梢ちゃんの非日常 懐かしの学園へ(最終回)
2021.08.17

梢ちゃんの非日常 懐かしの学園へ

 その日から、十二年の年月が流れた。
 絵利香は、梢と真理亜を連れて日本へ渡り、二人を聖マリアナ女学院中等部、そして城東初雁高校に入学させた。その進学コースは、絵利香が通った同じ学校に行きたいという、二人のたっての願いを実現させてあげたものだった。
 城東初雁高校の入学式の当日、二人を連れて懐かしの学校の正門をくぐる絵利香だった。
「十五年ぶりか……あんまり変わっていないわね」
「お母さん、感傷に浸るのは後にして。講堂に急がないと入学式がはじまっちゃうわ」
「お母さん、早く、早く」
 梢と真理亜が、両側から絵利香の手を引っ張っていく。
「そ、そうね」
 講堂に入り、絵利香は父兄席に、二人は一年A組の席に前後並んで座る。アメリカ国籍である真理亜は、外国人登録名として、母親の旧姓であり親権代理者である絵利香の性である篠崎を登録しているため、梢と仲良く並ぶことができたのだ。
 周りの生徒達の視線が梢に集中しているのに気づく絵利香。ため息をついたり、隣の生徒とひそひそ話ししていたり。
 ……そういえば、梓は人気者だったわね……こんな風に見られていたんだ。わたし達って……
 式は進んで、新入生代表による答辞となった。
「新入生代表。真条寺梢さん」
 一同の注目を浴びながら、席を立って壇上へと向かう梢。右手には学校側から手渡された答辞の書かれた書面を持っている。
 梢は書面を両手で掲げ持つと、ひと呼吸おいてから静かに答辞文を読みはじめた。
 それは流暢な英語だった。
 唖然とする校長以下の教職員達。場内からざわめきが湧きはじめる。
 いっきに答辞文を読み終えると、深く一礼して静かに退場する梢。
「ええと……ありがとうございました。真条寺梓さんでした。なお彼女はアメリカ国籍の帰国子女でありまして、英語での答辞でした」
 おどおどとした口調で、司会の教師が場をつくろうために以上のように説明を加えた。
 真理亜にピースサインを示しながら、自分の席に戻る梢。


 入学式の後で、職員室に立ち寄り、下条教諭と幸田教諭にあいさつにゆく絵利香。
 どちらも絵利香が、この学校の生徒だった時の担任と音楽担当の教諭である。
 その間二人は校庭で繰り広げられているクラブ活動勧誘の場へと向かっている。
「先生方が、この学校におられて助かります」
「まあ、何とかへばりついているよ。しかし、梢くんが答辞で、英語を喋りはじめた時は肝が冷えたぞ」
「ああ、あれですか。本人によると、『学校側から手渡された答辞をただ読むのでは、面白くなかったからよ』ということらしいですよ」
「うふふ、さすがに梓さんのお嬢さんらしいですね。梢さんをはじめて見た時は、ほんとに驚きましたよ。お亡くなりになった梓さんと瓜二つで、十五歳当時のままの姿で現れたんですから。性格もどうやらそっくりそのまま受け継いでいるようですね」
「真理亜くんも結構絵利香くんにそっくりじゃないか。てっきり君の子かと思ったぞ。血の繋がった従姉の子なら、まあ似ていても不思議ではないがね。しかしさすがにコロンビア大学を首席で卒業した絵利香くんが育てた二人だ。入学試験では、二人揃ってトップを分けあうなんて。日本語というハンデもなかったようだね」
「本当は真理亜ちゃんの方が総合学力では優れているのですが、精神面で多少弱い所がありましてね、異国の地での慣れない日本語での入試で実力を発揮できなかったようです。その点梢ちゃんの方は、母親の死というものを克服していますから、いざという時はタフなんですね」

「それにしても絵利香さんは、たいへんだったでしょう。親友の梓さんの代わりに梢さんを、ここまで育てるなんて、しかも真理亜さんも一緒にね」
「梓が亡くなる以前から、二人ともわたしになついてくれていたし、聞き分けの良い娘達だったから、育てるのは楽でしたよ」
「ところで二人の日本語は、やはり麗香さんが教えたのかね」
「ええ。教えるのは彼女が上手ですから」
「その麗香さんも日本に?」
「もちろんです。わたしの世話役に就任していますから」
「話しは変わるんだけど、梢さんが梓さんの性格を受け継いでいるとなると、音楽の方はどうなのかしら、ピアノとかは弾けるの?」
「やっぱり気になりますか?」
「そりゃあもう……音楽教師ですからね」
「一応弾けることは弾けます。ただ梓の死がトラウマとなって母親を強く思い出させるピアノから、しばらく遠ざかっていました。音感性が最も発達する時期でしたから、梓ほどには上達しませんでした。残念なことです」
「そうでしたか……。しかし素質を受け継いでいるのなら、これからの精進次第では梓さんに優るとも劣らない技術を身に付けることも可能だと思いますよ」
「だといいんですけどね。現在の梢ちゃんの興味は別なところにありますから」
「それってまさか?」
「今頃クラブ活動の勧誘の広場へ向かっていますよ。たぶん体育会系のクラブを物色してるんじゃないかな」
「ほう……すると僕の空手部に入ってもらえるのかな」
「そ、そんなこと……私が許しません! 絶対、我が音楽部に入ってもらいます」
 二人の教師の確執を目にして思わずほくそえむ絵利香。
「絵利香さん。何を笑っていらっしゃるの。失礼ですよ」
「ふふふ、ごめんなさい。昔の自分達と先生方のことを思い出してしまって。歴史は繰り返すんですね」
 顔を見合わす二人の教師だが、やがて気がついて笑いだす。
「あはは、そういえばそうだ。梓くんを巡って似たようなことやってたな」
「その通りですわね。うふふ」
「一応念のために言っておきますけど、以前幸田先生がお使いになった手は梢ちゃんには通じませんから。いくら音楽部に入れたくてもね」
「あら、何の事かしら。おほほ」


 二人の教師との面談を終えて、娘たちのいるであろう校庭へと出てくる絵利香。
「お母さん、探しちゃったじゃないの」
 梢が、真理亜と仲良く連れ立って歩いて来る。
「感慨深げに何を見つめてたの?」
 真理亜が尋ねる。
「ここはね、梢ちゃんのパパとママの出会った場所なの。だから……」
「パパとママが! ふうん、ここがそうなのか……小さい頃、ママに聞いたことがある」
 梢は、三歳の頃を回想していた。
 おやつの後の時間、いつものように梓の膝の上に腰掛け、テーブルの上に三歳児向けの算数の絵本を広げて、梓や自分の指を折りながら数を数える勉強の最中だった。いくら大好きな母親の膝元とはいえ、物語じゃない算数の絵本なので、飽きがきはじめていた頃合だった。
『ねえ、ママ』
『なあに』
『ママは、パパとどうして知り合ったの?』
 物語の絵本では、男女が出会って、めでたく結婚するというものがたくさんある。
『パパとはね。ここから遠い国、日本という国で出会ったのよ』
『にほん?』
『そうよ。今、パパが住んでいる国で、そこの学校というところで、ママはパパを好きになったのよ』
『がっこう……?』
『梢ちゃんが通っている保育園みたいなところよ』
『ふうん……』
 男の子と女の子が一緒に勉強したり遊んだりしている保育園から、三歳なりにパパと ママの出会いと恋愛を思い描こうとしている梢。

「そういえば、わたしもお母さんから聞いたような記憶があるわ。梢ちゃんのパパとママが日本とアメリカに別れて暮らしているのは、どうしてなのかを聞いたんだと思う」
「あら、よく覚えていたわね。それって、真理亜ちゃんが四歳の時よ」
「コロンビア大学を首席で卒業したお母さんに、みっちり教育されてるもの。記憶力はお母さんゆずりよ」
「そんなこと言ってると、ママが泣くわよ」
「だってほんとのことだもの。わたしを教育してくれたのはお母さんで、ママじゃないのは確かよ。第一、ママとお母さんは従姉同士、同じ篠崎家の血筋じゃない」

