妖奇退魔夜行/第三章 夢鏡の虚像 後編
2020.11.24

陰陽退魔士・逢坂蘭子/第三章 夢鏡の虚像 後編


其の拾壱

 道子の自宅は程遠くないところにある。
「そういえば、先日おまえが妖魔から救ったという娘はどうしておる? 魔によって女子
にされたという」
「恵子ね。元気にしていますよ。あ、そこの家です」
 と、鴨川姉妹の家を指差す蘭子。
 その家をじっと眺め、妖魔の気配のないのを確認しているようすの晴代。
「そうか……。妖魔から完全に解放されたということだな」
「はい」
 再び歩き出す晴代と蘭子。
 やがて道子の自宅の前にたどり着く。
「ここです」
 立ち止まる二人。
 二階の窓を見上げる晴代は、そこに鬼火のようなものが点滅しているのを見い出してい
た。
「あれが見えるか、蘭子」
「はい。道子の魂が苦しんでいます。早くしないと手遅れになります」
「その通りだ」
 門をくぐって玄関に回りインターフォンを押した。
 ややあって、答が返ってくる。
「はい。どちら様ですか?」
「クラスメートの逢坂蘭子です」
「ああ、蘭子ちゃん……」
 しばらくの間があってから、玄関の扉が開いて暗い表情の母親が顔を出した。
「せっかく来ていただいたのだけど、道子が熱を出してしまって、今夜はご遠慮して頂戴
ね」
「実は、その道子のことでお伺いしたんです」
「どういうことですか?」
 ここで、後に控えていた晴代が前に出てきた。
「ちょっと失礼しますよ」
「あら、これは土御門神社の宮司さん」
 神社では季節の折々に祭礼が開かれており、町内会などの寄り合いなどに、晴代は宮司
としてかかさず参加している。阿倍野で暮らす人ならば、知らない者はいないという顔で
もある。
「娘さんの症状は、風邪などの病気ではなく、悪魔が取り憑いているせいじゃ」
「悪魔? まさか科学的な世の中にオカルトなんて」
「いや、信じられないのは良く判りますが、娘さんの症状は本当に熱だけですか? 他に
不思議な現象はありませんですかな」
 じっと母親を凝視する晴代。
 耐えられなくなって目をそらせ、喉を詰まらせたように話し出す母親。
「じ、じつは……娘は……」
 言いかけた時、奥からこの家の主人が出てきた。
「加代。娘の部屋に案内して、その目で確かめてもらった方が良い」
 その腕には痛々しいほどの包帯が巻かれていた。
「あなた!」
「その腕は、どうなされた?」
「いやはや、娘に噛み付かれましたよ。しかも尋常な力じゃない。筋肉を引き裂いて、骨
にまで歯型がついています」
「なるほど。やはり悪魔が憑いていますな」
「とにかく見てやってください」
「それでは失礼しますよ」
「お邪魔します」
 草履を脱いで家に上がる晴代と蘭子。
 母親に案内されて、二階の道子の部屋に着く二人。
「十分気をつけてください。信じられないことが中で起こっていますから」
 と言いながら、部屋の戸を開ける母親だが、怖がって中へ入ろうとはしない。
 部屋の中は惨憺たるものだった。
 箪笥は倒れ、カーテンは引きちぎられ、床には飾り物・置物などが散乱していた。壁際
にある紅い染みは、父親が噛まれた時の血飛沫だろう。
「まるでポルターガイスト現象ね」
 ふと、呟く蘭子。


其の拾弐


 ひとまず、その部屋を退散して、応接間で相談することにする。
「ご覧になられた通りです。やはり悪魔かなんかに魅入られてしまったのですか?」
「いかにも、今夜中にも何とかしないと、娘さんは助からない」
「助からないって……。そんな、娘が……」
 相変わらず涙ぐんでいる母親。
 その肩をやさしく抱き寄せながら、
「大丈夫だよ、ママ。陰陽道の大家である土御門宮司がいらっしゃっということは、娘を
助ける算段があるということだよ。ですよね?」
「いかにも」
「本当ですか、娘は助かるのですか?」
 母親の目が輝いた。
「土御門家の名誉にかけて」
 すると気が緩んだのか、顔を手で覆ってワッと泣き出した。

