梓の非日常/第一章・生まれ変わり(九)母娘の絆
2021.02.03

梓の非日常/第一章 生まれ変わり


(九)母娘の絆

 帰国当時の回想シーンが終わって現在に戻る。

 郊外を走るファントムⅥ。
「もう三年になるのね」
 絵利香が感慨深げにつぶやく。
「あれ以来、本物の女になるため血を流すような特訓を」
 拳を握り締める梓。
「してないじゃない。元々から女の子なんだから。最初から女の子らしい仕草とかちゃんと身についていたもの」
「そうでした」
「まあ……最初の頃はとまどいもしたけど、もうすっかり違和感なくなっちゃったものね。二人だけの思い出とかちゃんと覚えているから、会話が途切れることもなかったし。そんなことより、道場に通って柔道やら空手やら始めちゃうんだもの。わたしはついていけなかったんだから、寂しかったのよ」
「ごめんね。でも、武道をはじめたのはそれなりの理由もあるんだよね」
「理由?」
「白井さんから聞いたんだけど、あたしの車のブレーキが効かなくなるように細工されていたというし、あの暴走トラックも盗難車で、犯人は未だに捕らえられていない」
「何者かが、梓ちゃんの命を狙っていたと?」
「さすがに勘がいいわね。そうなのよ、あたしがニューヨークからこっちに来たその日に連続して事故が起きてる。これって、単に偶然が重なっただけだと思う?」
「思えないわね」
「暴走トラックの前で足がすくんで動けなくなるようじゃ、命がいくつあっても足りないわ。今後もいつ暴漢に襲われるとも限らないし、鋭敏な反射神経と運動能力、窮地に際しても動じない精神力を養うために、自分の身を守るために麗香さんに頼み込んで、護身術をはじめたの。麗香さんは護身術のエキスパートだったから」
「ふうん……そうだったの。でも入学式の時も、その次の日の時も、わざわざ自分の方から渦中に飛び込んでいったんじゃなくて? 確かに以前にも増して女の子らしくはなっているけど、護身術を覚えてからは好戦的になっちゃったのよね。これって男の心がまだ色濃く残っているってことかしら」
「そ、そうなのかな……」
「ねえ、約束してくれない。男の子にからまれたりしたら、まず逃げることを先に考えてね。女の子なんだから、恥じることなんかないのよ。戦う時はどうしても逃げられなくなった時だけにして」
「努力します」
「もう……」
 ファントムⅥが真条寺邸に到着し、車寄せに入る。
 いつものように麗香以下のメイド達がずらりと立ち並んで、屋敷の主人である梓の帰宅を出迎えている。執事を除いて総勢三十名に及ぶ女性だけの出迎えである。
「そうねえ。確かに女だけの城って感じね……共学校に行きたくなるのも無理ないか」
 絵利香が呟く。実際には調理師、庭師や営繕士など、縁の下の力持ちである男性も大勢いるのであるが、梓の前には表立っては出てこない。
「お帰りなさいませ、お嬢さま」
「ただいま」
「あら、今日は絵利香さまもご一緒ですか」
「うん。泊まるから用意しておいて」
「かしこまりました」
「今晩も、おせわになります。麗香さん」
「いえ、お気がねなく。ごゆっくりしていってください」
 とその時、梓の膝のガーゼに麗香が気がついた。
「あ! お嬢さま、その足はどうなされたのですか」
「ああ、学校で転んで擦りむいたの。たいしたことないわ。心配しないで」
「そうですか……?」
 梓の喧嘩好きなことを知っている麗香は、なおも不審そうだったが、心配するなと言われたからには仕方がない。
 しかしながらも、
「お嬢さまが、お怪我なされた!?」
 というニュースはたちどころに屋敷中の使用人達の耳に届くところとなった。
 玄関から続く吹き抜けのホールには、大勢の使用人達が梓を囲むという状況をうんだ。メイドはもちろんのこと、お抱えの料理人、美容師、営繕士、庭師達などが一斉に駆けつけてきたのである。
「お嬢さま、大丈夫ですか?」
 口々に叫んで、梓の傷を心配している。
「み、みんな。心配してくれてありがとう。たいしたことないから、お仕事に戻ってね」
「ほんとに大丈夫ですか?」
 と、なおも気遣いながらも使用人達はそれぞれの持ち場に戻っていく。
「ほんっと梓ちゃんて、使用人の誰からも愛され、大切にされているのよね」
「まあね……さて、お母さんに会わなくちゃ」
「首を長くして待ってるでしょうね」

