぼ大きさの同じ雪だるまが並んでいる。
『お互い何とか間に合ったわね』
『あなたに担ぎだされて難儀させられたけど。いい汗かいたし、梢ちゃんも満足しているようだから、よしとしよう』
『なに言ってるんだか……』
『さて、どっちの勝ちかな。公平な立場で、麗香さんに審判してもらいましょう』
 二つの雪だるまを見比べていた麗香が判定を告げた。
『これは引き分けでよろしいのではないでしょうか』
『そうね。どっちが大きいかなどと野暮なことはやめておきしょう』
『賛成だわ。梢ちゃんも真理亜ちゃんもいいわね』
『うん。いいよ』
 とほとんど同時に答える子供達。
 子供達にとって、勝負がどうのというより、母親と一緒に遊べたことのほうが楽しかったようだ。
『さあ、記念写真を撮ってお食事にしましょう』
『はーい!』
『麗香さん、お願いします』
 といって、絵利香が自分のデジタルカメラを手渡した。
『かしこまりました』
 麗香がカメラを構え、雪だるまの前に並んで、記念写真におさまる一同。


 寝室。
 ベッドですやすやと眠る梢と真理亜。
 そのベッドの両縁に腰掛け、子供達の寝顔を見つめる梓と絵利香。
『さすがに雪だるま作りで疲れたようね。食べたらすぐ寝る状態だもん。普段なら食後三十分くらいしないと眠くならないのに』
『そうね。真理亜ちゃんなんか、朝から二つも作ったせいで、食事の最中からこっくりやってた』
『おやつの時間までには起きるかな』
『まあ、起きないでしょうけど。目覚めた時には開口一番、おなかすいたって言うんじゃないかな』
『そうだね。いつでもすぐに食べられるように、おやつは用意しておきましょう』
『さて、リビングに戻りましょうか』
『それじゃあ、早苗さん。お願いします』
『はい。かしこまりました』
 梓達が寝室を退室する中、早苗と梢づきのメイドが残った。。
 寝返りをうったりして乱れた布団を掛け直すことの他、梢が寝ぼけてうろついたり、屋敷内をまだ知らない真理亜が目覚めて、絵利香を探して泣いたりしないように見守るためである。

 リビング。
 TVを見ている梓達。
 ニュース番組が流れ、真条寺家の屋敷前でキャスターが解説している。
『昨夜からの大雪で大停電とそれに伴う断水に見舞われているニューヨークにありましても、ここブロンクス地区だけは電気と飲料水が供給され、公民館や公立学校などの公共施設には給湯と床暖房用の温水さえも豊富に供給されています。それらの公共施設や自然緑地の広場に設けられたテント村では、停電や断水により食事が出来ないブロンクス近隣住民の為に、現在無償で炊き出しが行われています。近隣住民にはもよりのステーションに送迎バスが用意され順次ピストン運行されています。もちろん暖房の効いた公共施設は、避難所として寝泊まりできるようになっています』
 そしてヘリコプターからの真条寺家の全景に切り替わった。
『ご覧ください。眼下に見えますのが、私設国際空港と救命救急医療センター及び自然緑地に囲まれた、ブロンクスのベルサイユ宮殿とも称される真条寺家の大邸宅です。空港の地下には百二十万キロワットのコージェネレーション発電機が設けられ、空港や医療センターそして邸宅に電力と温水を供給しています。また、自然緑地の地下には、ブロンクス住民が一週間生活できるだけの豊富な飲料水が貯えられています。そして現在、それらがブロンクス住民に供給されているのです』

『意外と知られていないのですが、ここ真条寺家は空港を拠点とした国際災害救助支援センターの機能をも果たしています。私設国際空港の利便性をフルに活用して、ブロンクスやアメリカ本土はもとより、世界各地へ災害発生から一時間以内に、テントや非常食・粉ミルクなどの援助物資を空輸することができます。それらの物資は空港の一角に設けられた災害用品備蓄倉庫から拠出されます。倉庫にはブロンクス住民を一週間賄うだけの量があるといわれています』

『こちらは第二中継所です。この公民館でも炊き出しが行われております。あ、今大型バスが到着しました。電気・水道を絶たれた近隣住民を乗せた送迎バスです。車体には国際観光旅行社と篠崎グループのロゴマークが見えます。当グループは、この大停電の期間中営業を停止して、観光バスや運輸トラック・除雪用に使用する土木建設機械などの全車両を災害援助に差し向ける方針を表明しています。炊き出しに使われている食料のすべても、グループの食糧部門から拠出されています。さすがに真条寺家と肩を並べるブロンクスの第二勢力ですね。こちらも災害救助活動では負けていません』

『都会の中にこれだけの大邸宅を構えながらも、近隣住民から反発が起きないのも、そういった事情があるからです。地域住民のことも考えた
『さて再びマンハッタンにカメラを戻しましょう』

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