梢ちゃんの非日常 真条寺梓、逝く
2021.08.15

梢ちゃんの非日常 真条寺梓、逝く

 真条寺家の敷地内には、航空機事故に備えて救命救急医療センターが併設されている。PED(陽電子放射断層撮影装置)やMRI(核磁気共鳴断層撮影装置)をはじめとする各種最新診断装置や医療機械を備え、医療スタッフや医療技術も世界最高水準を誇っている。もちろん航空機事故がそうそう起きるはずもないので、救急外来として一般にも門戸は解放されている。
 診療部門において特筆すべき点として、乳幼児特別救急診療部があることである。
 コンロで沸かしていたやかんの熱湯を頭からかぶってしまったとか、階段やベランダから転落して重体になったり、煙草や毒物を飲み込んでしまったなど、乳幼児にありがちな事故に対応する専門の診療部である。麻酔装置や人工心肺装置に血液交換器などの医療器械はもちろんのこと、メス・ピンセット・鉤・止血鉗子そして手術台にいたる各種手術用具までもが、乳幼児専用に特注製造したものが配置されているのだ。小さな身体に大人用の手術台などは、大きすぎて邪魔になるだけである。
 投薬の分量一つとっても、厳密にしなければ命に関わるほどデリケートな身体、大人に処置した方法が乳幼児に使えるとは限らない。年齢・体重・体力・体調に応じた適切な処置を施さなければならない。
 また最近は幼児虐待による救急患者も急増しており、身体的治療が済んだ後には、養護施設へ場所を移動しての精神面での治療も大切になってきている。
 乳幼児診療部は、梓の誕生と同時に発足した経緯がある。渚の親心から、一人娘の梓に万が一の事故が起きた時のために、いかなる症状をも完璧に治療できるように、小児科はもちろんの事、脳神経科・循環器科・胃腸科・内科・皮膚科・麻酔科・放射線科などから医療スタッフが集められたのである。現在は梓に代わって、娘の梢がその対象になっている。発足当初は、小児科医以外は乳幼児に不慣れな医者や技術者の寄せ集めでしかなかったが、救急診療を数多くこなすうちに、成功と失敗の積み重ねの中から、膨大な乳幼児診療マニュアルが集大成され、医療スタッフ達はスペシャリストへと育っていった。医師団64名、研修医26名、看護士160名、医療器械技師34名、薬剤師12名、事務系職員18名など、総勢300余名にも及ぶ大学病院並みの組織を誇っている。
 医師団の勤務体制は、当直・待機・準待機・休日の勤務レベルがあって、勤務時間として当直医は、日勤(12名)・夜勤(12名)・深夜勤(16名)の三交代制。その他の医療スタッフも、それに準じている。深夜勤の当直が多いのは、夜間は診療終了している一般の病院の分を補うためである。
 現在では全米はおろか世界各地からも、その高度の医療技術を頼って、真条寺空港を経て乳幼児患者が運びこまれるようになっている。搬送に必要な生命維持装置や各種治療器械を備え、簡単な応急手術さえも可能な「空飛ぶ病院」との別称がある救命救急のための専用ジャンボジェット機も就航している。もちろん医者団が現地に赴いて直接診療することも可能である。


 救急治療が本道であるが、真条寺家の人々の日常生活に発祥する多種の病気や事故に対する治療も行っている。


 医療センターのICU(集中治療室)のベッドに横たわる梓。
 人工呼吸器に接続されて、その表情も生気がなく青ざめている。
 隔離された隣室のガラス越しにその様子を窺っている渚と麗香。

「麗香さん、本当にご苦労様。あなたは部屋に戻って休みなさい。梢ちゃんは、私が面倒みますから」
「いいえ。わたしは……」
 梢の世話をするのは、梢専属の世話役が任命されるまでは麗香の担当だった。引き続き世話をするつもりだった。
「だめですよ。あなたは緊張の連続で気がつかないだけです。梓を気遣うばかりで、あなた自身が相当疲れていることにね。これは命令ですよ」
「わかりました。部屋に戻ります」
 病室を出て、屋敷に向かう麗香。

 自分の部屋に戻った麗香。
 ふうっと大きなため息をつき、今になって肩の荷を降ろした感じを覚えるのだ。
「梓さま……」
 ベッドの縁に腰掛け、ぱたんと後ろ向きに倒れこみ、そのまま眠ってしまった。渚の言うとおり、満身創痍、心身ともども疲れ切っていたのだった。