「ところで、梢ちゃんはどこのクラブに入ったのかな」
「聞いてよ、お母さん。梢ちゃんたら、空手部に入っちゃったのよ」
 真理亜が代わりに答える。
「やっぱりね。で、真理亜ちゃんの方は決めたの?」
「わたしはまだよ。梢ちゃんのことが心配で」
「まったくう。真理亜ちゃんは心配症なんだから」


 執務室。
 正面の窓を境にして、右側に二つ左側に三つの机が並び、向かって右側では絵利香と麗香が、左側では早苗が末席で執務をとっている。明いている机は、学校にいる梢と真理亜のものだが、梢の机の上にはパンダのぬいぐるみと、梓の膝の上でパフェを食べている三歳当時の梢という母娘むつまじい写真が飾られている。
 絵利香は、母親の梓のことを忘れないように、ことあるごとに母娘仲睦まじい頃のアルバムを見せたり、昔の思い出を語ったりして、梢を教育してきたのだ。二度に渡って命懸けで娘の梢を救った梓の魂を安らかにさせるためにも……。
 その甲斐あって、梢の心には梓との思い出が、しっかりと植え付けられていたのである。また梢にはパンダのぬいぐるみと同じくらい大切なあしかのぬいぐるみもあるが、こちらは寝室の方に飾ってある。もちろんそれに関わる絵利香との動物園の思い出もしっかりと記憶の中にある。ただ動物園に行ったというだけならとっくに忘れていただろうが、あしかのぬいぐるみという思い出深い形見があるので、それを見るたびに思い出されるからだ。
 本来執務に関わらない真理亜の机があるのは、二人を姉妹同様に分け隔てなく育ててきた絵利香の方針である。梢が真条寺グループを継承した後も、オブザーバーとして良き協力者となってもらいたいという願いである。もちろん真条寺グループに次ぐ世界第二位の巨大組織となった篠崎グループとの橋渡し役となっている絵利香の後任としても期待しているのだ。


お母さん、やめないで


 梢の十六歳の誕生日を間近に控えたある日。パーティの準備で、ブロンクスの本宅に戻った絵利香と真理亜そして本人の梢。

 執務室で打ち合わせが行われている。
『絵利香さん、遠いところお疲れ様です。今日までの間、本当にありがとうございました。梢も無事十六歳の誕生日を迎えることができそうです』
『そんな堅苦しいことをおっしゃらないでくださいよ。梢ちゃんのこと、本当の娘のように思っているんですから、何でもないことです』
『そう言っていただけると助かります』


『招待状を出した各国首脳からご出席のご返事が届いております。米国大統領と第七艦隊司令長官、英国からは皇太子様と首相殿、仏露大統領、独伊首相、EU議長……出席予定率百パーセントです』
『まあ、梢の十六歳の誕生日は歴然として変わるはずもないから、みなさんこの日のために、一年以上も前からスケジュールを組んでいらっしゃったようですね』
『空港での政府専用機の出迎えの準備や、要人警護の手筈も万端整っています』
『パーティーの料理の準備はどうかしら。メニューは決まったのかしら』
『第一厨房のフランス料理、第二厨房の中国料理共、メニューは決定しました』
『結構です。絵利香さんの方はどうかしら』
『わたしの担当の日本料理の方も大丈夫ですよ。メニューを一通り試食してみましたけど、十分ご来賓のみなさまを満足させるだけの自信があります。ふぐ料理なども考えましたけど、さすがに万が一を考えると出すわけにいかず、板前達は残念がっていましたよ』
『お手数かけましたね。後は当日を迎えるだけですか』


 三階バルコニーで渚や麗香と共にお茶の時間を楽しんでいる絵利香と梢。
『梢ちゃんも、もう十六歳か。母親としてのわたしの役目も、そろそろ終わりね』
『何よ、母親をやめるって言うんじゃないでしょうねえ』
『梓が遺言したとおり、わたしの母親としての役目は、梢ちゃんが十六歳になるまでということだったから。今までわたしのことを、お母さんって呼んでくれたのは嬉しかったけど』

『いやだよ。お母さん。お母さんは、ママから依頼されたから、母親代わりを引き受けたわけじゃないでしょ。あたしのこと、心底愛していたから大切に思っていたから、母親になったんでしょ。哀しいこと言わないでよ』

 梢は涙をぽろぽろと流しながら、記憶の中にある母娘の情景を語りだした。
『あたし、ママが亡くなった時の事覚えているよ。お母さんが、あたしを慰めようと一所懸命に世話してくれていたこと。お母さんに向かって『ママじゃないもん』って口答えして飛び出しちゃったけど、本心で言ったんじゃないよ。後で後悔してベッドの中でお母さんに謝っていたよ。その頃心労がたたってお母さんは胃潰瘍で入院してたんだよね。あたし何も知らなくて、夢中で屋敷中お母さんを探しまわったよ、でもどこにもいなくて寂しくなって、このまま会えなくなるのかと思って泣きじゃくってた。病室でお母さんに会えた時は本当に嬉しかった。泣いていたあたしを慰めようと差し出してくれたお母さんの手は、とっても温かったよ。そしてあたしを見つめるその表情も、やさしさと愛情に満ち溢れていたのを感じたよ。もう二度と離れたくないと思ったから、お母さんのネグリジェをぎゅっと握りしめながら、病室のベッドで一緒に眠ったこと覚えてるよ』
 梢の顔は、涙でくしゃくしゃになっている。
『わかった。わかったわよ。わかったから、もう泣かないで』
 バックからハンカチを取り出して梢に渡す絵利香。
『だって、お母さんが母親をやめるなんて言うんだもん。お母さんは梢にとっては本当の母親なんだよ』
 涙を拭ってから渚に向かって、
『グラン・マ』
『ん?』
『そういうわけだから。これからもお母さんの事よろしくね』
 とお願いする梢。
『ああ。言われなくても最初からそのつもりだったよ』

 こうして絵利香は、引き続き梢の母親としての生活を続けるのだった。

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11
梢ちゃんの非日常 梢よ泣くな!
2021.08.16

梢ちゃんの非日常 梢よ泣くな!

 パンダのぬいぐるみを抱きかかえたまま眠る梢。
『今夜は何とか寝かせつけられたけど、というよりも泣き疲れて眠っちゃった。問題は朝なのよね。起きて梓がいないのに気がついて、ママがいない! って泣くのは目に見えているし……。梢ちゃんにとって梓のいない朝は、出張で出かけている時ぐらいだけど、必ず帰ってくるという確証があったから、わたしがそばにいてやれば平常心でいられた。でも二度と梓は帰ってこない。わたし一人で、梢ちゃんの世話ができるのかしら』

 翌朝。
『絵利香さま』
 目覚める絵利香。
『お休みのところ申し訳ありません。朝でございます』
『麗香さん……』
『お疲れかと思いますが、起きていただけますか』
『梢ちゃんは……』
 隣を見ると、パンダを抱いたまま眠っている梢がいた。
『本当は、もう少しお休みいただきたいところなのですが、梢お嬢さまのことを考えますと』
『判っているわ。梢ちゃんより、先に起きていないとね』
『眠気覚ましに、熱いシャワーでも浴びてはいかがでしょうか。その間にお嬢さまがお目覚めになることもなさそうですし』
『そうしましょう』
 梓の遺言によって、梢が十六歳になるまで、絵利香が養母となると同時に、梓グループの全権代行執権として暫定的に就任し、それに伴い麗香が世話役として就くこととなった。二人は、絵利香が三歳の頃から親しくしているので、何の抵抗もなく主従関係が成立していた。