 その時、玄関のインターフォンが鳴った。
「私が出よう」
 いまだに泣き伏せっている母親に代わって父親が玄関に回った。
 玄関で何やら問答が聞こえていたが、戻ってきた父親に着いて、二人の男性が付いてき
ていた。
「井上課長さん!」
 蘭子が思わず声を出した。
 それもそのはずで、心臓抜き取り変死事件で、散々な待遇をしてくれた相手。大阪府警
本部刑事課長の井上警視だったからである。
「これはどうも……。逢坂蘭子さんでしたね。その節はどうも……」
 と、蘭子を認識して頭を下げる井上課長だった。
「知り合いかね」
 晴代が蘭子に尋ねる。
「例の心臓抜き取り変死事件の担当捜査官よ」
「ああ、あれか……」
「大阪府警刑事課の井上です」
 言いながら、晴代に名刺を差し出す。
 受け取って、記されている正式な肩書きを読んで尋ねる晴代。
「捜査一課の刑事課長さんが、わざわざお見えとは、何事か起こりましたかな」
「この近くで殺人事件が起こりましてね。目撃者によりますと、こちらの娘さんが関わっ
ているらしいとのことで、事情聴取に参った次第でして」
「ほう、殺人事件とな。どのような……」
「目撃者によりますと、こちらの娘さんに若い男が絡んでいたらしいのですが、突然男の
腕が捻じ曲がり、頭が首からもぎ取られるように吹き飛んだというのです。実際の現状も
その通りのままでして……。まるで怪力の持ち主かプロレスラーでもないと、ああにも…
…」
「とてもか弱い娘さんには不可能だとおっしゃるかな」
「その通りです。頭を抱えていたのですが、蘭子さんがこちらに見えているのをみて、少
し納得できたような気がします」
「納得とは?」
「はたまた悪霊かなんかの仕業ではないかと……」
「科学捜査しか信じない警察の言葉じゃないね」
「まあ、組織的にはその通りなのですが、個人的には蘭子さんに教えられましてね。科学
では解明できないものもあるということをね」
「ふん……」
 と、鼻声で答えて、両親の方に向き直る晴代だった。
「それでは、ご両親にお尋ねいたしますが、娘さんが帰宅された当時のことを、詳しく話
していただけますかな」
「よろしいでしょう。お話いたしましょう」
 父親が意を決したように語り出した。


其の拾参


 夜道をとぼとぼと歩いている道子。
 制服は乱れて至る所が破れている。
 自宅にたどり着き、玄関の戸を開けると無言で上がる。
 その物音に気づいた母親が台所から顔を出す。
「道子なの? 遅かったじゃない」
 しかし、その汚れた姿に驚いて、
「どうしたのよ。その格好は?」
 と、声を掛ける。
「何でもないわ」
「何でもないわじゃないでしょ。誰かに襲われたの?」
 気が気でない声で尋ね返すが、
「ちょっと転んだだけよ」
「転んだだけで、そんなになるわけないでしょ」
「いいから、放っておいてよ」
 母親の手を振り払って、階段を昇ってゆく道子。
「待ちなさい! 道子」
 居間の方で、二人のやり取りを聞いていた父親が呼び止めるが、無視して自分の部屋に
入ってゆく。
「あなた、道子に何があったのでしょうか?」
「わからん。ちょっと見てくる」
 階段を昇り、道子の部屋の前に立ちノックする父親。
「パパだよ。入るけどいいよね?」
 中から返事はない。
 静かにドアを開けて中に入る父親。
 道子はベッドに俯けに伏せっていた。
「道子……」
 声を掛けると、道子が父親に向けて、激しい声で怒鳴った。
「出てってよ。何でもないんだから」
「そんなこと言っても……」
 さらにベッドに近寄る父親だったが、突然道子が起き上がって、右腕に噛みついた。も
のすごい顎の力だった。筋肉を引き裂き、骨まで歯が食い込み、鮮血が辺り一面に飛び散
る。思わずのけ反って、右腕を押さえ苦痛にゆがむ父親。
 開けたドアのすき間から、母親が心配そうに覗いていたが、それから信じられないこと
がはじまった。
「ここから出て行け!」
 と、道子が叫ぶと、ぬいぐるみなど部屋中の置物が両親めがけてくる。タンスが大きな
音を立てて倒れ、カーテンが引き裂かれた。
 命からがら部屋を抜け出した両親は、まず父親の腕の治療のために、夜間診療救急病院
へと車を走らせた。入院治療を勧める医者の言葉に、
「娘を放っておけるか!」
 と、自宅に舞い戻ってきたのである。
 だからといって何ができるというわけでもなし、時々娘の部屋を覗きこむが、ベッドに
伏せって身動き一つしなかった。しかし、不用意に近づいて様子を見ることもかなわない。
 ほとほと困っている時に、蘭子達が訪問してきたのである。