 病室。
 梢が泣いている。
 ベッドで眠っている梓が、その泣き声に目を覚まされる。そばのベビーベッドから聞こえる泣き声。その調子で、お腹を空かしていると直感していた。
「梢ちゃん……? ミルクをあげなくちゃ」
 起き上がろうとするが、
「痛い!」
 腕の痛みに右手を見てみると、点滴の針が刺さっているのに気づく。
 しばし、状況判断がつかめなかったが、
「そうか……あたし達、助かったのね」
 身代金誘拐の人質になっていたことを思い起こしていた。
 ひときわ高くなる梢の泣き声。母親の気配を感じて、催促しているようだった。
「あ。ごめんなさい、梢ちゃん。お腹空かしてるのよね」
 力の入らない両腕でふんばって、何とかベッドの縁に腰掛け、梢を抱き上げる梓。
 胸をはだけて乳首を梢の口にふくませると、一心不乱に飲みはじめる。
「良かったね、梢ちゃん。あたし達助かったのよ」


 それは、梓が見ていた夢だった。
 目が覚める梓。
 天井が見えている。
 どこからともなく聞こえてくる機械的な音。
「ここはどこだろう?」
 と首を回そうとしたが、
「動かない?」
 手足を動かそうとしてみてもやはりダメだった。
 首から下が麻痺しているようだった。
 微かな足音が聞こえる。
 患者の様子見と計器の管理をしている看護師だ。
「しかし暑いわねえ。体温調整できない患者さんのために室温を上げてるとはいえ、そこで働くもののことも考えてほしいわ」
 看護婦が、生命維持装置に流入するぶどう糖の入ったバックを取り替えている。そして、その患者である梓に視線を移した時だった。
「まったく……え?」
 看護師が、眼を見開いて天井を見つめている梓に気が付いた。
「たいへん!」
 ベッド傍のナースコールを押す。


 その頃、主治医となった教授の部屋で説明を受けている渚、絵利香、麗香の三人。
 MRIなどの画像データを参照しながら、
「……と、このように銃弾が延髄に突き刺さっており、全身麻痺を起こしているようです」
「銃弾を摘出できないのですか?」
「それは無理です。今でもギリギリで生命維持している状態でして、摘出手術すればさらに脳幹に損傷を与える可能性が大です」
 銃弾が摘出できなければ、発射された銃の特定ができない。
 犯人たちが撃ったのか、流れ弾が当たったのか……。
「回復する見込みはありますか?」
 絵利香が尋ねるが、教授は静かに首を横に振った。
「現在のところ、大脳の活動は何とか保たれていますが、脳幹に障害がある場合はいずれ大脳も活動停止に陥る可能性が大です」
 暗く押し黙る一同。
 その時、教授のPHSが鳴った。
* 法人用PHSは2023年3月末終了。
「私だ……。なんだと! それは本当か? 分かった、今すぐそちらに行く!」
 何事かと教授の顔を見つめる一同。
「今しがた、梓さまの意識が戻られたそうです」
「なんですって!」
 驚きの表情で見つめあう一同。
「何はともわれ、ICUへ急ぎましょう」
 意識を取り戻したとしても、一過性のものである可能性が高い。
 大急ぎでICUへと駆け出した。

 ICUに入室して、梓の容態を診察している教授。
 ガラス一つ隔てた隣室で待機していると、
「どうぞお入りください」
 と、入室を許可される。
 梓のベッドを取り囲む一同。
「梓」
 渚が声を掛けるが反応はない。
 目を開けたまま天井を見つめたままだった。