 三時の休憩時間。
 バルコニーに集まる一同。
 絵利香は両肘をテーブルにつき、手を組んで額に押し当てている。
『絵利香さん、顔色が悪いわよ。大丈夫?』
『ちょっと頭痛がして』
『今日は、部屋に戻って休みなさい』
『そうします。梢ちゃんには悪いけど、今日は幼児用椅子に座ってもらってください』
 絵利香の言葉に、メイドが幼児用椅子を運んでくる。
 丁度その時にパンダを抱えた梢がやってくる。
 空いた席にパンダを置いて、いつものように絵利香の膝に乗ろうとする。
『ごめんね。今日はそっちの椅子に座ってくれるかしら?』
 と絵利香が指差した幼児用椅子を見て、
『いやだもん!』
 と拒絶する。絵利香がそばにいるのに、幼児用椅子には座りたくないのが心情だろう。
『絵利香がいい』
『梢ちゃん、絵利香はね、気分が悪いのよ』
 という渚の言葉に絵利香を覗きこむが、病気であることの表情を、梢が読み取れるわけがない。
『もういいもん』
 パンダを再び抱えて三・四歩後退する梢。絵利香に拒絶されるくらいなら、おやつもいらない。
『絵利香は、梢がきらいになったんだ』
『そうじゃないのよ』
『だって、絵利香、ママじゃないもん』
 その声を聞いて、絵利香の表情が強ばっていくのが、目にみえてはっきりと判った。
『これ! 何てことを言うんですか!』
 渚が、強い口調で叱責した。
『そうですよ。絵利香さまは、一所懸命に梢ちゃんのために』
『ママじゃないもん!』
 梢も大きな声で叫び、くるりと背を向けて、パンダを抱えたまま駆け出していった。
『だめよ。梢を一人にしちゃ。追わなくては』
 絵利香が、梢を追いかけようとして、立ち上がる。
 しかし次の瞬間だった。
『あ……』
 突然崩れるように倒れる絵利香。
『絵利香さま!』
 一同が驚いて絵利香のもとに駆け寄る。
『医療センターに連絡して、担架を持ってきて!』
『はい!』

 病室。
 ベッドに眠る絵利香。その腕には点滴の針が刺さっている。ベッドサイドでは、渚がその様子を見守っている。病室の扉が開いて麗香が入ってくる。
『美紀子さまと連絡がとれました。今こちらに向かっておられます』
『そう。ありがとう』
『絵利香さまの容体はいかがですか?』
『心労とそれからくる軽いストレス性胃潰瘍だそうよ。精神的にかなり無理をしていたようだね』
『無理もありません。二十年来の親友であり、姉妹のように育った梓さまを失っただけでも辛いのに、母親代わりに梢お嬢さまのお世話までしてらしたのですから』
『わたし達、絵利香さんに頼り過ぎていたようですね』
『はい。その通りだと思います』
『かといって、梢の心を癒せるのは、絵利香さんしかいないのも事実なのよねえ』
『お嬢さまに、ママじゃないと拒絶されたのが、ショックだったみたいです』
『でもね。梢ちゃんも本気で言っているわけじゃないのよ。喧嘩したときに、本当は大好きなのに、大嫌いと言ってしまうあれよ。そしてその後で後悔してしまう』
『第一反抗期ですからね。とにかく、どうしたものでしょうか』
『しばらくは、二人を離したほうがいいでしょう。絵利香さんには、執権実務と梢のことは忘れて、養生してもらわくちゃ。真条寺家のものではない絵利香さんに、これ以上の心労をかけさせては、篠崎さまに申し訳がたちません。いくら梓の遺言があるからといって、それで縛りつけることはできないのです』
『お嬢さまのこともそうですが、真理亜さまのことは、いかがいたしましょう』
『そうね。あの子も梢と同じで、絵利香さんにかなり依存していますからね。絵利香さんが帰ってこないとなると、心配するのは必定だものね。まあ、真理亜ちゃんのことは美紀子さんの判断にまかせましょう。とにかく梢には、絵利香のことを伏せておきましょう。私達だけで何とかしなくちゃね』
『はい。早苗さんに、指示を伝えておきましょう。お嬢さまには、絵利香さまが病気であることを伏せておくこと』
『お願いします。ところで、梢はもう見つかったのでしょうか』
『寝室に入るところを、警備室がモニターしていました。今、早苗さんが行っています』
 その頃、梢はパンダを抱えたまま寝室のベッドに潜り込んでいた。
『絵利香……』
 梢も、大好きな絵利香をママじゃないと叫んだことを後悔していたのであった。
『ごめんね、絵利香』
 涙をこらえながらも、いつのまにか眠ってしまう。

 食堂。
 パンダを抱えた梢が早苗に付き添われて入って来るが、不審そうにきょろきょろとあたりを見回している。それもそのはずで、いつもなら絵利香が手を引いて連れてきていたからだ。

『ねえ。絵利香は?』
『絵利香さまはね、ちょっとお出かけしてらっしゃるのよ』
 三時に病気だと言っておいて、お出かけはないだろうとは思ったが、他に適当な言葉がみつからない。
『絵利香、いないの?』
『そうよ』
『うそだもん』
『え?』
『絵利香、梢に黙って出ていかないもん』
『だからね……』
 言葉につまる早苗。
『探してくる』
 くるりと背を向けて、食堂を駆けて出ていった。
『いけない! 追いかけて! 絶対見失わないで』
 渚が早苗に即座に指令した。
『は、はい』

 寝室、バルコニー、執務室、居間など絵利香がいそうな場所を次々と回っては、名前を呼んで探しまわっている梢。パンダを抱えていては邪魔だと思ったのか、どこかに置いてきたようである。
『絵利香! 返事をしてよ』
 呼べど叫べど、絵利香の返事はない。
『絵利香、いないの?』
 涙声でなおも呼び続ける梢。
 亡くなる直前に言い残した母親の、
『泣いちゃだめよ』
 という最期のいいつけを、守り続けてこれたのも絵利香がいたから。梓と同年齢で同質の香りのする絵利香は、もう一人の母親として心のよりどころだったのだ。その絵利香が自分に黙っていなくなり、こらえていたものが、堰切って涙となって溢れてくるのだった。絵利香がいなくなって、はじめてその存在の大切さを改めて認識する梢。
『ぐすん……ママ。絵利香、どこにいるの』
 涙で顔をくしゃくしゃにし、目を真っ赤に腫らし、絵利香と梓を呼びながら、とぼとぼと歩いている梢。さんざん探しまわっても絵利香はどこにもいない。
 そんな落胆した梢を見つける早苗。
『お嬢さま、探しましたよ』
『絵利香がいないの。梢を残してどっか行っちゃったの……ママもいないし……ねえ、絵利香、どこなの? ママじゃないって、言ったから怒って、出ていったの?』
『お嬢さま……』
 こんなにも落ち込んで涙している梢を見るのははじめてのことだった。
 監視カメラに向かって話す早苗。
『警備室。聞こえてますか?』
 天井のスピーカーから声が聞こえて来る。
『はい。聞こえています』
『渚さまのところに繋いでください』
 ややしばらくたってから、スピーカーから渚の声が返ってくる。
『早苗さん、梢を見つけたようね』
『はい。でも、かなり精神的に参っているようです。梓さまと絵利香さまの名を交互に呼びながら泣いています』
『これ以上、梢に隠しているわけにいかないでしょう。絵利香さんのところへ連れていってください。私もすぐ行きます』
『かしこまりました』

