梢ちゃんの非日常 梢よ泣くな!
2021.08.16

梢ちゃんの非日常 梢よ泣くな!

 パンダのぬいぐるみを抱きかかえたまま眠る梢。
『今夜は何とか寝かせつけられたけど、というよりも泣き疲れて眠っちゃった。問題は朝なのよね。起きて梓がいないのに気がついて、ママがいない! って泣くのは目に見えているし……。梢ちゃんにとって梓のいない朝は、出張で出かけている時ぐらいだけど、必ず帰ってくるという確証があったから、わたしがそばにいてやれば平常心でいられた。でも二度と梓は帰ってこない。わたし一人で、梢ちゃんの世話ができるのかしら』

 翌朝。
『絵利香さま』
 目覚める絵利香。
『お休みのところ申し訳ありません。朝でございます』
『麗香さん……』
『お疲れかと思いますが、起きていただけますか』
『梢ちゃんは……』
 隣を見ると、パンダを抱いたまま眠っている梢がいた。
『本当は、もう少しお休みいただきたいところなのですが、梢お嬢さまのことを考えますと』
『判っているわ。梢ちゃんより、先に起きていないとね』
『眠気覚ましに、熱いシャワーでも浴びてはいかがでしょうか。その間にお嬢さまがお目覚めになることもなさそうですし』
『そうしましょう』
 梓の遺言によって、梢が十六歳になるまで、絵利香が養母となると同時に、梓グループの全権代行執権として暫定的に就任し、それに伴い麗香が世話役として就くこととなった。二人は、絵利香が三歳の頃から親しくしているので、何の抵抗もなく主従関係が成立していた。


 三時の休憩時間。
 バルコニーに集まる一同。
 絵利香は両肘をテーブルにつき、手を組んで額に押し当てている。
『絵利香さん、顔色が悪いわよ。大丈夫?』
『ちょっと頭痛がして』
『今日は、部屋に戻って休みなさい』
『そうします。梢ちゃんには悪いけど、今日は幼児用椅子に座ってもらってください』
 絵利香の言葉に、メイドが幼児用椅子を運んでくる。
 丁度その時にパンダを抱えた梢がやってくる。
 空いた席にパンダを置いて、いつものように絵利香の膝に乗ろうとする。
『ごめんね。今日はそっちの椅子に座ってくれるかしら?』
 と絵利香が指差した幼児用椅子を見て、
『いやだもん!』
 と拒絶する。絵利香がそばにいるのに、幼児用椅子には座りたくないのが心情だろう。
『絵利香がいい』
『梢ちゃん、絵利香はね、気分が悪いのよ』
 という渚の言葉に絵利香を覗きこむが、病気であることの表情を、梢が読み取れるわけがない。
『もういいもん』
 パンダを再び抱えて三・四歩後退する梢。絵利香に拒絶されるくらいなら、おやつもいらない。
『絵利香は、梢がきらいになったんだ』
『そうじゃないのよ』
『だって、絵利香、ママじゃないもん』
 その声を聞いて、絵利香の表情が強ばっていくのが、目にみえてはっきりと判った。
『これ! 何てことを言うんですか!』
 渚が、強い口調で叱責した。
『そうですよ。絵利香さまは、一所懸命に梢ちゃんのために』
『ママじゃないもん!』
 梢も大きな声で叫び、くるりと背を向けて、パンダを抱えたまま駆け出していった。
『だめよ。梢を一人にしちゃ。追わなくては』
 絵利香が、梢を追いかけようとして、立ち上がる。
 しかし次の瞬間だった。
『あ……』
 突然崩れるように倒れる絵利香。
『絵利香さま!』
 一同が驚いて絵利香のもとに駆け寄る。
『医療センターに連絡して、担架を持ってきて!』
『はい!』

