妖奇退魔夜行/第六章 すすり泣く肖像
2020.11.27

陰陽退魔士・逢坂蘭子/第六章 すすり泣く肖像


其の壱


 阿倍野女子高等学校美術準備室。
 キャンバスに向かって絵筆を動かす人物がいる。
 非常勤講師で美術担当の稲川教諭である。
『稲川先生、校長先生がお呼びです。校長室までいらしてください』
 校内放送を受けて、絵筆を置いて立ち上がる稲川教諭。
 静かに外に出て戸を閉める。
 誰もいなくなった美術準備室。
 閉め切った窓、淀んだ空気の中で、カーテンの隙間から淡い光が、キャンバスを照らし
ている。
 清純な姿をした少女の肖像画。
 まるで生きているようなほどに繊細に描かれていた。
 と、突然異変が起こった。
 肖像画の瞳から涙のようなにじみが現れ、水滴となって流れ床を濡らしはじめた。
 異変はそれだけではなかった。
 周囲の壁に飾られた肖像画がすすり泣きはじめたのである。
 その中にあってただ一つ男性の肖像画が怪しげに異彩を放っていた。

 数時間後。
 蘭子達が教室の中央に置かれた石膏像を取り囲んで、デッサンの授業を受けている。
 後ろ手に腕組みをし、生徒達の間を回りながら、指導をしている稲川教諭。
 一人が静かに手を挙げ、稲川教諭が歩み寄って小声で指導をはじめた。
 陰影についての質問のようだった。光線の当たり具合や陰影の濃淡について、より立体
感を出すにはどう表現したら良いかを尋ねている。
 生徒達の質問に対して、親切にアドヴァイスを与えている稲川。
「立体的に描こうじゃなくて、見たまま感じたままを正直に描くんだよ。技巧的に描こう
としないで自然にね」
「はい、わかりました!」
「こら、どさくさに紛れて手を握るんじゃない!」
「えへへ……」
 頭をかく生徒。
 この生徒の名は宮田安子といって、稲川教諭にほのかな思いを寄せていた。
 やがて授業終了のチャイムが鳴った。
「ようし、それまでだ。デッサン画の裏にクラスと名前を書いて提出。誰か集めて準備室
まで持ってきてくれ」
「はあい。あたしがやります」
 手を挙げたのは宮田安子だった。
 稲川教諭はさっさと準備室へと戻り、安子は生徒達からデッサン画を集めはじめた。
「あんたもマメね」
 安子が稲川教諭を好きなことを知っている友人が冷やかす。
「先生に気に入られたいからね」
「好きにやってなさい」
「へいへい。そうしますよ」
 何を言われても、意に介せずである。
 デッサン画を集め終わると、そそくさと準備室に入っていった。

 稲川教諭は紅茶を入れて飲んでいるところだった。
「みんなのデッサン画をお持ちしました」
「おう。そこの机の上に置いてくれないか」
「はい」
 指差された机の上にデッサン画を置く安子。
「君も紅茶を飲むか?」
「はい。頂きます」
 断るはずもなかった。
 稲川教諭は、もう一客ティーカップを棚から取り出して、ポットから紅茶を注いで安子
に渡した。
「ミルクを切らしているんだ。砂糖だけで我慢してくれ」
「砂糖だけでいいです」
 手渡れたティーカップに砂糖を入れてかき回しながら、壁に掛かった肖像画を眺める安
子。
「この肖像画は、みんな先生がお描きになられたのですか?」
「そうだよ」
「やっぱり、モデルさんを頼んで描いておられるのですか?」
「もちろんだよ。おかげでモデル料を支払ったらすっからかんだよ。絵具を買うのにも四
苦八苦しているよ。非常勤の給料ではきびしいね」
「あたしでよければ、ただでモデルをやってあげましょうか?」
「本当かね?」
「はい」
 次の授業の予鈴が鳴り始めた。
 ティーカップを机の上に置いて話す安子。
「また後でうかがいます」
「その時に話し合おう」
「そうですね。ごちそうさまでした」
 授業に遅れないように、あわてて準備室を退室する安子。