 二人と麗香が向かった先は執務室である。
「麗香さん、お願い」
 言いながらソファーに腰掛ける梓と絵利香。
「かしこまりました」
 麗香が、窓際にある大きな机の上にあるコンソールを操作すると、二人が腰掛けているソファーの前の壁にあるパネルスクリーンに映像が映しだされた。
 そこに現れたのは、同じようにソファーに腰掛けている梓の母親の渚であった。その後ろには渚の世話役についている恵美子が待機している。
『ただいま、お母さん』
『お帰り、梓』
 一同が対峙しているのは、この屋敷とニューヨークのブロンクス本宅とをホットラインで結んでいるテレビ電話であった。
 渚は特別な用事がない限り、ブロンクス本宅にいる。愛娘を日本に残しているのは心苦しいが、真条寺財閥グループの執務を取り仕切るためには仕方のないことであった。
 梓は、その日にあった出来事を逐一報告するのが、毎日欠かさず続けられている日課となっていた。
 渚は、梓が幼少の頃から保育園や小学校でその日にあったことや感じた事を話させていたし、梓自身も一言漏らさず聞いてくれ相談にのってくれる母親と対話することが楽しかったのだ。ここで特筆すべきことは、それが梓だけでなくいつも一緒にいる絵利香に対しても行われていたことである。渚は、しつけに関しては、梓と絵利香を分け隔てたことがなかった。自分の監視下にあるかぎり、娘と他人の子供とを区別しないのが、渚の教育方針だ。絵利香に軽い虫歯を見つけた時などは、本人がぐずったり泣き出したりしても、なだめたりすかしたりして、徹底的な虫歯治療と滅菌処理を施したものだった。おかげで絵利香には現在虫歯一本ないどころか、梓と同じく完全無欠の健康歯肉を保っている。
 そんなスキンシップ的な日常が今日まで続いているわけで、離れ離れになっても母娘そして渚と絵利香との深い絆は変わることなく存続していることをしめしていた。
『それで、入学式はどうだった?』
『入学式は退屈だったわ。あくびの連発よ』
『そうね。日本の儀典というのは堅苦しいから。でも絵利香ちゃんは、首席入学で新入生代表として答辞を述べたんでしょ』
『答辞といっても、学校側が用意してくれたのを、読み上げただけです』
『ふん! 漢字を読むスピードがもう少し早ければ、もっといい点が取れてたのにね……代わりに答辞を読んだのはあたしだったのよ』
 絵利香が誉められているのに気分を害している風の梓。それに気づいて渚が言葉をつなげる。
『はいはい。梓ちゃんは次席だったわね。えらいわよ』
『ふふん』
 鼻を鳴らして納得する梓。
『それはそうと、聞いてくださいよ。梓ちゃんたら、空手部に入っちゃったんですよ。どう思います?』
『空手部?』
『そうなんですよ。無骨な男達ばかりいる格闘技のクラブですよ』
『梓ちゃんらしいわね』
『ねえ。いいでしょ、お母さん』
『そうねえ……。あなたがどうしてもというのなら反対はしない。ただし、条件はわかっているわね』
『わかってるわよ。ピアノの稽古を絶やさないことでしょ。それと鍵盤を叩く手指を壊さないように無茶はしないこと』
『そうよ。いかにピアノの才能があったとしても、毎日の稽古があってのこそ。あなたの音感的才能を失いたくないの』
『梓ちゃん。母親の愛情は無碍にするものじゃないわよ』
『もう……絵利香ちゃんは、お母さんの味方だもんね』
『あなたのこと、心配してるのよ』
 ちょっとした口論になりそうなところを渚がやんわりとさとした。
『二人とも、喧嘩しないで仲良くね』
『喧嘩するわけありませんわ』
『そうそう』

 渚のそばに立っていた恵美子が耳打ちする。
『ごめんなさい。二人とも時間がきたみたい』
『そっかあ、もうそんな時間か』
 梓が残念そうに答えた。こちらは夕刻であるがあちらは朝方、仕事をはじめる時間がきたというわけである。
『二人ともしっかりお勉強するのですよ』
『はーい』
 二人が同時に元気よく返事をする。
『麗香さん。二人の事お願いします』
『かしこまりました』
『それじゃ、元気でね』
『うん。また明日ね』
 スクリーンの映像が消えた。