 病室。
 ベッドに眠る絵利香。その腕には点滴の針が刺さっている。ベッドサイドでは、渚がその様子を見守っている。病室の扉が開いて麗香が入ってくる。
『美紀子さまと連絡がとれました。今こちらに向かっておられます』
『そう。ありがとう』
『絵利香さまの容体はいかがですか?』
『心労とそれからくる軽いストレス性胃潰瘍だそうよ。精神的にかなり無理をしていたようだね』
『無理もありません。二十年来の親友であり、姉妹のように育った梓さまを失っただけでも辛いのに、母親代わりに梢お嬢さまのお世話までしてらしたのですから』
『わたし達、絵利香さんに頼り過ぎていたようですね』
『はい。その通りだと思います』
『かといって、梢の心を癒せるのは、絵利香さんしかいないのも事実なのよねえ』
『お嬢さまに、ママじゃないと拒絶されたのが、ショックだったみたいです』
『でもね。梢ちゃんも本気で言っているわけじゃないのよ。喧嘩したときに、本当は大好きなのに、大嫌いと言ってしまうあれよ。そしてその後で後悔してしまう』
『第一反抗期ですからね。とにかく、どうしたものでしょうか』
『しばらくは、二人を離したほうがいいでしょう。絵利香さんには、執権実務と梢のことは忘れて、養生してもらわくちゃ。真条寺家のものではない絵利香さんに、これ以上の心労をかけさせては、篠崎さまに申し訳がたちません。いくら梓の遺言があるからといって、それで縛りつけることはできないのです』
『お嬢さまのこともそうですが、真理亜さまのことは、いかがいたしましょう』
『そうね。あの子も梢と同じで、絵利香さんにかなり依存していますからね。絵利香さんが帰ってこないとなると、心配するのは必定だものね。まあ、真理亜ちゃんのことは美紀子さんの判断にまかせましょう。とにかく梢には、絵利香のことを伏せておきましょう。私達だけで何とかしなくちゃね』
『はい。早苗さんに、指示を伝えておきましょう。お嬢さまには、絵利香さまが病気であることを伏せておくこと』
『お願いします。ところで、梢はもう見つかったのでしょうか』
『寝室に入るところを、警備室がモニターしていました。今、早苗さんが行っています』
 その頃、梢はパンダを抱えたまま寝室のベッドに潜り込んでいた。
『絵利香……』
 梢も、大好きな絵利香をママじゃないと叫んだことを後悔していたのであった。
『ごめんね、絵利香』
 涙をこらえながらも、いつのまにか眠ってしまう。

 食堂。
 パンダを抱えた梢が早苗に付き添われて入って来るが、不審そうにきょろきょろとあたりを見回している。それもそのはずで、いつもなら絵利香が手を引いて連れてきていたからだ。

『ねえ。絵利香は?』
『絵利香さまはね、ちょっとお出かけしてらっしゃるのよ』
 三時に病気だと言っておいて、お出かけはないだろうとは思ったが、他に適当な言葉がみつからない。
『絵利香、いないの?』
『そうよ』
『うそだもん』
『え?』
『絵利香、梢に黙って出ていかないもん』
『だからね……』
 言葉につまる早苗。
『探してくる』
 くるりと背を向けて、食堂を駆けて出ていった。
『いけない! 追いかけて! 絶対見失わないで』
 渚が早苗に即座に指令した。
『は、はい』