「まったく信じられません。こんなほぼ脳死状態から意識を取り戻すなんて、奇跡としかいいようがありません。普通じゃ、ありえないことです」
「梓は、二人分の精神力を持っているのよ。それくらいできないことじゃない」
「しかし、あくまで意識が戻ったというだけですから。すでに脳幹部の大半は機能停止しており回復の可能性はありません。この状態から生還する見込みは、限りなくゼロに近いです」
「判っているわよ。この状態で意識を維持するには、強靱な精神力がなければできないわ。死んでしまう前に、何か重要なことを言い残したいのよ。だから死の淵から舞い戻ってきたのよ」
「死んでしまう前にって……患者がそんなこと判断できませんよ」
「普通の人間ならね。とにかく、本人に確認すればわかることよ」
 ベッドサイドに歩み寄って梓に声をかける絵利香。
「梓。梓、聞こえる?」
 梓がゆっくりと声のする絵利香の方にゆっくりと向き直った。そして、唇を動かして何かを伝えようとしている、しかし肺は機能停止しており、息を出して声帯を震わせ発声することができない。
「ごめんなさい。あなたは、声が出せないみたい。でも、わたしの言うことが判るわよね? 判ったら瞬きをしてみて」
 絵利香の問いかけに答えるように、ゆっくりと瞬きをしてみせる梓。
「何か言い残したいことがあるのよね?」
 瞬き。
「それは梢ちゃんによね」
 瞬き。
「判ったわ。何とかするから、それまで頑張るのよ。いい?」
 瞬き。
「おばさま、梓は気が付いていますわ」
 思わず歓喜の声を漏らす絵利香。
 今度は、渚に代わった。
「お母さんよ。分かる?」
 そして再び瞬き一回。
 よく見ると、眼球も少しだが動いているようだった。

「これはどういうことですか?」
 渚が教授に質問する。
「筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病をご存じでしょうか?」
「存じております。体を動かすための筋肉が痩せていく病気で、筋肉そのものではなく、運動神経系が選択的に障害を受ける進行性の神経疾患です。最終的には、人工呼吸器に繋がれて意識を伝達することもできなくなります」
「梓さまは、その病気の最終段階に入った状態に似ております。意識はあるのですが、神経系が切断されているために、意思を伝えることができないのです」

「おばさま、ALS患者用のコミュニケーションツールとスタッフを用意していただけませんか? 視線の動きと瞬きで会話できる装置がどこかで開発されていたと思います、大至急しらべて取り寄せてくださいませんか。一分一秒を急ぎます、ありとあらゆる方法を使って、梓の命が尽きないうちに」
「分かりました。ただちに手配しましょう」
 そして改めて梓に伝える。
「今ね。視線の動きとまばたきで、会話できる装置を至急取り寄せているところなの。それがあれば、梢ちゃんにも言いたいことを伝えられるわ。もう少し待っていてくれるかしら」
 天井を向いたまま、まばたきする梓。
「梓、いいこと。辛いかもしれないけど、どんなに眠くなっても眠っちゃだめよ。そのまま永遠に眠ってしまうかも知れないから。歯を食いしばって起きていて、わかった?」
 分かったと瞬きをする梓。

 意思疎通のために、
 YESの時は瞬きする。
 NOの時は、上を向く。
 それが梓との会話のルールとなった。

 意識が戻ったというだけでも奇跡的なことだというのに、意識を維持していることがいかに辛いことか、それを眠るなという過酷な指示を出さねばならない絵利香。そしてその真意をくんで答えようとする梓。二十年来もの長きに渡って築き上げられた絶大なる信頼関係がそこに存在していたからこそのことであった。
 これはもう梓の精神力がいつまで持つかの、時間との勝負である。
 涙が溢れそうだった。
 しかし泣いている場合ではない。
 辛く悲しくても、今の梓に比べれば大したことはない。


 梓が何度も間断なく瞬きをしている。まぶたが重くて開けているのが辛いという表情であった。横になったまま、何もしていなければ、眠くなるのは当然である。
「いけない。眠くなってきたんだわ」
 眠気を催している時に、まぶたを閉じていると、人はそのまま眠ってしまうものである。だから梓は、必死でそれをこらえようとしているのだった。
「ねえ、梓。昔ばなしをしましょう。梓は聞いているだけでいいわ。答えようとしなくていい。だから、まぶたをしっかりと開けて聞いていて」
 絵利香は、梓と一緒に暮らしたスベリニアン校舎の話をはじめた。