 一人になり、意味深な含み笑いを浮かべる稲川教諭だった。


其の弐


 数日後。
 阿部野橋界隈を歩いている安子を含めた一年三組クラスメート達。
「あった! ここだわ」
 稲川教諭が小さな画廊を借り切って個展を開いていた。
 狭い入り口をくぐってすぐの所に机が置かれており受付となっている。
「先生、来たよ!」
「やあ、よく来たね。まあ、ゆっくり見学していってくれ」
「はい」
 受付簿に記帳して中に入る一行。
 画廊の壁には肖像画をメインとして、風景画などが適当な感覚で展示されている。
 ゆったりと歩きながら鑑賞している一行。
 その繊細な描写に一様に感心している様子であった。
 ただ一人を除いては。
 蘭子は何かを感じているようであった。
 じっと肖像画を見つめて、その何かを探ろうとしている。
「この肖像画には秘められた謎がありそうね……」
「どうしましたか?」
 いつ間にか稲川教諭がすぐそばに立っていた。
 まるで気取られることなく近づいたことに驚く蘭子。
 いくら肖像画に集中していたとはいえ、気配を消していたとしか思えない動きである。
 ただ者ではなさそうであった。
「まるで生きているようですね」
「精魂を込めて描いていますからね。魂が乗り移ったとしても不思議ではないでしょう」
「乗り移る?」
「言葉のあやですよ」
 と微笑んで安子の方へと歩いていった。
 その後姿を見つめながら、何かが起こりそうな予感を覚える蘭子であった。

 放課後の美術準備室。
 椅子に腰掛けている安子を、キャンバスにデッサンしている稲川教諭。
 安子の奉仕モデルの提案を受け入れてのことである。
 絵を描く時の稲川教諭の眼差しは真剣そのもので、黙々とキャンバスに向かっていた。
「少し休憩しようか」
「はい」
 いつものように紅茶タイムとなる。
 稲川教諭が紅茶の準備をし、安子が電気ポットでお湯を沸かす。
 ティーポットに茶葉を入れ、熱湯を注ぎ十分蒸らしたところで、ティーカップに適量を
注ぐ。
 芳しい香りが漂う紅茶に、コンデンスミルクを注いで、ミルクティーの出来上がりだ。
 コンデンスミルクにはショ糖が含まれているので、砂糖は入れないのが普通である。
 ちなみに常温保存できる茶色の台形の容器カプセル状に入ったミルクがあるが、これは
乳製品ではなく植物油を加工したものである。
 と、稲川教諭に教えられた安子は、意外に思ったものだった。それまでミルクだと思っ
てコーヒーや紅茶に入れて飲んでいた。
 稲川教諭は茶葉にもこだわっており、ミルクティーが好きなせいもあって、ストレート
向きのダージリンではなくて、ミルクティー向きのアッサムを好んでいる。
「おいしい!」
 一口すすって言葉をもらす安子。
 稲川教諭と一緒に過ごすこのティータイムは、安子にとっては心やすまるひとときであ
った。


其の参


 安子にとって幸せは長くは続かなかった。
 二人の関係が学校側に知られるところなり、稲川教諭は三ヶ月間の自宅謹慎となった。
 せっかく良い雰囲気になったというのに、このまま会えないままとは寂しい。安子は稲
川教諭の自宅へ密かに通い始めた。
 とはいえ、危ない関係になるということではなかった。
 日がなキャンバスに向かってデッサンを続ける日々が続いていた。
 この頃から安子は体調を崩す日々が多くなった。突然めまいを覚えたり、一日中だるさ
を感じるようになっていた。
 日に日に痩せていく安子。
 はた目にもその異常さが良くわかるものだった。
 安子の変わりように、クラスメート達が忠告する。
「安子。稲川先生の自宅に通っているみたいだけど、やめた方がいいんじゃないの?」
「そうよね。後ろめたい気持ちがあるから、精神的に疲れてきているのよ」
「そうは言うけど……」
「モデルやってるってことだけど、まさかヌードモデルじゃないでしょ」
「とんでもないわ」
 恋は盲目。何を言っても無駄のようであった。
 このままにしていては、取り返しのつかないことになる。
 ついに蘭子が動き出した。