「なるほど、良く判りました」
 父親から事情を説明され、納得した晴代が答えた。
「お願いします。娘を助けてやってください」
 必死の表情で懇願する母親。
「大丈夫です。そのために伺ったのですから」
 見つめ合って安堵する両親。
 横から井上課長が声を掛けた。
「あの……。私達に何かお手伝いできることはありますか?」
「何もありませんな。ご両親と一緒に、命が助かるよう祈っていて下さい」
「はあ……。相手が悪霊の類だと、我々には手も足も出ないということですか」
「いかにも、これから蘭子と二人で娘さんの部屋に入りますが、一切立ち入り禁止、部屋
には絶対に近づかないで下さい。ご心配でしょうが、儂らを信じてすべてを託して欲しい。
守れますか?」
 一同が見つめって確認しあう。
「判りました。仰せの通りにいたします。刑事さんたちもよろしいですね」
 父親が確認すると、大きく頷いて井上課長が答えた。
「無論です」
 井上課長は思い起こしていた。心臓抜き取り変死事件での、あの母親の猟奇殺人におけ
る、凍って時の止まった部屋のことを。悪霊というものが存在し、一般人にはとうてい解
決できないものがあることを身に知らされていた。
「いくぞ、蘭子」
「はい!」
 晴代が掛け声と共に立ち上がり、蘭子が応えて風呂敷包みを抱えて従った。


其の拾肆


 道子の部屋の前に立つ晴代と蘭子。
「陰形{おんぎょう}の術をかけておくぞ」
 陰形の術は、平安時代前期の文徳天皇・清和天皇の頃に活躍した宮廷陰陽家の滋丘川人
{しげおかのかわひと}が得意とした呪法。身を隠し守る護法の一つである。
 静かにドアを開けて中に入る二人。
 相変わらずの酷い惨状であるが、ある程度片付けなければ仕事にならない。
 床に散らばっている物を拾い上げて端に寄せ、ガラステーブルを中央に据えて作業台と
する。ベッド回りも邪魔にならない程度に片付ける。
 奇門遁甲八陣の方位に当たる部屋の周囲に燭台を置いて、ローソクに火を点し、死門の
位置に夢鏡魔鏡を設置する。道子と夢魔鏡とを結ぶ直線上の中心に対して直交する位置に、
夢魔鏡と鏡魔鏡を平行かつ等距離に置く。
「例のものは持ってきたな」
「はい」
 蘭子は懐から紙粘土を取り出して中心点に置いた。この紙粘土には自身の髪の毛を、呪
法を唱えながら練りこんで形代としたもので、夢の世界と鏡の世界を移動する蘭子の分身
ともいうべきものである。さらに式神を呼び出すための呪符をその下に敷いた。
 部屋中に張り巡らされた方位陣、虚空の世界を往来するための魔鏡の配置など。
 すべて準備が整った。
「蘭子、覚悟はいいな」
 おごそかに晴代が言った。
 場合によっては、夢鏡魔人との戦いに敗れ、命を失うかもしれないし、鏡の中に閉じ込
められて二度と出られなくなるかもしれない。陰陽師としてのすべての力を出し切り、命
がけの戦場へと向かう蘭子の心意気は本人にしか判らない。
「はい。いつでも結構です」
 と、目を閉じ手を合わせて、精神統一をはかった。
「では、いくぞ」
 晴代が心身解縛の呪法を唱え始めると、蘭子の身体が輝きだした。身体と魂の遊離がは
じまったのだ。やがて魂が完全に離れ、いとおしそうに身体にまとわりついている。
 さらに虚空転送の呪法を唱え始める晴代。すると蘭子の作った形代が輝きだした。
「夢の中へ、いざ!」
 晴代がカッと大きく目を見開いて、手を合わせてパンと鳴らすと、蘭子の魂が形代の中
へと、スッと消え入った。
 大きなため息を付いて肩を下ろす晴代。
 しかし、これで終わったわけではない。深呼吸をすると再び呪法を唱え始めた。道子の
生命を保ち続けるための呪法に取り掛かった。
 晴代と蘭子が全身全霊をかけた戦いが幕を下ろしたのである。