「血糖値が下がってきました」
 生命維持装置を監視していた医師が告げた。
「ぶどう糖の投入速度を少し速めよう」
 主治医が指示を伝える。
 大脳は、ぶどう糖を大量消費する組織である。かといって血糖値を上げ過ぎてはいけないし、低すぎてもいけない。常に正常値を維持しなければならない。
 しかし梓には、インシュリンやアドレナリンを分泌する機能を消失しており、ぶどう糖を肝臓や筋肉中から放出して血糖値を管理する能力がない。ゆえにつねに血糖値を監視する必要があり、必要に応じてぶどう糖を投入しなければならない。
 血糖値が下がったせいなのか、大脳活動が低下し、梓がまぶたを閉じる時間が長くなってきていた。
「ドクター!」
「申し訳ありません。血糖値が上がるのにもうしばらくかかります。ショックを防ぐために、急激には上げられないのです」
 このままでは、眠ってしまう。そう判断した絵利香は、梓の頬を何度も叩いて目を開かせようとした。
「梓、しっかりして! 目を開けて! 梢ちゃんに言い残したいことがあるんでしょう! だから、目を開けるの!」
 梢の名前を聞いて、はっと我にかえる梓。再び目をしっかりと開いて絵利香を見つめる。
「そう。それでいいわ」


 絵利香が、梓が眠らないように激励している頃、麗香は会話装置の入手に成功、帰還の途中であった。
 そのジェットヘリの機内、防音ヘッドフォンを耳にあてがい、会話装置の調整をつづけている麗香。病院にたどり着くまでの間に、装置の音声パターンを、梓の音声に限りなく近くなるように微調整を続けていた。
「病院が見えてきました」
「屋上のヘリポートに降りてください」
 ヘリポートにジェットヘリが降下をはじめた。
 その様子は、ICUの窓からも見える。ジェットヘリの機体に、AFCのマークを確認した絵利香は、梓に伝えた。
「会話装置が届いたわよ。もうしばらくの辛抱よ」

 早速ICUに会話装置が運びこまれ、技術者によって手際よく端子類が接続されていく。視線の動きを感知するセンサー、まばたきを感知するセンサーなど、各種のセンサーが梓の頭部に取り付けられる。麗香は、音声合成装置の最終調整を続け、よりいっそう梓の音質に近づけようと努力している。その間に技術者から説明を受ける絵利香。
 会話装置の準備が終了する。
「接続が完了したわ。梓、いいかしら。視線方向にレーザーが出るから、文字を拾って瞬きすれば確定、確定文字が液晶表示に出るわ。間違えたらBSで戻して、必要な文字をすべて入力したらENTERで瞬きすれば、音声になって出るわ。やってみて」
 絵利香の説明通りに、視線を動かし瞬きして文字を入力しはじめる梓。
 そして、
『ありがとう、えりか』
 入力された文字が、一言一句音声となってスピーカーから流れてくる。
「成功よ。ちゃんと聞こえているわよ。これなら梢ちゃんにも意志を伝えられるわ」
『みんなをいれて。ただ、こずえはもうすこしあとにして』
「わかった」
 梓の指示通りに、梢以外の一同を入れる絵利香。その間、梢は専属メイドに預けることになった。
『えりか、おねがいがあるの』
「なに? 言ってみて」
『あたしは、もうだめ。だから、これからさきのこと。こずえの、ははおやになってほしいの』
「梢ちゃんの、母親に?」
『こずえには、まだははおやが、ひつようなの。たのめるのは、えりかしかいない』
「判ったわ。梢ちゃんのことは、まかせて。大人になるまでしっかり育ててあげるわ」
 梓に頼まれるまでもなく、その回復が絶望と知らされた時点で、絵利香は梢の世話をする覚悟を決めていた。母親を失うことになる梢の心を癒すことのできるのは自分以外にないと思った。

 梢は、母親と同年齢の絵利香になついていた。梓以外に絵本を読んでとせがむ唯一の人物でもあり、母親と同質のものを感じていたようである。ママの次に大好きな人は誰? と尋ねると必ず絵利香と答える梢。パパでもグラン・マでもない。絵利香が梓のもとに泊まりにきた時は、一緒に寝ようとせがみ、絵利香と梓の間に川の字になって、ベッドに入っては、
「えへへ、ママが二人だよ」
 とはしゃいでいた。
 だからこそ、梓は自分の亡き後のことは、絵利香に委ねる以外にないと判断したのである。