 寝室、バルコニー、執務室、居間など絵利香がいそうな場所を次々と回っては、名前を呼んで探しまわっている梢。パンダを抱えていては邪魔だと思ったのか、どこかに置いてきたようである。
『絵利香! 返事をしてよ』
 呼べど叫べど、絵利香の返事はない。
『絵利香、いないの?』
 涙声でなおも呼び続ける梢。
 亡くなる直前に言い残した母親の、
『泣いちゃだめよ』
 という最期のいいつけを、守り続けてこれたのも絵利香がいたから。梓と同年齢で同質の香りのする絵利香は、もう一人の母親として心のよりどころだったのだ。その絵利香が自分に黙っていなくなり、こらえていたものが、堰切って涙となって溢れてくるのだった。絵利香がいなくなって、はじめてその存在の大切さを改めて認識する梢。
『ぐすん……ママ。絵利香、どこにいるの』
 涙で顔をくしゃくしゃにし、目を真っ赤に腫らし、絵利香と梓を呼びながら、とぼとぼと歩いている梢。さんざん探しまわっても絵利香はどこにもいない。
 そんな落胆した梢を見つける早苗。
『お嬢さま、探しましたよ』
『絵利香がいないの。梢を残してどっか行っちゃったの……ママもいないし……ねえ、絵利香、どこなの? ママじゃないって、言ったから怒って、出ていったの?』
『お嬢さま……』
 こんなにも落ち込んで涙している梢を見るのははじめてのことだった。
 監視カメラに向かって話す早苗。
『警備室。聞こえてますか?』
 天井のスピーカーから声が聞こえて来る。
『はい。聞こえています』
『渚さまのところに繋いでください』
 ややしばらくたってから、スピーカーから渚の声が返ってくる。
『早苗さん、梢を見つけたようね』
『はい。でも、かなり精神的に参っているようです。梓さまと絵利香さまの名を交互に呼びながら泣いています』
『これ以上、梢に隠しているわけにいかないでしょう。絵利香さんのところへ連れていってください。私もすぐ行きます』
『かしこまりました』

 梢を連れて、絵利香の病室の前にくる早苗。
 病室ということで、梢がびくついているようだ。亡き母親の事が思い起こされるようだ。
『絵利香さまのご容体は?』
 病室の前にある看護婦詰め所の看護婦に話し掛ける早苗。
『はい。つい先程お目覚めになられました』
『入っても大丈夫ですか?』
『大丈夫ですが、お静かにお願いします』
 ノックすると、
『お入り下さい』
 という絵利香の声が返って来る。その聞き慣れた声に、顔をあげる梢。
 早苗に連れられて中に入った梢は、窓際のベッドに弱々しく横になっている絵利香を見つけて駆け寄る。
『絵利香!』
『梢ちゃん、来たのね』
『絵利香、病気なの?』
 ベッドのそばに寄り掛かるようにして、絵利香の顔色を伺いながら心配そうに尋ねる。
『そう。ちょっとね』
 まさか梢のことで心労になったとは言えない。
『どうして連れてきたのですか?』
 絵利香の看病を続けていた麗香が、早苗を叱責している。渚からの連絡はまだ届いていなかったようだ。執務室と病室を直接つなぐ回線がないからである。
『申し訳ありません。絵利香さまをあちこちと探しまわり、絵利香がどこにもいない、って泣いてしようがないのです。渚さまのご指示で連れて参りました』
『そうなの、それで目が真っ赤なのね』
 絵利香が頭をなでてあげようと、手を差し出すと、梢は一瞬首をすくめてしまった。 死ぬ間際の母親の冷たい手を思い出したようだ。
 絵利香もそれに気がついて、
『うふふ。大丈夫よ、ほら触ってみて』
 恐る恐るその手に触る梢。
『温かい……』
『でしょ。生きている証拠よ』
 遅れて渚がやってきた。
『いつもすまないね、絵利香さん。早苗から聞いていると思うけど』
『はい。梢ちゃんは、わたしがそばにいないとだめなんです』
『そうね。考えが甘かったわ。あなたに気苦労させないようにと、梢に病気で倒れたことを黙っていたんだけど。まさかこれほど、梢が取り乱すとは』
『隠しちゃ、だめですよ。梓もわたしも、梢ちゃんには何でも正直に話して、納得させてから物事を進めてきたんですから。本当は聞き分けの良い娘ですから、病気だと知っていれば、こんなに泣きじゃくることもなかったはずです。ね、梢ちゃん』
 といって、梢の頬にそっと手を当てる絵利香。その手を、上から自分の手で押さえて、 その温もりを感じている梢。
 二人の間に、切っても切れない熱い思いが交差する。
 絵利香にとっては、自分の事を目を真っ赤に腫らしながら探しまわったという梢のいたいけさ。梢にとっては、そばにいていくれるだけで、心安らぐ母親の温もりのある絵利香であり、梓と同質の香りを持っている。
『絵利香、ごめんね。ママじゃないって言ったこと』
『いいのよ。本気じゃなかったこと、知っているから』
『ごめんね……』
 その時梢のお腹が鳴っているのに気づく。
『梢ちゃん。夕ごはんは食べたの?』
『ううん』
 首を横に振る梢。
『お腹すいてるでしょ』
『う、うん』
『じゃあ、お食事にしましょうか』
『うん』
 大きくうなづく梢。
『早苗さん。梢ちゃんの食事を、ここへ持ってきてくださるかしら』
『かしこまりました』