第一章 了

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梓の非日常/第一章・生まれ変わり(八)思い出
2021.02.02

梓の非日常/第一章 生まれ変わり


(八)思い出

 それは突然のことだった。
「あ! あ! ああ!」
 と、絵利香を指差しながら叫びはじめたのだった。
「絵利香だ。そうだよ、絵利香ちゃんだ」
 今まで英語しか話せなかった梓が、絵利香を思い出したのを境として、急に日本語を喋りだしたのだ。
「な、なになに。急に」
「篠崎絵利香。篠崎重工社長令嬢の絵利香だあ」
「なんだ、ちゃんと日本語話せるじゃない。しかもわたしのことも、思い出してくれたのね」
 梓が日本語を話せるようになったのには、絵利香というキーワードが働いたことによる。そもそも梓と絵利香は、共に生まれも育ちもニューヨークの為、二人とも日本語は話せなかった。小学校に上がりスベリニアン寄宿舎での生活が始まり、共に寮生活をする梓の世話役の麗香が日本語を二人に教えはじめた。才媛の麗香の事、教え方も要領を得て、二人はめきめきと上達した。麗香の日本語の教え方は、梓と絵利香とを対話形式で質疑応答させるという手法だった。小学校を卒業する頃には、日常会話では何不自由なく話せるようになっていたが、二人の日本語のレベルは同等であり、常に相手の存在があったといえる。
 梓が、絵利香のことを思い出すと同時に、日本語を話せるようになった背景には、共に日本語を学んだことがあったようだ。

 梓の部屋に入る二人。
「でも、梓が交通事故にあったと聞いた時は驚いたわ。病院に見舞いにいっても重体だとかで、面会謝絶だったし」
「そ、そうだね」
「うーん。顔に傷がつかなったのは、不幸中の幸いかしら。
「うん」
「その男の人は、死んだと聞いたけど」
「うん。病院を退院するときにはじめて聞かされて、帰る途中でその人の遺影を拝ませてもらった」
「その人に感謝しなくちゃいけないわよ」
「そ、そうだね……」
 絵利香、何か考えている風に首を傾げている。
 突然絵利香が、梓をじっと見つめた。思わず顔をそむける梓。

「あなた、梓じゃないわね」

 いきなり核心をついてくる絵利香。梓を指差し、鋭い表情で睨んでいる。
「確かに身体は梓みたいだけど。雰囲気がまるで違うのよ。あなた、一体なにものなの」
 じっとにらみ合いが続く。
「渚さまは、六年間ほとんど離れて暮らしていたから気づかないのよ。でもね、わたしは寝食を共にしたジュニアスクール時代も含めて、三歳の頃からずっと一緒だったんですからね。あなたの心変わりが手に取るようにわかるのよ」
 梓は、記憶の糸を手繰り寄せ、絵利香の言うことが正しいことを確認した。
「そうだね。絵利香ちゃんには、隠しきれないね。正直に言うよ」
 梓は、静かに語りはじめた。自分の過去である男のことと、交通事故によって自分に起きた不可思議な事実を。

「ふうん……。交通事故のあと、あなたの過去であるその男の子の意識が、梓の身体に乗り移ったというわけね」
「自分もしばらく信じられなかった。でも事実なんだ」
「じゃあ、本来の梓の意識はどうなったのかしら」
「わからないよ。でもさ、その梓の記憶もちゃんと残っているんだ。絵利香ちゃんのこともちゃんと覚えている」
 じっと、梓の身体を見つめていた絵利香だったが、突然切り出した。
「ちょっと、あなたのこと試させてくれない」
「試すって?」
「あなたの梓としての記憶がどこまで正しいか確認したいの」
「わかった。何でも聞いてよ。すぐには思い出せないかもしれないけど」
「じゃあ、最初はね。私達が最初に紹介されたのはどこだったかしら」
「……うん。あたしの三歳の誕生パーティ会場に篠崎のおじさまに連れられてきたのが最初だったかな」
「そうね。その時以来の仲なのよね。じゃあ、次ね。保育園での運動会の競争でわたしとあなた、どっちが速かった?」
「ええと、絵利香の方。その頃は走るのが苦手だった」
「ピアノのお稽古は、どっちが先にはじめた?」
「絵利香」
「そう。でも上達の速かったのは梓の方だったわね」
「五歳のクリスマスにわたしがプレゼントしたものはなに?」
「五歳というと……パンダのぬいぐるみだったかな。今も大切に持ってるよ」
「ピンポン……うん、じゃあ。ここからは難しくなるわよ」
「う、うん。なんでも聞いて」