『ありがとう、えりか。これで、なにもしんぱいはいらない』
 梓の瞳から涙が流れている。それをハンカチで拭ってやる絵利香。
『れいかさん。いる?』
「はい。ここにいます」
『いままで、いろいろとむりをいってごめんなさい』
「いえ、そんなこと」
『いまのあたしがあるのは、れいかさんが、いっしょうけんめいに、きょういくしてくれたからです。ほんとうにかんしゃしています』
「梓さまは、妹のように思っていましたから。何も気にすることはありません」
『ありがとう』
 しばらく無言が続いた。
『おかあさん』
「ここにいますよ。梓」
『あたしを、うんでそだててくれて、ありがとう。さきにいってしまうことを、ゆるしてほしい。おやこうこう、できなくてごめんなさい』
「親孝行なら十分してもらったわよ。気にすることはないわ」
『こずえのこと、おねがいします。えりかのそうだんあいてになってあげてください」
「もちろんよ。絵利香さんだけには、苦労させないわ」

『みんな、ありがとう。こずえをよんでくれないかしら』
 梢がICU内に迎え入れられる。
「ママ!」
 梓のベッドサイドに駆け寄る梢。
『こずえちゃん。ままはもう、あなたのそばにいることができません。これからは、えりかやぐらんまのいうことをよくきくのよ。そしてえりかを、おかあさんとおもって、なかよくくらしていくの』
「おかあさん?」
 梢は、ママとおかあさんという言葉が、ほぼ同義語なのを理解している。自分だけのおかあさんが、ママなのだと思っているのだ。
『こずえちゃんは、えりかがだいすきよね』
「うん。ママの次に大好きだよ」
『だからね。ままがしんだら、えりかがおかあさんになるの』
「いやだ。ママ、死んじゃいやだ」
 死という言葉を聞いてたまらず泣き声を出す梢。絵利香が少しでも梢の気を安らげようとその肩に手を置いている。
『なかないで。こずえちゃんが、なくと、ままは、かなしくなるの』
 梓の右手がゆっくりと動いて、梢の頭をなではじめた。
「馬鹿な! 腕が動くはずがないんだ」
 医者が信じられないといった表情で叫んだ。
「最後の精神力を振り絞って動かしているのよ。念動力と言っていいかもしれない」

「ママの手、冷たいよ」
 母親の手に触った梢が不安な声で言った。
 自律神経系が機能していないため、身体は正常な体温を維持することができないのだ。また、大脳活動を維持するだけのぶどう糖しか投与されていないので、発熱量が少ないことにもよる。
『ごめんなさいね。ままのからだは、もうしんでいるの』
「死んでる?」
『そうよ。だからからだはつめたいし、こずえちゃんのぬくもりも、かんじることができないの』
「ママ……」
『もういちど、いうわ。えりかをおかあさんとおもって、なかよくくらしていくのよ。ままのさいごのおねがいなの。わかるわよね、こずえちゃん』
 梢が絵利香を見上げて答える。
「うん。わかった……」
『そうよ。こずえはおりこうだものね』
「ママ」

 じっと天井を見つめていたが、やがてゆっくりと操作をはじめる。
『もうこれで、おもいのこすことはなにもない。ありがとう』
 そして静かに瞼を閉じる梓。
 最後の言葉が入力され、閉じられたまぶたはもはや二度と開く気配はなかった。
 脳波計の波形がしだいに弱まっていき、そして完全な平坦になる。
「脳波が消えました。完全な脳死状態です。いかがなされますか?」
「もう、十分です。生命維持装置をはずしてください」
「かしこまりました」
 静かに手際よく生命維持装置や脳波計が外されていく。
 そして、念のために脈が計られて、
「ご臨終です。午後三時二十二分三十五秒」
 と臨床医の死亡宣告が行われ、静かに梓の顔に白い布が掛けられる。
「梓……」
「ママ、ママ、ママー!」
 梢の悲痛な叫びがこだまする。
 梢に涙を見せないように、必死でこらえている人々。


 ー真条寺梓ー


 波乱万丈の末に、壮絶ともいえる死の淵をさまよい、愛娘の梢を残し逝ってしまった、まだうら若き二十四歳の人生の最期。
 梓のたましいが、やすらかな眠りにつくことを切に願おう。
 そして、残された梢と家族達の未来に幸あらんことを祈ろう。



 予告/ルナリアン戦記

 十二年後。
 月世界は真条寺財閥の手によって開発が進められ、
 真条寺家当主となった梢は、月世界共和国「ルナリア」を建国し独立宣言を行う。
 母親の梓を死に至らしめた黒幕である神条寺家に対して宣戦布告をするのだった。

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