 やがて食事が、ワゴンに乗せられて運ばれてきた。
『さて、起きなくちゃ』
『無理しないでください。電動でベッドを起こせますから』
『大丈夫よ。自分の力で起きれるわ』
 麗香が、絵利香を支えて起き上がるのを手助けしている。
『梢ちゃん。ここへいらっしゃい』
 といって、絵利香は自分の脇の布団を持ち上げている。
『うん』
梢は靴を脱いで、椅子を踏み台にしてベッドに這いあがると絵利香の隣に座り込んだ。
『早苗さん、そこのベッドテーブルを』
『はい』
 早苗が、ベッドの両側に差し渡すタイプの簡易テーブルを設置した。その上に並べられる梢の食事。食事がこぼれてもいいようにテーブルの下にシーツが敷かれる。
『梢ちゃん。食べていいわよ』
『絵利香は?』
『わたしはいいのよ。ほら、これがごはんよ』
 といって自分の腕に刺されている点滴を指し示した。
『痛くないの?』
 腕に刺された太い針に、心配そうな梢。
『大丈夫よ。ほら、わたしのことはいいから、食べなさい』
『う、うん』
 おやつを抜いていたので、かなり空腹状態だったようだ。ときおり絵利香のことをちらちらと見つめながらも、夢中で食事を口に運んでいる。
『うふふ。ずいぶんお腹がすいていたみたいね。でも、ゆっくり食べなさいよ』
『うん』
 やがて食事をきれいに平らげてごちそうさまする梢。
『食器を、お下げします』
 早苗が食器を乗せたトレーを下げて退室する。

 食事を終えた梢は、絵利香から一時も離れずに、その膝に乗ったり、膝枕にして絵利香を下から見つめたりして、精一杯甘えた行動をとっている。もちろん絵利香がそれを許しているからだが。

『さあ、梢ちゃん。絵利香はお休みしなくちゃいけないの。そこにいるとお休みできないでしょ』
 と渚が、面会時間が過ぎたのを確認して、梢を連れて立ち去ろうとする。
 しかし梢は、絵利香のネグリジェをぎゅっと握り締めたまま、身動きしない。
『渚さま、梢ちゃんはここで寝かせます』
『しかしあなたは……』
『心配いりません。梢を放っておくほうが、よほど心配で眠れなくなりますよ』
『判りました。あなたがそういうのなら』
『梢ちゃん。グラン・マと一緒にお風呂に入ってきなさい』
『絵利香は?』
『絵利香は病気だから、しばらく入れないの。梢ちゃんだけでも、入ってきてね。絵利香の言うこと聞けるわね』
『う、うん』
『お風呂に入ったら、パジャマに着替えて、歯を磨いて、そしたらここに戻ってきてね』
『うん。わかった』
『渚さま。梢ちゃんをお願いします』
『ああ、まかせといて。子供だった頃の梓にしてきたことだよ。たいしたことないさ』
『それと、絵本とパンダのぬいぐるみも持ってきて頂けますか』
『梢、ジュリアーノいらない』
『あら、ジュリアーノちゃんがいないと眠れないんじゃない?』
『だって、ベッド小さいもん。梢とお母さんしか眠れないもの。ジュリアーノと一緒に眠れないもん』
『そうね。じゃあ、今夜は二人きりで寝ましょう』
『うん』
 そもそも病院のベッドは一人で寝ることを前提としているので、小さな梢が一緒に入るだけでも、ぎりぎりの幅しかない。