 梢を連れて、絵利香の病室の前にくる早苗。
 病室ということで、梢がびくついているようだ。亡き母親の事が思い起こされるようだ。
『絵利香さまのご容体は?』
 病室の前にある看護婦詰め所の看護婦に話し掛ける早苗。
『はい。つい先程お目覚めになられました』
『入っても大丈夫ですか?』
『大丈夫ですが、お静かにお願いします』
 ノックすると、
『お入り下さい』
 という絵利香の声が返って来る。その聞き慣れた声に、顔をあげる梢。
 早苗に連れられて中に入った梢は、窓際のベッドに弱々しく横になっている絵利香を見つけて駆け寄る。
『絵利香!』
『梢ちゃん、来たのね』
『絵利香、病気なの?』
 ベッドのそばに寄り掛かるようにして、絵利香の顔色を伺いながら心配そうに尋ねる。
『そう。ちょっとね』
 まさか梢のことで心労になったとは言えない。
『どうして連れてきたのですか?』
 絵利香の看病を続けていた麗香が、早苗を叱責している。渚からの連絡はまだ届いていなかったようだ。執務室と病室を直接つなぐ回線がないからである。
『申し訳ありません。絵利香さまをあちこちと探しまわり、絵利香がどこにもいない、って泣いてしようがないのです。渚さまのご指示で連れて参りました』
『そうなの、それで目が真っ赤なのね』
 絵利香が頭をなでてあげようと、手を差し出すと、梢は一瞬首をすくめてしまった。 死ぬ間際の母親の冷たい手を思い出したようだ。
 絵利香もそれに気がついて、
『うふふ。大丈夫よ、ほら触ってみて』
 恐る恐るその手に触る梢。
『温かい……』
『でしょ。生きている証拠よ』
 遅れて渚がやってきた。
『いつもすまないね、絵利香さん。早苗から聞いていると思うけど』
『はい。梢ちゃんは、わたしがそばにいないとだめなんです』
『そうね。考えが甘かったわ。あなたに気苦労させないようにと、梢に病気で倒れたことを黙っていたんだけど。まさかこれほど、梢が取り乱すとは』
『隠しちゃ、だめですよ。梓もわたしも、梢ちゃんには何でも正直に話して、納得させてから物事を進めてきたんですから。本当は聞き分けの良い娘ですから、病気だと知っていれば、こんなに泣きじゃくることもなかったはずです。ね、梢ちゃん』
 といって、梢の頬にそっと手を当てる絵利香。その手を、上から自分の手で押さえて、 その温もりを感じている梢。
 二人の間に、切っても切れない熱い思いが交差する。
 絵利香にとっては、自分の事を目を真っ赤に腫らしながら探しまわったという梢のいたいけさ。梢にとっては、そばにいていくれるだけで、心安らぐ母親の温もりのある絵利香であり、梓と同質の香りを持っている。
『絵利香、ごめんね。ママじゃないって言ったこと』
『いいのよ。本気じゃなかったこと、知っているから』
『ごめんね……』
 その時梢のお腹が鳴っているのに気づく。
『梢ちゃん。夕ごはんは食べたの?』
『ううん』
 首を横に振る梢。
『お腹すいてるでしょ』
『う、うん』
『じゃあ、お食事にしましょうか』
『うん』
 大きくうなづく梢。
『早苗さん。梢ちゃんの食事を、ここへ持ってきてくださるかしら』
『かしこまりました』

 やがて食事が、ワゴンに乗せられて運ばれてきた。
『さて、起きなくちゃ』
『無理しないでください。電動でベッドを起こせますから』
『大丈夫よ。自分の力で起きれるわ』
 麗香が、絵利香を支えて起き上がるのを手助けしている。
『梢ちゃん。ここへいらっしゃい』
 といって、絵利香は自分の脇の布団を持ち上げている。
『うん』
梢は靴を脱いで、椅子を踏み台にしてベッドに這いあがると絵利香の隣に座り込んだ。
『早苗さん、そこのベッドテーブルを』
『はい』
 早苗が、ベッドの両側に差し渡すタイプの簡易テーブルを設置した。その上に並べられる梢の食事。食事がこぼれてもいいようにテーブルの下にシーツが敷かれる。
『梢ちゃん。食べていいわよ』
『絵利香は?』
『わたしはいいのよ。ほら、これがごはんよ』
 といって自分の腕に刺されている点滴を指し示した。
『痛くないの?』
 腕に刺された太い針に、心配そうな梢。
『大丈夫よ。ほら、わたしのことはいいから、食べなさい』
『う、うん』
 おやつを抜いていたので、かなり空腹状態だったようだ。ときおり絵利香のことをちらちらと見つめながらも、夢中で食事を口に運んでいる。
『うふふ。ずいぶんお腹がすいていたみたいね。でも、ゆっくり食べなさいよ』
『うん』
 やがて食事をきれいに平らげてごちそうさまする梢。
『食器を、お下げします』
 早苗が食器を乗せたトレーを下げて退室する。

 食事を終えた梢は、絵利香から一時も離れずに、その膝に乗ったり、膝枕にして絵利香を下から見つめたりして、精一杯甘えた行動をとっている。もちろん絵利香がそれを許しているからだが。

『さあ、梢ちゃん。絵利香はお休みしなくちゃいけないの。そこにいるとお休みできないでしょ』
 と渚が、面会時間が過ぎたのを確認して、梢を連れて立ち去ろうとする。
 しかし梢は、絵利香のネグリジェをぎゅっと握り締めたまま、身動きしない。
『渚さま、梢ちゃんはここで寝かせます』
『しかしあなたは……』
『心配いりません。梢を放っておくほうが、よほど心配で眠れなくなりますよ』
『判りました。あなたがそういうのなら』
『梢ちゃん。グラン・マと一緒にお風呂に入ってきなさい』
『絵利香は?』
『絵利香は病気だから、しばらく入れないの。梢ちゃんだけでも、入ってきてね。絵利香の言うこと聞けるわね』
『う、うん』
『お風呂に入ったら、パジャマに着替えて、歯を磨いて、そしたらここに戻ってきてね』
『うん。わかった』
『渚さま。梢ちゃんをお願いします』
『ああ、まかせといて。子供だった頃の梓にしてきたことだよ。たいしたことないさ』
『それと、絵本とパンダのぬいぐるみも持ってきて頂けますか』
『梢、ジュリアーノいらない』
『あら、ジュリアーノちゃんがいないと眠れないんじゃない?』
『だって、ベッド小さいもん。梢とお母さんしか眠れないもの。ジュリアーノと一緒に眠れないもん』
『そうね。じゃあ、今夜は二人きりで寝ましょう』
『うん』
 そもそも病院のベッドは一人で寝ることを前提としているので、小さな梢が一緒に入るだけでも、ぎりぎりの幅しかない。

 ベッドの上で絵利香の膝の上に跨り、ベッドテーブルに絵本を広げて、読み聞かせしてもらっている梢。その背中に温もりと懐かしい香りに包まれ、振り向けば絵利香のやさしい笑顔が見つめている。そんな絵利香の愛情のこもったスキンシップのおかげで、落ち着きを取り戻しつつある梢だった。

 絵利香のネグリジェを握り締めながら、安心したように眠る梢。
『お母さんか……はじめて呼んでくれたわね』
 梢は、梓が亡くなるずっと以前から、絵利香をもう一人の母親として認識はしていたが、面と向かってお母さんと呼ぶことには、ためらいがあったようだ。それでも絵利香に連れ添われた先で、絵利香が「ママ」とか「お母さん」とか間違われて呼ばれると、非常に喜んでいた。
「お母さん」と呼べる相手が、絵利香一人しかいなくなった現在、もうためらうことはない。意識することなくごく自然に梢の口から出てきたようだ。