其の拾伍


 その頃、蘭子は摩訶不思議なる空間を彷徨っていた。
 呪法が成功して道子の夢の中に入り込んだようである。
 それにしても、目に見える景色が異様なまでに形容しがたいもので、抽象画のキュビズ
ムのようだったり、墨流しのようだったり、刻々と変化を続けていた。
 無理もないかもしれない。他人の夢など具象化できるものではないだろう。
 それでは夢鏡魔人は、その光景をどのように見ているのだろうか。
 その時、するどい突き刺さるような声が轟いた。
「誰だ! 私の神聖な領域を侵す奴は」
 景色の一角がスパイラル状に動いたかと思うと魔人が姿を現した。その姿が見えるのは、
道子が見ている夢ではなく、実際として虚空に存在しているからだろう。
「あなたが夢鏡魔人ね」
「ほう。現世では、私のことをそう呼んでいるのかね」
「なぜ、夢に入り込んで人を苦しめるのか。そして殺してしまう」
「なぜ? それは、人が食物を摂取するのと同じだよ。私が生きるためであり、人が苦し
みもがく負の精神波を命の糧としているからだよ。悪夢を見せるだけでもいいんだがね。
それではつまらないから、当人に殺人を犯させたりして、より苦しむところを眺めて楽し
んでいるのさ。まあ、道楽みたいなものだ」
「道楽ですって? 許せないわ。謄蛇よ、ここへ!」
 蘭子が叫ぶと、火焔に包まれた神将が現れた。式神十二神将の中でも桁違いの通力と生
命力を有する四闘将【謄蛇・勾陣・青龍・六合】の一神である。
「なるほど、式神というわけか。しかし、式神では私を倒せないことは知っているのでは
ないか?」
「おまえの精神力を削ぎ落とすくらいはできるはずだ。その間に、弱点を探し出して倒し
てみせる」
 はったりであった。
 おそらく、この道子の夢の中では、鏡の世界に本性を持つ夢鏡魔人は倒せないだろう。
もちろん魔人の方も蘭子を倒せないのは同様である。
「こざかしい真似を……。ならばこうしてくれるわ」
 蘭子の身体が浮かび上がり、空間に出現したスパイラルの中へと、魔人共々吸い込まれ
ていった。
 残された式神は自然消滅していった。

 そこはうって変わって荒涼としたただ広い空間だった。
 至る所に無数の鏡が浮かんでおり、足元にも水溜りのような水面が広がっている。
「これが夢鏡魔人の世界?」
「その通りだ」
 背後から声が掛かり、振り向くと夢鏡魔人がふてぶてしい表情で立っていた。
「ここは私の世界だ。鏡を通して世界中どこへでも往来できた……。しかし今は封印され
て、この魔鏡のみからしか現世へ渡れなくなってしまった」
 魔人のそばに一つの鏡がスッと寄ってきた。
 そこには、道子の部屋の中の様子が映し出されていた。部屋の八方に点されたローソク、
ガラステーブルの上に置かれた二対の魔鏡。そのそばで一心不乱に呪法を唱える晴代がい
た。
「なるほど……。二人掛かりというわけか。娘の夢の中にいたせいで、こんな仕掛けをし
ていたとは気づかなかったよ。なるほどたいした陰陽師の術者のようだな」
「おまえを倒すための方策は十分にとってある。覚悟することね」
「まあ、そう急くな。私のとっておきのコレクションを見せてあげよう」
 と、パチンと指を鳴らすと、別の鏡が現れた。
 そこに映る光景を目にして息を呑む蘭子。