 ベッドの上で絵利香の膝の上に跨り、ベッドテーブルに絵本を広げて、読み聞かせしてもらっている梢。その背中に温もりと懐かしい香りに包まれ、振り向けば絵利香のやさしい笑顔が見つめている。そんな絵利香の愛情のこもったスキンシップのおかげで、落ち着きを取り戻しつつある梢だった。

 絵利香のネグリジェを握り締めながら、安心したように眠る梢。
『お母さんか……はじめて呼んでくれたわね』
 梢は、梓が亡くなるずっと以前から、絵利香をもう一人の母親として認識はしていたが、面と向かってお母さんと呼ぶことには、ためらいがあったようだ。それでも絵利香に連れ添われた先で、絵利香が「ママ」とか「お母さん」とか間違われて呼ばれると、非常に喜んでいた。
「お母さん」と呼べる相手が、絵利香一人しかいなくなった現在、もうためらうことはない。意識することなくごく自然に梢の口から出てきたようだ。


 数日後。
 ベッドの上で眠っている絵利香。まだ朝早いので麗香達はまだ来ていない。
 その傍らにあるサイドテーブルに、少し大きめの花瓶が置かれている。パジャマ姿の梢が椅子を持ち出して上に乗り、その花瓶を動かそうとしている。が、水が入っているので重すぎて、梢には動かすのは少し無理なようだ。そのうちに手を滑らせて、花瓶は真下に落ちて大きな音を立てて割れてしまい、水飛沫が飛び散る。梢の服も濡れてしまった。
 大きな音に目を覚ます絵利香。すぐそばにばつの悪そうにしている梢が、椅子の上にたったまま、床の割れた花瓶を見つめている。
『どうしたの? 梢ちゃん』
『あのね、あのね。お花のお水を換えようとしたの、そしたらね』
麗香が毎朝花瓶の水を換えているところを見ていたので、自分の手で換えてあげようとしたのだった。
『手が滑っちゃんたんだ』
『うん……花瓶が、割れちゃった……』
『気にしなくていいのよ。それより怪我はしなかった?』
『ううん。でも服がぬれちゃった。ごめんなさい』
『梢ちゃんは、お母さんのためにと、お水を換えようとしたんでしょ』
『うん。でも……』
『お母さんは、梢ちゃんの気持ちだけでも、とっても嬉しいのよ。
 病室の扉がノックされて看護婦が入ってくる。
『大きな音がしましたが、何かありましたか?』
『花瓶を落として割ってしまったので、片付けていただけませんか』
『あ、はい。わかりました』
 看護婦は、椅子の上に立ちすくしている梢を、割れた花瓶のない安全な場所に降ろしてやり、部屋の隅にある掃除道具入れから、ほうきとちりとりを持ち出して、床に散らばった花瓶の破片を片付けはじめる。
『実は梢ちゃんが、わたしのために花瓶のお水を取り替えようとして、落としてしまったんですよ』
『まあ、そうでしたの。梢ちゃん、お利口なのね。お母さんのために、何かするって、とってもいいことよ』
 といって、梢の頭を軽くなでてあげている。
 子供が人の為に何かしようとして失敗した場合、その行為を大いに誉めてあげるべきで、失敗した結果を決して非難してはいけない。子供が失敗するのは当然のこととして、温かく見守ってあげたいものである。そうしないと失敗ばかり恐れて、何も出来ない子供に育ってしまう。
 絵利香だけでなく、第三者の看護婦にまで誉められて、少し落ち着きを取り戻す梢だった。
 梢は反対側のベッドサイドへ移動している。
『梢ちゃん。お片付けは、このお姉さんにまかせて、着替えてらっしゃい』
『でも……』
『わたしは、大丈夫だから。早く、行ってらっしゃい。風邪を引くわよ』
『うん』
『外にもうひとり看護婦のお姉さんがいるから、お部屋まで案内してもらってね』
『わかった』
 後ろ髪を引かれながらも、病室を出ていく梢。