 数日後。
 ベッドの上で眠っている絵利香。まだ朝早いので麗香達はまだ来ていない。
 その傍らにあるサイドテーブルに、少し大きめの花瓶が置かれている。パジャマ姿の梢が椅子を持ち出して上に乗り、その花瓶を動かそうとしている。が、水が入っているので重すぎて、梢には動かすのは少し無理なようだ。そのうちに手を滑らせて、花瓶は真下に落ちて大きな音を立てて割れてしまい、水飛沫が飛び散る。梢の服も濡れてしまった。
 大きな音に目を覚ます絵利香。すぐそばにばつの悪そうにしている梢が、椅子の上にたったまま、床の割れた花瓶を見つめている。
『どうしたの? 梢ちゃん』
『あのね、あのね。お花のお水を換えようとしたの、そしたらね』
麗香が毎朝花瓶の水を換えているところを見ていたので、自分の手で換えてあげようとしたのだった。
『手が滑っちゃんたんだ』
『うん……花瓶が、割れちゃった……』
『気にしなくていいのよ。それより怪我はしなかった?』
『ううん。でも服がぬれちゃった。ごめんなさい』
『梢ちゃんは、お母さんのためにと、お水を換えようとしたんでしょ』
『うん。でも……』
『お母さんは、梢ちゃんの気持ちだけでも、とっても嬉しいのよ。
 病室の扉がノックされて看護婦が入ってくる。
『大きな音がしましたが、何かありましたか?』
『花瓶を落として割ってしまったので、片付けていただけませんか』
『あ、はい。わかりました』
 看護婦は、椅子の上に立ちすくしている梢を、割れた花瓶のない安全な場所に降ろしてやり、部屋の隅にある掃除道具入れから、ほうきとちりとりを持ち出して、床に散らばった花瓶の破片を片付けはじめる。
『実は梢ちゃんが、わたしのために花瓶のお水を取り替えようとして、落としてしまったんですよ』
『まあ、そうでしたの。梢ちゃん、お利口なのね。お母さんのために、何かするって、とってもいいことよ』
 といって、梢の頭を軽くなでてあげている。
 子供が人の為に何かしようとして失敗した場合、その行為を大いに誉めてあげるべきで、失敗した結果を決して非難してはいけない。子供が失敗するのは当然のこととして、温かく見守ってあげたいものである。そうしないと失敗ばかり恐れて、何も出来ない子供に育ってしまう。
 絵利香だけでなく、第三者の看護婦にまで誉められて、少し落ち着きを取り戻す梢だった。
 梢は反対側のベッドサイドへ移動している。
『梢ちゃん。お片付けは、このお姉さんにまかせて、着替えてらっしゃい』
『でも……』
『わたしは、大丈夫だから。早く、行ってらっしゃい。風邪を引くわよ』
『うん』
『外にもうひとり看護婦のお姉さんがいるから、お部屋まで案内してもらってね』
『わかった』
 後ろ髪を引かれながらも、病室を出ていく梢。

 寝室。
『今日のお洋服はこれがいいかしら。お嬢さまが気に入ればいいけど』
 早苗が梢用のタンスを開けて、衣類を取り出しているところへ、梢が入ってくる。
『お嬢さま、おはようございます』
『おはよう』
『今日は、お早いお目覚めですね。あら、パジャマが濡れているじゃありませんか』
『あのね。お花のお水を換えようとして、花瓶落としちゃったの。それで濡れちゃった』
『まあ、そうだったのですか。すぐに着替えましょうね』
『うん』
『でも、えらいわよ。お花のお水を換えようとしたのは、お母さんのためなんでしょう?』
 梢の着替えを手伝いながら、誉めてあげる早苗。
『えへへ』
 大好きな早苗にも誉めてもらってご満悦の様子だ。失敗して花瓶を割ったことは薄れてきていた。しかしそれでいいのだ。良いことをしようとしたことのほうが大切なのだから。
『これでいいわね。それじゃ、髪を梳いてあげますから、ドレッサーの椅子におすわりください』
『でも……』
 絵利香のことが心配な梢は、着替えが済むと同時に戻りたかったようだ。
『いけませんよ。ちゃんと身支度しないと、お母さんに笑われちゃいますよ』
『ん……速くしてね』
 梢にとっての髪梳きは、毎日欠かさず続けられている朝の日課である。梓ゆずりのしなやかな細い髪も、毎朝の手入れがあってこそ維持できるもので、梓や絵利香の手で丁寧に梳かしてもらっていた。それをしないで絵利香のもとに戻れば、間違いなく注意されるだろうことは、梢にもわかったのだ。
 梢の肩にケープを巻いてから、梓や絵利香に教えられた通りに、注意深く静かにブラシを髪に通しはじめる早苗。
『ほんときれいな髪だわ』
『あのね。梢の髪、ママゆずりなんだって』
 言ってから、母親のことを思い出させてしまって、しまったと思う早苗。しかし、梢は気にしていないようだった。すでに梓のことは過去の思い出になりつつあり、今の梢には絵利香が変わって母親の位置についているからだ。
 梢の髪を丁寧に梳いてあげた後に、可愛いリボンをつけてあげる早苗。実はこのリボンの金具には超小型発振器がついていて、梢が今どこにいるかを、警備室で常時モニターしているのだ。
『はい。いいですよ』
『あのね。病院出る時、迷ったの。それでね、お母さんのお部屋わかんなくなっちゃった』
『うふふ。いいわよ。一緒にいきましょう』
早苗は、にっこりと微笑んで梢に向かって手を差し出す。
『うん』
 その手を握って、歩きだす梢。
 世話役を仰せ付けられるだけあって、早苗の梢への応対は見事としかいえない。誉める・注意する・やさしく誘う、実に要点をついていて、梢が数ヶ月でなついてしまうのも納得がいく。とはいっても、梢錯乱事件のこともあるように、絵利香にはとうてい及ばないのも事実なのだが。いつまでたってもやさしいお姉さんでしかなく、母親代わりには決してなれないのだ。

 梢が病室に戻ると、丁度真理亜も見舞いに来ていた。
『真理亜ちゃん!』
『梢ちゃん!』
 双方ほとんど同時に叫んでいた。
『真理亜ちゃん、ごめんね。梢のせいなの。お母さんが、病気になったのは』
 梢が自分から謝った。
『お母さん?』
 真理亜がけげんそうな表情をして、絵利香をみつめている。
『梢ちゃんのママは、死んじゃったのよ。だから、絵利香がお母さんになったのよ』
 美紀子が真理亜を諭すように言った。
『そんなあ、ひどーい! 絵利香は、真理亜のお母さんなんだから』
『真理亜にはちゃんとママがいるじゃない』
『ママはママ。お母さんはお母さんだもん』
 その時、絵利香が二人の手を結びあわせ、その上に自分の手を重ねて、静かに諭すように語りだした。
『二人とも、これから絵利香が言うことを良く聞きなさい』
 いつもとは違う厳しい口調に、息を飲む二人。
『真理亜ちゃんは、梢ちゃんのママが亡くなったのは知ってるわね』
『うん、知ってる。天国にいっちゃったのよね』
『そうよ。梢ちゃんには、もうママがいないの。だから絵利香がママの代わりに、お母さんになってあげたのよ。真理亜ちゃんだって、ママがいなくなったら寂しいでしょ』
『う、うん』
美紀子に言われるよりも、絵利香の口から言われるほうがはるかに説得力があった。
『絵利香が、梢ちゃんのお母さんになっても、真理亜ちゃんとはこれまで通りよ。一緒に動物園にだって連れていってあげるし、絵本も読んであげるわ』
『ほんと?』
『絵利香が、嘘言ったことあるかな?』
『ううん。ないよ』
『もし真理亜ちゃんが、絵利香をお母さんと呼びたいなら、呼んでもいいわ』
『お母さんって呼んでもいいの?』
『もちろんよ。絵利香はね、真理亜ちゃんと梢ちゃんを差別したくないの。二人には、いつまでも仲良しの姉妹のように育ってほしい。梢ちゃんと、仲良くできるかな?』
『うん。わかった。お母さん』
いきなりお母さんと呼ばれて失笑する絵利香だが、言ったてまえもあるし、しばらくは様子を見ることにする。
『梢ちゃんも、真理亜ちゃんと仲良くしてくれるかな』
『うん、いいよ』
 といって梢は、真理亜に向かって微笑み、真理亜もにっこりと微笑みを返していた。二人の間にあったわだかまりはきれいに消失していた。
『さすがに絵利香ね。二人の心をすっかりまとめ上げちゃったわね』


