梓の非日常/第二部 第五章・別荘にて(一)朝のひととき
2021.05.29

続 梓の非日常/第五章・別荘にて


(一)朝のひととき

 朝の光がカーテンごしに淡く差し込む寝室。
 ベッドの上で仲良くまどろむ梓と絵利香。
 専属メイドを従えた麗香が入って来る。ベッドの傍らに静かに立ち、二人の寝顔を見つめている。
「可愛い寝顔だこと。まるで天使みたい……ふふ、食べちゃいたいくらい」
 メイドの一人が軽く咳払いして注意をうながした。
「麗香さま」
「そ、そうね。じゃあ、みなさん。はじめてください」
 ベッドメイク係り、衣装係り、ルーム係りなどなど、それぞれの役目を負ったメイド達が配置につく。
 ルーム係りのメイドが、カーテンを開けて、朝の日差しを室内に導いた。
 まぶしい光に、うっすらと目を開ける二人。
「お嬢さまがた、朝でございますよ」
 そっとやさしい声で、目覚めをうながす麗香。
 ゆっくりとベッドの上で起き上がる二人。まだ眠いのか目をこすっている。
「んーっ。おはよう」
 両手を広げ、大きく伸びをしながらあいさつをする梓。
「おはようございます。お嬢さま」
 メイド達が一斉に明るい声で朝の挨拶をかわす。
「おはようございます。麗香さん」
「はい。おはようございます。絵利香さま」

 ドレッサーの前に腰掛けた梓の長い髪を、麗香がブラシで丁寧に解かしている。ニューヨーク時代に梓の面倒をみるようになっていらい、メイド主任を兼務して多くのメイドを従えるようになっても、梓の髪だけは誰にも触らせなかった。
 梓ほどの細くしなやかで長い髪となると、その日の気温や湿度、あるいは梓の体調によっても、微妙に梳き方を変える必要がある。梓の気分次第によって、三つ編みにするとか、前髪を軽くカールしたり、りぼんをあしらったり、ヘアスタイルを適時適切にアドバイスしてさし上げる配慮も忘れてはならない。梓の好みは、基本的にはストレートヘアではあるのだが。梓のほうも、女の命ともいうべき髪について、麗香に安心して任せていた。
 ショートヘアで気軽な絵利香の方は、すでに身支度を終えてバルコニーの方に出て朝の空気を吸っていた。
「今日は良いお天気で、とてもすがすがしい朝でございますよ。お食事の前に、お散歩でもなされるとよろしいでしょう」
「ん。そうする」


 朝露にしっとりと濡れる草花生い茂る小路。せせらぎの音に耳を澄ましながら、そぞろ歩く梓と絵利香。やがて小路は下り坂となって朝の冷気に霧立つ川辺に到達する。サンダルを片手に持ち、裸足で川面を岩伝いに渡る梓と、心配そうに見つめる絵利香。
「危ないよ、梓ちゃん」
「平気よ、こんな岩なんか」
 驚いた岩魚が飛び跳ねて水飛沫があがり、岩を飛び越えるたびに揺れる長い髪が、きらきらと朝の日差しを浴びて美しく輝いている。
「絵利香ちゃんもおいでよ。とってもおいしい湧き水があるんだよ」
 さわやかな笑顔を返しながら、渡り終えた梓が手招きする。
「でも……わたし、運動神経鈍いから」
「大丈夫よ。少し下流に丸木橋があるから。ほら、あそこ。見えるでしょ」
 と指差す方向に、両岸にしっかりと固定された丸木橋があった。
「もう、それを早く言ってよ」
 ゆっくりと丸木橋の方へ歩きだす絵利香。
 橋は日常的に清掃されているのか、上面の苔が丁寧に削ぎ落とされ、渡る人々の足元を確かなものとしていた。橋のたもとからは、別荘の方へと向かうもう一本のなだらかな小路が続いている。
 絵利香が橋を渡り終えたかと思うと、
「はい、通行料をいただきます」
 といって、右手を差し出す梓。
「なに?」
「だって、この橋はあたしの別荘で懸けているんだもん。湧き水のところまで行くためにね」
「あのねえ……」
「はは、冗談よ」
「そっかあ……、ということは、この辺一帯も梓ちゃんちの所有なのね」
「あたり。山や谷全体そっくりがあたしんち。きのこ取りや山菜摘み、渓流釣りにくる人達もいるけど、一応自由に取らせてあげてるんだ。独り占めはいけないもんね。そんなことより、早く湧き水のとこに行きましょ。傾斜のある小路を歩き続けて、喉がかわいちゃった」
「そうね。わたしもよ」
「こっちよ」
 絵利香の手を引いて歩きだす梓。木洩れ日が地面に影を落とす川辺を、手をつないで小走りに湧き水のところへと向かう二人。空を仰げば、朝日を受けた山々に上昇気流をとらえた鳶が、ゆっくりと旋回しながら谷間を滑空している。
「足元注意してね。滑りやすいから」
 苔に足を取られないようにしながら、茂みをかき分けていくと、眼前に大きな岩場が広がっている場所に出る。
「ここよ」
 と梓が指し示す場所、岩の隙間からちょろちょろと清水が湧き出ていた。
 梓が湧き水に両手を差し入れて飲みはじめた。
「ああ、生き返るわ。絵利香ちゃんも飲んでみなよ、おいしいよ」
 ポシェットから取り出したハンカチで口元を拭いながらすすめる。
「大丈夫?」
 自然の湧き水など飲んだことがないのであろう、絵利香はおそるおそる手を水に差し入れた。台所の蛇口を捻れば水が出る。そんな生活に慣れ親しみ、自然からの恵みを享受することを忘れた都会人には、無理かなる反応である。
「わあー。冷たいね」
「大丈夫よ、飲んでみて。定期的に水質検査もしているから」
 両手ですくうようにしてして湧き水を口に含む絵利香。そして喉元がこくりと動いて、冷たく清涼な水の刺激が喉を潤していく。
「おいしい!」
「でしょでしょ。消毒用の塩素はもちろん入ってないし、天然ミネラル豊富だからね」
「うん。コンビになんかで売ってる天然水とまるで違う。ほんとの本物なのね」
 といいながら口元をハンカチで拭っている。
「上水道が通じるまでは、飲み水はここから汲んで運びあげていたらしいよ。毎日、大変な作業だったでしょうね。今でも料理に使うために必要量は汲んでいるみたいだけど」
「ああ、それで橋が懸けてあったのね」

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