其の拾陸


 若い女性が数人の男達に押さえつけられて輪姦されていた。
「この鏡には、女性達が苦しむ最も残酷な場面が残留思念として、魂と共に閉じ込めてあ
るのだ。つまりこの女性の魂は未来永劫輪姦され続ける思念に苦しめられるというわけだ

「なんてことを……」
「しかもこの女性は男達に襲われたのではない。私がその身体を乗っ取って、男達の前で
衣服を脱がせて淫乱女を演じさせたのだ。だが身体を乗っ取られても意識ははっきりと覚
醒し、目の前で意にならないことが起きていることをどうすることもできない。この女性
は清廉潔白で純真無垢な生娘だったよ。さぞかし心痛な思いであっただろうな」
「貴様! 人の純真な心を無残にも踏みにじるとは許せん!」
 怒り心頭にきて我慢の限界であった。
 蘭子は片膝を付いて呪法を唱え始めた。
「バン・ウーン・タラーク・キリーク・アク」
 心臓抜き取り変死事件の時に使用したあの呪法である。
 構えた両手の間に五芒星の印が現れる。
「はっ!」
 蘭子が気を放つと同時に五芒星は魔人の額を捕らえたが、すぐに消えてしまった。
「効かない?」
「何かね、今のは? そんな呪法など、私には効かない。それでは、こちらからも攻めさ
せてもらおうか」


其の拾漆


 一進一退が続いている。
 蘭子は次第に気力が衰えているのに気づき始めていた。
 一方の魔人は平然としていた。
 目の前に鏡が迫っていた。
 それに反映された自分の疲れきった表情。
 間一髪身をかわして鏡攻撃を避けるが、バランスを崩して青龍の背中から落下して地に
伏した。同時に青龍の姿も消え去っていた。
「そうか……。鏡は、私の精神波を吸収しているのか……。そして奴は」
 その時、どこからもなく精神波が届いてきた。
「その通りじゃ蘭子」
 晴代の思念波だった。魔鏡を通して鏡の世界へ思念波を送り込んでいるのだ。
「おばあちゃん!」
「いいか、良く聞け蘭子。魔人はそこら中にある鏡の中に閉じ込められた魂から、無限と
もいえる精神波を吸収して、消耗した体力を回復させているのだ。そしておまえは、鏡に
精神波を吸収されて、体力を消耗するだけだ。落ち着くんだ。怒りの精神波は、邪念や恐
怖といった負の精神波に近い。それこそが奴の活力の源なのだからな。そのままだと、他
の魂と同様に鏡の中に封じ込まれて、永遠に鏡の中を彷徨うことになるぞ。怒りを鎮めよ。
冷静さを取り戻せ!」
 そこで、思念波は途切れた。
「そうか……。そうだったのね」
 ゆっくりと立ち上がる蘭子。
 魔人が輪姦シーンの鏡を見せたりして、わざと怒らせて興奮させるような言動をしたの
は、蘭子の精神波を負の力へと導くためのものだったのだ。
 邪念を捨て、精神統一をはかる蘭子。
 冷静さを取り戻し始め、やがてその身体からオーラが輝き出しはじめた。
 魔人の放つ鏡が、そのオーラによって砕け散ってゆく。
 正義に燃える精神波が、負の精神波である鏡に打ち勝ったのだ。
 目を閉じ、静かに呪法を唱える蘭子。
 突然、歯で指を噛み切って血を流し、その滴る手を高く掲げて叫ぶ。
「虎徹よ。我の元へいざなえ!」