 大の男達によって寝室に運びこまれる子供用のベッド。
 何事かとそばに寄ってくる子供達。
『危ないから離れてなさい』
 絵利香が注意すると、隣のベッドに乗っかって、うつぶせで頬杖をついて大人達の作業を見守っている。
 絵利香の指示された位置に固定され、続いてベッド用の羽毛布団がセットされる。
『ねえ、お母さん。このベッドは?』
『梢ちゃんと真理亜ちゃんのベッドよ』
 顔を見合わす二人。
『二人とも、小学校に上がるんだから、これからはお母さんのベッドじゃなくて、自分達のベッドで寝て欲しいの』
 それはいずれ個室を与える前段階としての、絵利香の考えだった。今までずっと同じベッドに寝ていたのに、いきなり個室では寂しがるだろうと、まずは絵利香のすぐ隣のベッドで二人で寝てもらうことにした。これなら絵利香の姿が見えるし、いつでも絵利香のそばに戻ることもできるから、安心して眠られるだろうとの配慮である。
『わかった!』
 素直に答える二人。新しいベッドには、やはり興味を覚えるようである。
『絵利香さま、完了いたしました』
『どうもご苦労様です』
『それでは失礼いたします』
 男達は一礼して退室していった。
 早速自分達のベッドに這い上がり、トランポリンのようにして上下に弾ませながら、クッションの感覚を確かめている二人。そのうちに梢がベッドの縁に立って飛び込みの態勢を取ったかと思うと、
『ミサイル発射!』
 と叫びながら、隣のベッドにダイブインする。
『こらこら、危ないからよしなさい』
 絵利香がたしなめる。
『……ん? はーい』
 と返事をする梢だが、その表情から察するに少しも懲りていない様子。絵利香の目を盗んでは、また繰り返しそうだ。
 ……まあ、何にしても。すっかり以前の、活発でやんちゃな梢ちゃんに戻ってくれたようね。もう大丈夫みたい……
 ほっと胸をなで降ろす絵利香であった。

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11
梢ちゃんの非日常 真条寺梓、逝く
2021.08.15

梢ちゃんの非日常 真条寺梓、逝く

 真条寺家の敷地内には、航空機事故に備えて救命救急医療センターが併設されている。PED(陽電子放射断層撮影装置)やMRI(核磁気共鳴断層撮影装置)をはじめとする各種最新診断装置や医療機械を備え、医療スタッフや医療技術も世界最高水準を誇っている。もちろん航空機事故がそうそう起きるはずもないので、救急外来として一般にも門戸は解放されている。
 診療部門において特筆すべき点として、乳幼児特別救急診療部があることである。
 コンロで沸かしていたやかんの熱湯を頭からかぶってしまったとか、階段やベランダから転落して重体になったり、煙草や毒物を飲み込んでしまったなど、乳幼児にありがちな事故に対応する専門の診療部である。麻酔装置や人工心肺装置に血液交換器などの医療器械はもちろんのこと、メス・ピンセット・鉤・止血鉗子そして手術台にいたる各種手術用具までもが、乳幼児専用に特注製造したものが配置されているのだ。小さな身体に大人用の手術台などは、大きすぎて邪魔になるだけである。
 投薬の分量一つとっても、厳密にしなければ命に関わるほどデリケートな身体、大人に処置した方法が乳幼児に使えるとは限らない。年齢・体重・体力・体調に応じた適切な処置を施さなければならない。
 また最近は幼児虐待による救急患者も急増しており、身体的治療が済んだ後には、養護施設へ場所を移動しての精神面での治療も大切になってきている。
 乳幼児診療部は、梓の誕生と同時に発足した経緯がある。渚の親心から、一人娘の梓に万が一の事故が起きた時のために、いかなる症状をも完璧に治療できるように、小児科はもちろんの事、脳神経科・循環器科・胃腸科・内科・皮膚科・麻酔科・放射線科などから医療スタッフが集められたのである。現在は梓に代わって、娘の梢がその対象になっている。発足当初は、小児科医以外は乳幼児に不慣れな医者や技術者の寄せ集めでしかなかったが、救急診療を数多くこなすうちに、成功と失敗の積み重ねの中から、膨大な乳幼児診療マニュアルが集大成され、医療スタッフ達はスペシャリストへと育っていった。医師団64名、研修医26名、看護士160名、医療器械技師34名、薬剤師12名、事務系職員18名など、総勢300余名にも及ぶ大学病院並みの組織を誇っている。
 医師団の勤務体制は、当直・待機・準待機・休日の勤務レベルがあって、勤務時間として当直医は、日勤(12名)・夜勤(12名)・深夜勤(16名)の三交代制。その他の医療スタッフも、それに準じている。深夜勤の当直が多いのは、夜間は診療終了している一般の病院の分を補うためである。
 現在では全米はおろか世界各地からも、その高度の医療技術を頼って、真条寺空港を経て乳幼児患者が運びこまれるようになっている。搬送に必要な生命維持装置や各種治療器械を備え、簡単な応急手術さえも可能な「空飛ぶ病院」との別称がある救命救急のための専用ジャンボジェット機も就航している。もちろん医者団が現地に赴いて直接診療することも可能である。


 救急治療が本道であるが、真条寺家の人々の日常生活に発祥する多種の病気や事故に対する治療も行っている。


 医療センターのICU(集中治療室)のベッドに横たわる梓。
 人工呼吸器に接続されて、その表情も生気がなく青ざめている。
 隔離された隣室のガラス越しにその様子を窺っている渚と麗香。

「麗香さん、本当にご苦労様。あなたは部屋に戻って休みなさい。梢ちゃんは、私が面倒みますから」
「いいえ。わたしは……」
 梢の世話をするのは、梢専属の世話役が任命されるまでは麗香の担当だった。引き続き世話をするつもりだった。
「だめですよ。あなたは緊張の連続で気がつかないだけです。梓を気遣うばかりで、あなた自身が相当疲れていることにね。これは命令ですよ」
「わかりました。部屋に戻ります」
 病室を出て、屋敷に向かう麗香。

 自分の部屋に戻った麗香。
 ふうっと大きなため息をつき、今になって肩の荷を降ろした感じを覚えるのだ。
「梓さま……」
 ベッドの縁に腰掛け、ぱたんと後ろ向きに倒れこみ、そのまま眠ってしまった。渚の言うとおり、満身創痍、心身ともども疲れ切っていたのだった。


 病室。
 梢が泣いている。
 ベッドで眠っている梓が、その泣き声に目を覚まされる。そばのベビーベッドから聞こえる泣き声。その調子で、お腹を空かしていると直感していた。
「梢ちゃん……? ミルクをあげなくちゃ」
 起き上がろうとするが、
「痛い!」
 腕の痛みに右手を見てみると、点滴の針が刺さっているのに気づく。
 しばし、状況判断がつかめなかったが、
「そうか……あたし達、助かったのね」
 身代金誘拐の人質になっていたことを思い起こしていた。
 ひときわ高くなる梢の泣き声。母親の気配を感じて、催促しているようだった。
「あ。ごめんなさい、梢ちゃん。お腹空かしてるのよね」
 力の入らない両腕でふんばって、何とかベッドの縁に腰掛け、梢を抱き上げる梓。
 胸をはだけて乳首を梢の口にふくませると、一心不乱に飲みはじめる。
「良かったね、梢ちゃん。あたし達助かったのよ」