『あなたが生まれた街はどこかしら? 英語で答えてくれるかしら』
 絵利香がいきなり英語を使って尋ねてきた。
 しかし、英語は梓の本来の国語であるから、何の抵抗もなく受け答えできる。
『ニューヨーク・マンハッタンの総合病院で生まれた。だから、あたしの国籍はアメリカになってるわ。もちろんお母さんもアメリカ。自宅はブロンクスにあるわ』
『ふふん。それでは、小学校はどこに通っていた?』
『ええと……セントマリー学園』
『担任の先生の名前は?』
『サリア・マクエロイ先生』
『どこに住んでいたかしら』
『五番街の女子留学生専門のスベリニアン寄宿舎。寮長はフランス語も堪能なキディー・アーネストさん。あたしと絵利香にフランス語を教えてくれた』
『では、小学生のわたし達が親許を離れて寮生活をはじめた理由は?』
『真条寺家のしきたりで、六歳を境に親元を離れて生活することが決まっていたの。といっても絵利香ちゃんが一緒に暮らすことになったけど。それは大目に見てくれた』
『はは、わたしが梓ちゃんと離れたくないってぐずったのよね。それでは次の質問。その寮にはもう一人大切な人が一緒に住んでいたわよね』
『竜崎麗香さん。コロンビア大学に通いながら、私達の世話をしてくださっていたわ。真条寺家の跡取り娘には世話役が必ずつくことになってるから』
「ふふふ。生まれついての英語は忘れていないようね。日本語に戻していいわ。それじゃあ、最後のテストをしましょう」
「最後のテスト」
「一緒にお風呂に入りましょう」
「お風呂?」
「どうしたの? 一緒に入れないかしら」
「大丈夫だよ」

 浴室は広々とした空間に大理石が敷き詰められ、天窓からはさんさんと陽光が降り注ぎ採光も充分である。
「確かに身体つきは梓そのものね。すべすべした肌も」
 じっと梓の身体を見つめる絵利香。
「ねえ、わたしの身体を見て何か感じるかしら」
「きれいだなって思う」
「他には? 男として欲情を感じたりしない?」
 ぷるぷると首を横にふる梓。
「男としての感情は、こっちには持ってきていないんだ。それに、いつも一緒に入っていたから」
「私の裸は見慣れているということね。感情は女の子のものしかないってわけか。それじゃあ……」
 といって、いきなり梓の胸をつかむ絵利香。
「きゃん!」
 可愛い叫び声を出して胸を隠す梓。
「ふふふ、その反応と表情。正真正銘の梓に間違いないわ」
「もう……」
「合格よ。梓……よかったわね」
 抱きついてくる絵利香。微かに涙ぐんでいるようだった。

 梓の部屋。ネグリジェになりベッドの上に横になる二人。
 すっかり打ち解けて仲良しになっていた。
「判ったことは、あなたが梓の記憶や体験のすべてをそのまま引き継いでいるってことね」
「う、うん。そうみたい」
「梓の身体に、梓の記憶と体験、先程のピアノの演奏にしても、感受性は女性的なものを持ってるし、つまり梓以外の何者でもないってことじゃない。ま、早い話し、ちょっと男の子っぽくなった梓だと思えばいいわけよね」
「そ、そうなるのかな」
「まあ、いろいろとあったみたいだけど。これからもよろしくね。梓ちゃん」
 といって絵利香が、にっこりと微笑んで手を握り締めてきた。
「こ、こちらこそ、よろしく」

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梓の非日常/第一章・生まれ変わり(七)絵利香そして
2021.02.01