 現世の土御門家の晴代の居室。
 棚に置かれた御守懐剣が輝いて一瞬にして消えた。

 鏡の世界の中空の一点から強烈な光条が蘭子を照らし出した。
 そして一振りの剣が、ゆっくりと蘭子の差し出した手元へと、ゆっくりと舞い降りてそ
の手に収まった。
 虎徹に封じ込まれた魔人の精神波が解放されて怪しげに輝きだす。
「それは? 魔剣か!」
 さすがに夢鏡魔人も、これには驚かされたようだった。
 虎徹の本性も【人にあらざる者】であり、その実体は魔人である。
 鏡の世界の中へ飛び込んでくるくらいは簡単にできるはずであった。


其の拾捌


 魔人を倒すには、魔人をもってあたるべし。

 魔人はそこいらの妖魔と違って、桁違いの神通力と生命力を持っている。
 陰陽師家の大家でも封印するのがやっとの相手である。
 蘭子が魔人である虎徹を呼び寄せたのは、正しい判断と言える。
「その通り。魔には魔を。負の精神波には負の精神波を。魔を封じ滅する退魔剣なり」
 剣を上段に構え直し、地を踏みしめるように一歩前へと進む蘭子。
 その気迫に押されて、思わず後退する夢鏡魔人。
 相手が人間やその魂なら何とも思わない。
 しかし魔人が相手となると話は違ってくる。
 正真正銘の魔と魔の戦いとなり、どちらの魔力が勝っているかによって分かれ目である。
しかも強い念を持った陰陽師も付いている。
 この勝負、自分の方が不利と悟った夢鏡魔人は交渉を持ち掛けてきた。
「ま、待て。話し合おうじゃないか……。そうだ、ここにある鏡の中に封じ込めた魂達を
浄化してすべて解放しようじゃないか。そして私は、この魔鏡から二度と現世に出て、人
を殺めたりしないと誓おう。おまえは現世に戻って、この魔鏡を完全封印してくれ。な、
これでいいだろう?」
 魔人との口約束など当てにはならないだろう。永遠の命を持つ魔人なら、蘭子との誓い
を反故にして後世に再び災厄をもたらすのは明らかなることだった。

 この虎徹たる退魔剣に封じ込めたる魔人とは、古来のしきたりにのっとって正式なる【
血の契約】を結んでいるからこそ、意のままに従わせることが可能なのである。
 しかし、この鏡の世界の中では、血の契約を結ぶことは不可能であるし、そう簡単には
契約など結べないものである。
 夢鏡魔人の申し出は、急場凌ぎの言い逃れに過ぎないのである。
「人の世に、仇なす魔を断ち切る!」
 一刀両断のごとく、渾身を込めて退魔剣を振り下ろすと、解き放たれた魔人の精神波が、
夢鏡魔人に襲い掛かる。たとえそれを交わしても執拗に追いまわしてくる。
 突然、蘭子が気を放った五芒星の光が夢鏡魔人の背中を捉えてその動きを封じた。
「た、たのむ。見逃してくれ。同じ魔人じゃないか」
 目の前に迫ってくる魔人に、最期の許しを乞う夢鏡魔人だった。しかし蘭子との契約に
従う魔人には、何を言っても無駄である。
「ぎゃあ!」
 退魔剣に封じ込まれし魔人が夢鏡魔人に襲い掛かった。
 断末魔の悲鳴を上げて消え去ってゆく夢鏡魔人。
 蘭子との共闘により退魔剣が勝利した瞬間であった。
 宙に浮いていた無数の鏡が、次々と落下しはじめ地上で粉々に砕かれてゆく。そして封
じ込まれていた魂達が開放されて静かに消えてゆく。
「終わったのね……」
 その表情は、苦しい戦いを無事に乗り切った充実感に満ちていた。
 空に青龍が現れて蘭子を祝福するように吠えた。
「ありがとう、青龍。そしておまえもな」
 退魔剣に目を移すと、応えるようにひとしきり輝いた。
 やがて大地が崩れ出した。
 鏡の世界を支持する力が消滅したために、崩壊をはじめたのである。
 退魔剣は虎徹へと戻り、それを高く掲げて叫ぶ蘭子。
「現世へ!」