 それは、梓が見ていた夢だった。
 目が覚める梓。
 天井が見えている。
 どこからともなく聞こえてくる機械的な音。
「ここはどこだろう?」
 と首を回そうとしたが、
「動かない?」
 手足を動かそうとしてみてもやはりダメだった。
 首から下が麻痺しているようだった。
 微かな足音が聞こえる。
 患者の様子見と計器の管理をしている看護師だ。
「しかし暑いわねえ。体温調整できない患者さんのために室温を上げてるとはいえ、そこで働くもののことも考えてほしいわ」
 看護婦が、生命維持装置に流入するぶどう糖の入ったバックを取り替えている。そして、その患者である梓に視線を移した時だった。
「まったく……え?」
 看護師が、眼を見開いて天井を見つめている梓に気が付いた。
「たいへん!」
 ベッド傍のナースコールを押す。


 その頃、主治医となった教授の部屋で説明を受けている渚、絵利香、麗香の三人。
 MRIなどの画像データを参照しながら、
「……と、このように銃弾が延髄に突き刺さっており、全身麻痺を起こしているようです」
「銃弾を摘出できないのですか?」
「それは無理です。今でもギリギリで生命維持している状態でして、摘出手術すればさらに脳幹に損傷を与える可能性が大です」
 銃弾が摘出できなければ、発射された銃の特定ができない。
 犯人たちが撃ったのか、流れ弾が当たったのか……。
「回復する見込みはありますか?」
 絵利香が尋ねるが、教授は静かに首を横に振った。
「現在のところ、大脳の活動は何とか保たれていますが、脳幹に障害がある場合はいずれ大脳も活動停止に陥る可能性が大です」
 暗く押し黙る一同。
 その時、教授のPHSが鳴った。
* 法人用PHSは2023年3月末終了。
「私だ……。なんだと! それは本当か? 分かった、今すぐそちらに行く!」
 何事かと教授の顔を見つめる一同。
「今しがた、梓さまの意識が戻られたそうです」
「なんですって!」
 驚きの表情で見つめあう一同。
「何はともわれ、ICUへ急ぎましょう」
 意識を取り戻したとしても、一過性のものである可能性が高い。
 大急ぎでICUへと駆け出した。

 ICUに入室して、梓の容態を診察している教授。
 ガラス一つ隔てた隣室で待機していると、
「どうぞお入りください」
 と、入室を許可される。
 梓のベッドを取り囲む一同。
「梓」
 渚が声を掛けるが反応はない。
 目を開けたまま天井を見つめたままだった。

「まったく信じられません。こんなほぼ脳死状態から意識を取り戻すなんて、奇跡としかいいようがありません。普通じゃ、ありえないことです」
「梓は、二人分の精神力を持っているのよ。それくらいできないことじゃない」
「しかし、あくまで意識が戻ったというだけですから。すでに脳幹部の大半は機能停止しており回復の可能性はありません。この状態から生還する見込みは、限りなくゼロに近いです」
「判っているわよ。この状態で意識を維持するには、強靱な精神力がなければできないわ。死んでしまう前に、何か重要なことを言い残したいのよ。だから死の淵から舞い戻ってきたのよ」
「死んでしまう前にって……患者がそんなこと判断できませんよ」
「普通の人間ならね。とにかく、本人に確認すればわかることよ」
 ベッドサイドに歩み寄って梓に声をかける絵利香。
「梓。梓、聞こえる?」
 梓がゆっくりと声のする絵利香の方にゆっくりと向き直った。そして、唇を動かして何かを伝えようとしている、しかし肺は機能停止しており、息を出して声帯を震わせ発声することができない。
「ごめんなさい。あなたは、声が出せないみたい。でも、わたしの言うことが判るわよね? 判ったら瞬きをしてみて」
 絵利香の問いかけに答えるように、ゆっくりと瞬きをしてみせる梓。
「何か言い残したいことがあるのよね?」
 瞬き。
「それは梢ちゃんによね」
 瞬き。
「判ったわ。何とかするから、それまで頑張るのよ。いい?」
 瞬き。
「おばさま、梓は気が付いていますわ」
 思わず歓喜の声を漏らす絵利香。
 今度は、渚に代わった。
「お母さんよ。分かる?」
 そして再び瞬き一回。
 よく見ると、眼球も少しだが動いているようだった。

「これはどういうことですか?」
 渚が教授に質問する。
「筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病をご存じでしょうか?」
「存じております。体を動かすための筋肉が痩せていく病気で、筋肉そのものではなく、運動神経系が選択的に障害を受ける進行性の神経疾患です。最終的には、人工呼吸器に繋がれて意識を伝達することもできなくなります」
「梓さまは、その病気の最終段階に入った状態に似ております。意識はあるのですが、神経系が切断されているために、意思を伝えることができないのです」

「おばさま、ALS患者用のコミュニケーションツールとスタッフを用意していただけませんか? 視線の動きと瞬きで会話できる装置がどこかで開発されていたと思います、大至急しらべて取り寄せてくださいませんか。一分一秒を急ぎます、ありとあらゆる方法を使って、梓の命が尽きないうちに」
「分かりました。ただちに手配しましょう」
 そして改めて梓に伝える。
「今ね。視線の動きとまばたきで、会話できる装置を至急取り寄せているところなの。それがあれば、梢ちゃんにも言いたいことを伝えられるわ。もう少し待っていてくれるかしら」
 天井を向いたまま、まばたきする梓。
「梓、いいこと。辛いかもしれないけど、どんなに眠くなっても眠っちゃだめよ。そのまま永遠に眠ってしまうかも知れないから。歯を食いしばって起きていて、わかった?」
 分かったと瞬きをする梓。

 意思疎通のために、
 YESの時は瞬きする。
 NOの時は、上を向く。
 それが梓との会話のルールとなった。

 意識が戻ったというだけでも奇跡的なことだというのに、意識を維持していることがいかに辛いことか、それを眠るなという過酷な指示を出さねばならない絵利香。そしてその真意をくんで答えようとする梓。二十年来もの長きに渡って築き上げられた絶大なる信頼関係がそこに存在していたからこそのことであった。
 これはもう梓の精神力がいつまで持つかの、時間との勝負である。
 涙が溢れそうだった。
 しかし泣いている場合ではない。
 辛く悲しくても、今の梓に比べれば大したことはない。


 梓が何度も間断なく瞬きをしている。まぶたが重くて開けているのが辛いという表情であった。横になったまま、何もしていなければ、眠くなるのは当然である。
「いけない。眠くなってきたんだわ」
 眠気を催している時に、まぶたを閉じていると、人はそのまま眠ってしまうものである。だから梓は、必死でそれをこらえようとしているのだった。
「ねえ、梓。昔ばなしをしましょう。梓は聞いているだけでいいわ。答えようとしなくていい。だから、まぶたをしっかりと開けて聞いていて」
 絵利香は、梓と一緒に暮らしたスベリニアン校舎の話をはじめた。

「血糖値が下がってきました」
 生命維持装置を監視していた医師が告げた。
「ぶどう糖の投入速度を少し速めよう」
 主治医が指示を伝える。
 大脳は、ぶどう糖を大量消費する組織である。かといって血糖値を上げ過ぎてはいけないし、低すぎてもいけない。常に正常値を維持しなければならない。
 しかし梓には、インシュリンやアドレナリンを分泌する機能を消失しており、ぶどう糖を肝臓や筋肉中から放出して血糖値を管理する能力がない。ゆえにつねに血糖値を監視する必要があり、必要に応じてぶどう糖を投入しなければならない。
 血糖値が下がったせいなのか、大脳活動が低下し、梓がまぶたを閉じる時間が長くなってきていた。
「ドクター!」
「申し訳ありません。血糖値が上がるのにもうしばらくかかります。ショックを防ぐために、急激には上げられないのです」
 このままでは、眠ってしまう。そう判断した絵利香は、梓の頬を何度も叩いて目を開かせようとした。
「梓、しっかりして! 目を開けて! 梢ちゃんに言い残したいことがあるんでしょう! だから、目を開けるの!」
 梢の名前を聞いて、はっと我にかえる梓。再び目をしっかりと開いて絵利香を見つめる。
「そう。それでいいわ」