 寝室。
『今日のお洋服はこれがいいかしら。お嬢さまが気に入ればいいけど』
 早苗が梢用のタンスを開けて、衣類を取り出しているところへ、梢が入ってくる。
『お嬢さま、おはようございます』
『おはよう』
『今日は、お早いお目覚めですね。あら、パジャマが濡れているじゃありませんか』
『あのね。お花のお水を換えようとして、花瓶落としちゃったの。それで濡れちゃった』
『まあ、そうだったのですか。すぐに着替えましょうね』
『うん』
『でも、えらいわよ。お花のお水を換えようとしたのは、お母さんのためなんでしょう?』
 梢の着替えを手伝いながら、誉めてあげる早苗。
『えへへ』
 大好きな早苗にも誉めてもらってご満悦の様子だ。失敗して花瓶を割ったことは薄れてきていた。しかしそれでいいのだ。良いことをしようとしたことのほうが大切なのだから。
『これでいいわね。それじゃ、髪を梳いてあげますから、ドレッサーの椅子におすわりください』
『でも……』
 絵利香のことが心配な梢は、着替えが済むと同時に戻りたかったようだ。
『いけませんよ。ちゃんと身支度しないと、お母さんに笑われちゃいますよ』
『ん……速くしてね』
 梢にとっての髪梳きは、毎日欠かさず続けられている朝の日課である。梓ゆずりのしなやかな細い髪も、毎朝の手入れがあってこそ維持できるもので、梓や絵利香の手で丁寧に梳かしてもらっていた。それをしないで絵利香のもとに戻れば、間違いなく注意されるだろうことは、梢にもわかったのだ。
 梢の肩にケープを巻いてから、梓や絵利香に教えられた通りに、注意深く静かにブラシを髪に通しはじめる早苗。
『ほんときれいな髪だわ』
『あのね。梢の髪、ママゆずりなんだって』
 言ってから、母親のことを思い出させてしまって、しまったと思う早苗。しかし、梢は気にしていないようだった。すでに梓のことは過去の思い出になりつつあり、今の梢には絵利香が変わって母親の位置についているからだ。
 梢の髪を丁寧に梳いてあげた後に、可愛いリボンをつけてあげる早苗。実はこのリボンの金具には超小型発振器がついていて、梢が今どこにいるかを、警備室で常時モニターしているのだ。
『はい。いいですよ』
『あのね。病院出る時、迷ったの。それでね、お母さんのお部屋わかんなくなっちゃった』
『うふふ。いいわよ。一緒にいきましょう』
早苗は、にっこりと微笑んで梢に向かって手を差し出す。
『うん』
 その手を握って、歩きだす梢。
 世話役を仰せ付けられるだけあって、早苗の梢への応対は見事としかいえない。誉める・注意する・やさしく誘う、実に要点をついていて、梢が数ヶ月でなついてしまうのも納得がいく。とはいっても、梢錯乱事件のこともあるように、絵利香にはとうてい及ばないのも事実なのだが。いつまでたってもやさしいお姉さんでしかなく、母親代わりには決してなれないのだ。