其の拾玖


 道子の部屋。
 ベッドに寄りかかるようにしていた蘭子の意識が戻った。
「大丈夫か、蘭子?」
「はい。大丈夫です」
 答える蘭子の懐からは、御守懐剣の虎徹が覗いていた。
「そうか……。虎徹を呼び寄せたのか」
「苦しい戦いでした。呪法や式神だけではとても……」
「そうかも知れないな」
 二人ともが揃って道子の方に視線を向けた。
 夢鏡魔人は倒した。残る問題は道子の容体だけである。
「道子は?」
「大丈夫だ。かなり弱ってはいるが、護法をかけておけば、二三日ですっかり良くなるだ
ろう」
「ありがとう。おばあちゃん」
「なあに、友達を助けようと一所懸命に勉強し、命を掛けて頑張ったんだ。そんな孫娘の
ためなら、いくらでも力を貸すさ。さてと……、後片付けをするとしようか」
「はい」
 手分けをして、部屋の周囲に置いた燭台や魔鏡などの道具を丁寧にしまい込み、ついで
に道子(魔人)が散乱させた部屋もきれいに片付けてゆく。倒れたタンスは式神を使役し
て元に戻した。

 やがて、道子の両親と刑事二人の待つ居間へと降りてくる二人。
「宮司!」
 その姿を見て、両親が立ち上がる。
「大丈夫です。娘さんは助かりました。取り付いていた魔物は退治しましたから」
「本当ですか?」
「無論です。しばらく安静にしていれば、元気になりますよ」
「あ、ありがとうございます。様子を見に行ってもよろしいですか?」
「もちろんですとも」
 喜々として階段を上がって道子の部屋へと向かう母親。
 その姿を見送りながら、父親が晴代に礼を述べる。
「本当にありがとうございました」
「いやいや、礼なら孫娘に言ってやってやってください。魔物を退治したのはこの孫です
から」
「蘭子ちゃん、ありがとう。道子が聞いたらどんなにか喜ぶでしょう」
「とんでもない。当然のことをしたまでですよ」
 両手を横に振って礼を言うまでもないことを表現している蘭子。
 とにかく円満解決した喜びに溢れている一同であった。
「さてと……」
 晴代が井上課長に向き直る。
「刑事さん達は、これからどうなさるおつもりじゃ」
 夜道で道子に絡んで惨殺された事件が残っていた。
 証言を裏付けるための事情聴取が必要ということで、この家を訪問したのであるから、
何もしないで帰るわけにもいかないのだが……。
「ともかく今夜は、このまま引き上げましょう」
 しばらく安静という判断なら、枕元での聴取もかなわないだろう。

 道子の家を出てくる刑事二人。
「どうしますか? 報告書」
「どうしますかと言われてもな……。男に絡まれていた、か弱い少女が、自分の力で図太
い二の腕を捻じ曲げ、その首根っこから頭をもぎ取って、十数メートル先に放り投げた。
と、証言通りに書くのかね?」
「上層部は信じないでしょうね」
「まあ、暗がりのことでもあるし、目撃者の見間違いということで落ちだな。犯人は通り
すがりの怪力男ということにしておこう」
「それが無難ですかね……。なんか、今回も迷宮入りになりそうです」
「運がないと、あきらめようじゃないか。さて、もう一度、殺害現場に行ってみるか」
「はあ……」
 刑事達が立ち去った後に、蘭子と晴代も出てきた。
 大きな背伸びをする蘭子。
「あ~あ。気分がいいわ」
「眠くはないのか?」
「どうかな、ついさっきまでは、気が張り詰めていたから。横になって目を閉じたら、そ
のまま朝までバタン・キューかもね」
「丁度明日は日曜日だ。昼まで寝ていると良い。晴男には儂から言っておく」
「ありがとう。でも大丈夫よ。若いんだから」
「あてつけかね、それは」
「あはは……」
 仲良く並んで談笑しながら、夜の帳の中へと消えてゆく二人だった。

夢鏡の虚像 了

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