 絵利香が、梓が眠らないように激励している頃、麗香は会話装置の入手に成功、帰還の途中であった。
 そのジェットヘリの機内、防音ヘッドフォンを耳にあてがい、会話装置の調整をつづけている麗香。病院にたどり着くまでの間に、装置の音声パターンを、梓の音声に限りなく近くなるように微調整を続けていた。
「病院が見えてきました」
「屋上のヘリポートに降りてください」
 ヘリポートにジェットヘリが降下をはじめた。
 その様子は、ICUの窓からも見える。ジェットヘリの機体に、AFCのマークを確認した絵利香は、梓に伝えた。
「会話装置が届いたわよ。もうしばらくの辛抱よ」

 早速ICUに会話装置が運びこまれ、技術者によって手際よく端子類が接続されていく。視線の動きを感知するセンサー、まばたきを感知するセンサーなど、各種のセンサーが梓の頭部に取り付けられる。麗香は、音声合成装置の最終調整を続け、よりいっそう梓の音質に近づけようと努力している。その間に技術者から説明を受ける絵利香。
 会話装置の準備が終了する。
「接続が完了したわ。梓、いいかしら。視線方向にレーザーが出るから、文字を拾って瞬きすれば確定、確定文字が液晶表示に出るわ。間違えたらBSで戻して、必要な文字をすべて入力したらENTERで瞬きすれば、音声になって出るわ。やってみて」
 絵利香の説明通りに、視線を動かし瞬きして文字を入力しはじめる梓。
 そして、
『ありがとう、えりか』
 入力された文字が、一言一句音声となってスピーカーから流れてくる。
「成功よ。ちゃんと聞こえているわよ。これなら梢ちゃんにも意志を伝えられるわ」
『みんなをいれて。ただ、こずえはもうすこしあとにして』
「わかった」
 梓の指示通りに、梢以外の一同を入れる絵利香。その間、梢は専属メイドに預けることになった。
『えりか、おねがいがあるの』
「なに? 言ってみて」
『あたしは、もうだめ。だから、これからさきのこと。こずえの、ははおやになってほしいの』
「梢ちゃんの、母親に?」
『こずえには、まだははおやが、ひつようなの。たのめるのは、えりかしかいない』
「判ったわ。梢ちゃんのことは、まかせて。大人になるまでしっかり育ててあげるわ」
 梓に頼まれるまでもなく、その回復が絶望と知らされた時点で、絵利香は梢の世話をする覚悟を決めていた。母親を失うことになる梢の心を癒すことのできるのは自分以外にないと思った。

 梢は、母親と同年齢の絵利香になついていた。梓以外に絵本を読んでとせがむ唯一の人物でもあり、母親と同質のものを感じていたようである。ママの次に大好きな人は誰? と尋ねると必ず絵利香と答える梢。パパでもグラン・マでもない。絵利香が梓のもとに泊まりにきた時は、一緒に寝ようとせがみ、絵利香と梓の間に川の字になって、ベッドに入っては、
「えへへ、ママが二人だよ」
 とはしゃいでいた。
 だからこそ、梓は自分の亡き後のことは、絵利香に委ねる以外にないと判断したのである。

『ありがとう、えりか。これで、なにもしんぱいはいらない』
 梓の瞳から涙が流れている。それをハンカチで拭ってやる絵利香。
『れいかさん。いる?』
「はい。ここにいます」
『いままで、いろいろとむりをいってごめんなさい』
「いえ、そんなこと」
『いまのあたしがあるのは、れいかさんが、いっしょうけんめいに、きょういくしてくれたからです。ほんとうにかんしゃしています』
「梓さまは、妹のように思っていましたから。何も気にすることはありません」
『ありがとう』
 しばらく無言が続いた。
『おかあさん』
「ここにいますよ。梓」
『あたしを、うんでそだててくれて、ありがとう。さきにいってしまうことを、ゆるしてほしい。おやこうこう、できなくてごめんなさい』
「親孝行なら十分してもらったわよ。気にすることはないわ」
『こずえのこと、おねがいします。えりかのそうだんあいてになってあげてください」
「もちろんよ。絵利香さんだけには、苦労させないわ」

『みんな、ありがとう。こずえをよんでくれないかしら』
 梢がICU内に迎え入れられる。
「ママ!」
 梓のベッドサイドに駆け寄る梢。
『こずえちゃん。ままはもう、あなたのそばにいることができません。これからは、えりかやぐらんまのいうことをよくきくのよ。そしてえりかを、おかあさんとおもって、なかよくくらしていくの』
「おかあさん?」
 梢は、ママとおかあさんという言葉が、ほぼ同義語なのを理解している。自分だけのおかあさんが、ママなのだと思っているのだ。
『こずえちゃんは、えりかがだいすきよね』
「うん。ママの次に大好きだよ」
『だからね。ままがしんだら、えりかがおかあさんになるの』
「いやだ。ママ、死んじゃいやだ」
 死という言葉を聞いてたまらず泣き声を出す梢。絵利香が少しでも梢の気を安らげようとその肩に手を置いている。
『なかないで。こずえちゃんが、なくと、ままは、かなしくなるの』
 梓の右手がゆっくりと動いて、梢の頭をなではじめた。
「馬鹿な! 腕が動くはずがないんだ」
 医者が信じられないといった表情で叫んだ。
「最後の精神力を振り絞って動かしているのよ。念動力と言っていいかもしれない」

「ママの手、冷たいよ」
 母親の手に触った梢が不安な声で言った。
 自律神経系が機能していないため、身体は正常な体温を維持することができないのだ。また、大脳活動を維持するだけのぶどう糖しか投与されていないので、発熱量が少ないことにもよる。
『ごめんなさいね。ままのからだは、もうしんでいるの』
「死んでる?」
『そうよ。だからからだはつめたいし、こずえちゃんのぬくもりも、かんじることができないの』
「ママ……」
『もういちど、いうわ。えりかをおかあさんとおもって、なかよくくらしていくのよ。ままのさいごのおねがいなの。わかるわよね、こずえちゃん』
 梢が絵利香を見上げて答える。
「うん。わかった……」
『そうよ。こずえはおりこうだものね』
「ママ」

 じっと天井を見つめていたが、やがてゆっくりと操作をはじめる。
『もうこれで、おもいのこすことはなにもない。ありがとう』
 そして静かに瞼を閉じる梓。
 最後の言葉が入力され、閉じられたまぶたはもはや二度と開く気配はなかった。
 脳波計の波形がしだいに弱まっていき、そして完全な平坦になる。
「脳波が消えました。完全な脳死状態です。いかがなされますか?」
「もう、十分です。生命維持装置をはずしてください」
「かしこまりました」
 静かに手際よく生命維持装置や脳波計が外されていく。
 そして、念のために脈が計られて、
「ご臨終です。午後三時二十二分三十五秒」
 と臨床医の死亡宣告が行われ、静かに梓の顔に白い布が掛けられる。
「梓……」
「ママ、ママ、ママー!」
 梢の悲痛な叫びがこだまする。
 梢に涙を見せないように、必死でこらえている人々。


 ー真条寺梓ー


 波乱万丈の末に、壮絶ともいえる死の淵をさまよい、愛娘の梢を残し逝ってしまった、まだうら若き二十四歳の人生の最期。
 梓のたましいが、やすらかな眠りにつくことを切に願おう。
 そして、残された梢と家族達の未来に幸あらんことを祈ろう。



 予告/ルナリアン戦記

 十二年後。
 月世界は真条寺財閥の手によって開発が進められ、
 真条寺家当主となった梢は、月世界共和国「ルナリア」を建国し独立宣言を行う。
 母親の梓を死に至らしめた黒幕である神条寺家に対して宣戦布告をするのだった。

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