 稲川教諭の自宅前。
 蘭子が姿を現す。
 ベランダを見上げたかと思うと、まるで忍者のように軽々と塀を飛び越えてベランダに
乗り移った。
 そこからは部屋の中がよく見えた。
 折りしも稲川教諭が安子の肖像画を描いている最中だった。
 壁には所狭しと肖像画が飾られている。中に一つだけ稲川教諭の自画像と思しき額がひ
ときわ異彩を放っていた。
「もうじき完成だよ」
「ええ……」
 答える安子は意識朦朧として虫の息同然のようであった。
 突然、窓が開け放たれて蘭子が姿を現す。
「そこまでにしてくれる?」
「君は逢坂君じゃないか」
「いつまで講師ぶっているつもり? 正体を現したらどうなの?」
「何のことですかね」
「では、これではどうです」
 蘭子が封印を解く呪法を唱えると、壁に掛けられた肖像画から魂が飛び出し部屋の中を
舞い始めた。すすり泣いたり、涙を流す肖像画もあった。
「ほう……。陰陽師というわけですか」
「おまえは、人の魂を絵に写し取り、封じ込めてしまう妖魔だ」
「まるで悪者のような言い方ですね」
「そうではないのか?」
「私は、女性達の願いを叶えてあげているだけですよ」
「願いを叶える?」
「永遠の若さがほしい。いつまでも若くありたい。そんな女性達の願いを、肖像画にして
叶えてあげているのです。肖像画になれば永遠に年をとりませんからね」
「それで肖像画に魂を封じ込めているのか」
「肉体は老いさらばえ朽ちてしまう。それを防ぐことは不可能です。せめて美しい時の姿
を肖像画として残し、魂を写し取って封じることは罪ではないでしょう。本人の希望なん
ですからね」
「希望なんかではあるものか! そう思っているのはおまえのエゴだ。ここにある肖像画
は嘆き苦しみもがいている」
「見解の相違ですね」


其の肆


 二人が言い争っている間も、安子は虚ろな瞳で表情に変化は見られなかった。おそらく
魂のほとんどを吸い出されて、肖像画に写し取られてしまっているに違いない。
「安子の魂を元に戻せ!」
「お断りしますね。もう少しで完成するものを。私の新しいコレクションの一つになるの
です」
「許せないわ!」
 身構える蘭子。
「私を倒そうというのですか。できますかね」
 余裕綽々の稲川教諭。
 妖魔には実体を巧妙に隠している者が多く、かつ的確にその弱点を突かなければ倒せな
い。
 陰陽五行思想における万物は「木・火・土・金・水」という五種類の元素から成るとい
う説がある。
 五行相生と五行相剋とがあるが、この際問題となるのが、五行相剋の方である。水は火
を消し、火は金を溶かし、金でできた刃物は木を切り倒し、木は土を押しのけて生長し、
土は水の流れをせき止めてしまう。水は火に、火は金に、金は木に、木は土に、土は水に、
それぞれ悪影響を及ぼすというのが、五行相剋である。
「確かに、おまえを倒すことはできないかもしれない。しかし、これならどうだ!」
 蘭子の手元から何かが放たれた。
 するどく尖った針であった。
 それは壁に掛けられた稲川教諭の肖像画に突き刺さり、五芒星を形作った。
「その肖像画がおまえの正体だ!」
「ど、どうして判ったのだ?み、身動きがとれん!」
「おかしいとは思わないのか? これだけたくさんの少女の肖像画の中にたった一つだけ
男性の肖像画があるというのは」
 稲川教諭の正体は、キャンバスに描かれた肖像画そのものだった。
 少女達の魂を肖像画に封じ込めたように、自分自身の魂を肖像画として永遠不滅の魂と
して生きる道を選んだのかも知れない。あるいは、霊能高い術士によって肖像画として封
じ込められてしまったのかも知れないが……。
 肖像画の中から人を操って、肖像画を描かせて少女の魂を封じ込めて、次第に神通力を
高めていったのだ。
 稲川教諭も、この肖像画に精神を乗っ取られた悲しい人物だったのである。
 金でできた刃物は、木(紙)を切り倒す。
 五芒星を形作る針が、肖像画の中の魂(妖魔)を封じ込めていた。
「業火の炎よ。悪しき魂を焼き尽くせ」
 蘭子の指先に青い炎が燈り、空中を浮遊するようにして、肖像画の描かれたキャンパス
に燃え移った。
 悲鳴を上げて悶え苦しむ肖像画の妖魔。
 やがて肖像画は灰となり跡形もなく消え去った。
 すると、部屋の壁に飾られた少女の肖像画から、すべての魂が解き放たれていった。
 蘭子は、それらの魂を浄土へと導くように、浄化の呪法を唱えた。

 椅子に座ったまま自失状態の安子。
 稲川教諭も床に倒れてはいるものの自我を取り戻しつつあるようだった。
 安子の肖像画に呪解を掛けると、写し取られた魂が再び安子に呼び戻されて、意識を取
り戻していった。
 静かにその場を立ち去る蘭子。
 やがて稲川教諭と安子が目を覚ます。
「先生、どうして床に寝ているのですか?」
「あ、あれ? いつの間に……。変だな」
「あたしも椅子に座ったまま居眠りしてたみたいです」
「そ、そうか……。とにかく絵を完成させよう。もう少しだから」
「はい」
 何事もなかったように会話を続ける二人。
 モデルの安子と、肖像画を描く稲川教諭。
 二人だけの時間が、静かに流れていく。

すすり泣く肖像 了

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