梓の日常/第一章 生まれ変わり


(七)絵利香そして

 ファントムVIは、旧市街を抜けて街外れにある大きな屋敷に入っていく。
 正面門から玄関までの五百メートルほどの間には、透水性アスファルトが敷かれその両側には点々と花壇が並んでいる。右手の方には大きなプールがあり、左手にはヘリポートがあって、いつでも発進できるように待機している。玄関の前は、大きな噴水が水飛沫をあげるロータリーとなっている。
 玄関前車寄せの両側に、メイド達がずらりと並んで、屋敷の主人を出迎えている。
「お帰りなさいませ。梓お嬢さま」
「お帰りなさいませ。渚さま」
 いっせいにメイド達が頭を深く下げて挨拶する。その言葉は日本語である。
 女性の中に混じって、ただ一人男性がいるが、どうやらこの屋敷の執事らしい。

「とっても可愛いお嬢さまね」
 メイド達がささやきあっている。自分達の新しい主人となる、十二歳の梓の美しさに、一同ため息をついていた。その中で一番前列に並んでいるメイドに前に出るように指示して、
『紹介するわ。こちらの三人は梓専属のメイドです』
 その三人の着ているメイド服は、他のメイド達とは色・格好とも違っており、より上質の素材で出来ているようであった。
『神田美智子です』
『花咲美鈴です』
『井上明美です』
『交代で面倒みてくれることになっています。日本語はもちろんのこと、英語の方もスペシャリストですから。それから、竜崎麗香さん』
 麗香が一歩前に進み出た。
『ニューヨークから一緒に来日した麗香さんは、引き続き梓の世話役になっていただきます。一応メイド主任を兼務するということで、あなたたち三人は麗香さんの指示に従ってください』
『かしこまりました』

 リビングに置かれたグランドピアノ。側のキャビネットには、たくさんの譜面が収められている。
『ピアノか……』
 その上に何気なく置かれた譜面を開いてみる。五線符に記された音符の列が、確かなリズムとなって梓の脳裏に浮かび上がってきた。
 ……この俺に、弾けるかな……
 ピアノの蓋を開けて、椅子に腰掛けてみる。鍵盤の位置が丁度いい具合になるよう
に椅子の高さを調節する。
 譜面を譜面台に置き、手を鍵盤に降ろして、しばし呼吸を整えてみる。
 静かに曲を弾きはじめる。
 鍵盤を叩く滑らかな手の動き、屋敷中に響き渡る妙なる調べ。
 譜面を見なくとも次々と旋律が浮かび上がって来る。静かに目を閉じて、指先に全神経を集中する。曲は途切れることなく泉のように湧きだして来るのだった。おそらく毎日のように鍵盤を叩いていたのであろう、身体全体がその動きを、その旋律を覚えているのだ。
「お嬢さまが、ピアノを弾いてらっしゃる」
 演奏を聞きつけたメイド達のほとんどがリビングに集まり、その演奏を邪魔しないように静かに聞き耳を立てている。その中には渚も麗香もいて、目を閉じうっとりと聞き入っている。
『良かった……。梓の音感性は失われていなかった』
 演奏を終えて、そっと蓋を降ろす梓。
 ぱちぱちぱち
 突然拍手をしながら梓に近づいてくる少女がいた。
「相変わらず、お上手ね。梓」
 梓は親しげに話し掛けて来るこの少女を思い出せないでいた。自分が見知っている人物に違いないとという確信はあるのだが、どうしても名前が思い浮かばない。
『あら。いつのまにいらっしゃったの』
「玄関にだれも迎えてくれなくて、ピアノの音が聞こえていたから。勝手にあがらせていただきました」
 仕事を放り出してピアノに聞き入っていたメイド達があわててそれぞれの持ち場に戻っていく。
 まあ、しようがないわね。というような表情で渚が謝った。
『ごめんなさいね、絵利香ちゃん』
「いえ、いいんです」
 ……絵利香?……
 じっと絵利香の顔を見つめる梓。
 この絵利香という人物、英語で話し掛ける母親に、日本語で答えている。つまり両言語を理解しているということだ。
「どうしたの? そんなに見つめて」
『ごめんなさい、絵利香ちゃん。梓は記憶障害を起こしているの。相手のことすぐには思い出せないの。それと、日本語も忘れちゃっているのよ。だから私達も英語を使っているわけ』
「ええ。そんなあ……こっちに来たら、英語は一切使わないで日本語だけで会話しましょうって約束してたのに。しかもこのわたしのことも、忘れているなんて」

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