 梢が病室に戻ると、丁度真理亜も見舞いに来ていた。
『真理亜ちゃん!』
『梢ちゃん!』
 双方ほとんど同時に叫んでいた。
『真理亜ちゃん、ごめんね。梢のせいなの。お母さんが、病気になったのは』
 梢が自分から謝った。
『お母さん?』
 真理亜がけげんそうな表情をして、絵利香をみつめている。
『梢ちゃんのママは、死んじゃったのよ。だから、絵利香がお母さんになったのよ』
 美紀子が真理亜を諭すように言った。
『そんなあ、ひどーい! 絵利香は、真理亜のお母さんなんだから』
『真理亜にはちゃんとママがいるじゃない』
『ママはママ。お母さんはお母さんだもん』
 その時、絵利香が二人の手を結びあわせ、その上に自分の手を重ねて、静かに諭すように語りだした。
『二人とも、これから絵利香が言うことを良く聞きなさい』
 いつもとは違う厳しい口調に、息を飲む二人。
『真理亜ちゃんは、梢ちゃんのママが亡くなったのは知ってるわね』
『うん、知ってる。天国にいっちゃったのよね』
『そうよ。梢ちゃんには、もうママがいないの。だから絵利香がママの代わりに、お母さんになってあげたのよ。真理亜ちゃんだって、ママがいなくなったら寂しいでしょ』
『う、うん』
美紀子に言われるよりも、絵利香の口から言われるほうがはるかに説得力があった。
『絵利香が、梢ちゃんのお母さんになっても、真理亜ちゃんとはこれまで通りよ。一緒に動物園にだって連れていってあげるし、絵本も読んであげるわ』
『ほんと?』
『絵利香が、嘘言ったことあるかな?』
『ううん。ないよ』
『もし真理亜ちゃんが、絵利香をお母さんと呼びたいなら、呼んでもいいわ』
『お母さんって呼んでもいいの?』
『もちろんよ。絵利香はね、真理亜ちゃんと梢ちゃんを差別したくないの。二人には、いつまでも仲良しの姉妹のように育ってほしい。梢ちゃんと、仲良くできるかな?』
『うん。わかった。お母さん』
いきなりお母さんと呼ばれて失笑する絵利香だが、言ったてまえもあるし、しばらくは様子を見ることにする。
『梢ちゃんも、真理亜ちゃんと仲良くしてくれるかな』
『うん、いいよ』
 といって梢は、真理亜に向かって微笑み、真理亜もにっこりと微笑みを返していた。二人の間にあったわだかまりはきれいに消失していた。
『さすがに絵利香ね。二人の心をすっかりまとめ上げちゃったわね』


 大の男達によって寝室に運びこまれる子供用のベッド。
 何事かとそばに寄ってくる子供達。
『危ないから離れてなさい』
 絵利香が注意すると、隣のベッドに乗っかって、うつぶせで頬杖をついて大人達の作業を見守っている。
 絵利香の指示された位置に固定され、続いてベッド用の羽毛布団がセットされる。
『ねえ、お母さん。このベッドは?』
『梢ちゃんと真理亜ちゃんのベッドよ』
 顔を見合わす二人。
『二人とも、小学校に上がるんだから、これからはお母さんのベッドじゃなくて、自分達のベッドで寝て欲しいの』
 それはいずれ個室を与える前段階としての、絵利香の考えだった。今までずっと同じベッドに寝ていたのに、いきなり個室では寂しがるだろうと、まずは絵利香のすぐ隣のベッドで二人で寝てもらうことにした。これなら絵利香の姿が見えるし、いつでも絵利香のそばに戻ることもできるから、安心して眠られるだろうとの配慮である。
『わかった!』
 素直に答える二人。新しいベッドには、やはり興味を覚えるようである。
『絵利香さま、完了いたしました』
『どうもご苦労様です』
『それでは失礼いたします』
 男達は一礼して退室していった。
 早速自分達のベッドに這い上がり、トランポリンのようにして上下に弾ませながら、クッションの感覚を確かめている二人。そのうちに梢がベッドの縁に立って飛び込みの態勢を取ったかと思うと、
『ミサイル発射!』
 と叫びながら、隣のベッドにダイブインする。
『こらこら、危ないからよしなさい』
 絵利香がたしなめる。
『……ん? はーい』
 と返事をする梢だが、その表情から察するに少しも懲りていない様子。絵利香の目を盗んでは、また繰り返しそうだ。
 ……まあ、何にしても。すっかり以前の、活発でやんちゃな梢ちゃんに戻ってくれたようね。もう大丈夫みたい……
 ほっと胸をなで降ろす絵利香であった。

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