特務捜査官レディー(二十七)投身自殺
2021.07.31

特務捜査官レディー
(響子そして/サイドストーリー)


(二十七)投身自殺

 それから数日後。
 わたしは黒沢先生の元を訪れていた。
 囮捜査のこととかをすべて話してみた。
「何か便利な薬とかありませんか? 妊娠阻害剤とかもありましたよね」
 先生が、某製薬会社の社長ということで、そういった性に関わる薬剤を手に入れられるのではないかと思ったからだ。
「おいおい。言ってることの意味を、良く理解して依頼してるんだろうな?」
「もちろんです。売春組織と関わるのですからね。万が一に備えたいのです」
「妊娠阻害剤はあるが、それを必要とするときは組織に囚われた結果としての性行為もあるだろう。その状態で犯された後から薬を飲むことは不可能だと思うぞ。ピルを毎日飲んでいれば妊娠はしないが、これも囚われた状態では飲用は無理だ。ピルの飲用をやめれば即座に妊娠可能となる」
「事前妊娠阻害剤はないのですか? 飲んだら一週間くらいは妊娠しないというの」
「捕らえられて一週間以内で脱出できるか、救出されるかということか?」
「やはり一週間でしょう。証拠を掴むも掴まないにしてもね」
「ふむ……」
 じっとわたしの顔を見つめる先生だった。
 どれくらい意思が固いとかを推し量っているように思えた。
「まあ、いいだろう。捜査に協力しようじゃないか。産婦人科医として、女性の苦しみを放っておくわけにはいかないからな。売春が原因で望まぬ妊娠をした女性の中絶手術をすることだけは願い下げだからな。覚醒剤にも効果がある催眠阻害剤と即効性麻酔針仕込み髪飾りを進呈しよう」
「ありがとうございます。髪飾りは何となく判りますが、催眠阻害剤とは?」
「麻酔剤がどうして効くか知っているか? 薬剤師の君なら当然知っているはずだが」

 もちろん知らないでどうする。
 生物には体内エンドルフィンという麻酔作用を及ぼす物質を分泌する能力を持っている。指などを切るとしばらくは痛みを感じるが、やがて傷が治っていないにも関わらず痛みが無くなるかやわらぐはずだ。これは痛みの刺激に対してそれをやわらげようとして、身体の防衛システムがこのエンドルフィンを分泌するからである。痛みを感じる組織にはこのエンドルフィンに感応する受容体(レセプター)があって、受容体がエンドルフィンを受け入れると痛みを感じなくなるというわけである。また中国古来の針麻酔という術法も、針の刺激によって体内エンドルフィンを分泌させて麻酔作用を引き起こしているわけである。
 受容体とは、細胞膜上あるいは細胞内に存在し、ホルモンや抗原・光など外から細胞に作用する因子と反応して、細胞機能に変化を生じさせる物質。ホルモン受容体・抗原受容体・光受容体などをいう。アレルギー反応も同様のシステムで起きるものである。
 これはもちろん女性ホルモンを呑んだ男性の乳房が発達することを考えればよく判ることだ。男性にも女性ホルモン受容体があるからこそ、女性ホルモンで乳房が発達するのである。
 さて本題の人工的な麻酔剤だ。
 麻酔作用を期待するには、何も体内エンドルフィンと同じ成分そのものでなくても良い。要は、この痛みを感じる組織中にある受容体が感応し、期待する作用を及ぼす成分であればいいのだ。科学的に論ずるならば、化学成分式に表されるところの、ある特定の塩基配列を持つということになるのだが……。
 細胞に作用する因子と、これに感応する受容体という関係から、本来体内に存在しない体外から入ってきた物質に対しても、一様に効果を発することを利用するもの。
 それが麻酔などの薬剤なのである。
 麻薬や覚醒剤が人体に及ぼす作用も、同様にして説明できる。
 では、阻害剤とは?
 麻酔や覚醒剤が効果を発するのは、それに感応する受容体があるからである。ならばその受容体を別の無害で長時間作用するもので先に埋めてしまえば、麻酔も覚醒剤も効果を発揮することなく、そのうちに体外に排泄されてしまう。アル中の人に麻酔が聞かないのも一種これのせいである。

 簡単に説明すると、受容体を別の無害な物質で、先に埋めてしまえ!である。

「……ということです」
 ぱちぱちぱち。
 と拍手しながら答える先生。
「正解だよ。さすがは薬剤師」
「からかわないでください。つまり、事前に阻害剤を投与していれば、覚醒剤を射たれても効果を発揮しないということですよね」
「そうだ。しかし、覚醒剤が効いているという演技が必要になってくるかも知れないがね。しかも任務を考えれば、身体を汚されることも容認しなければならないのは、君が妊娠阻害剤を求めるとおりに避けて通れないことだ。それでも君は、渦中に飛び込もうというのだね」
「はい。敬も理解してくれました」
「そうか……。彼も納得の上でというなら、これ以上何もいうこともないだろう」
「ご無理を言って申し訳ありません」
「任務決行の日がきたら事前にここに寄りたまえ、最善の薬を用意しておこう」
「ありがとうございます」


 朗報が持ち込まれた。
「響子の居場所が判ったぞ」
「ほんとう?」
「ああ。新庄町の富士マンションに閉じ込められている」
「早速、助けにいきましょう」
「当然だ、すぐに行くぞ。暴力団対策課と麻薬課の連中を張り込ませている」
「まだ、踏み込んでいないの?」
「捜査令状がまだ届いていないんだ。届き次第踏み込む」
「ああ、そんなことしているうちに……」
「しかし、法は法だ。警察官が法を破ったりはできん」
 とにもかくにも、麻薬取締部の同僚と共にそのマンションへ急行することにする。
「課長! いいですよね?」
「無論だ!」

 すでに日付が変わっていた。
 富士マンションの響子さんが囚われていると思われる部屋が見える隠れた場所で、車の中に潜むようにして張り込んでいるわたし達だった。
 その部屋のカーテンは締め切られていて、明かりは点いてはいない。
 今回の強制捜査に携わるのは、警察から麻薬銃器課の三人と暴力団対策課の四人、麻薬取締部からわたしを含めて四人、そして一般の制服警官が三十二人(主に交通課)である。
 そして取り仕切るのは麻薬銃器課巡査部長の敬である。
 三つの課を取りまとめ、合同捜査チームを結成させた彼である。
 生活安全局の副局長を説き伏せてしまう、その素早い行動力と説得力はさすがだ。
 さすがにわたしが惚れるだけのことはある。
 だが、肝心の捜査令状がまだ届いていなかった。
 令状がなければ、たとえ囚われていると判っていても踏み込むことはできない。
 しかも響子さんが人質状態では踏み込みのも簡単ではない。
 相手は暴力団だ。拳銃くらい所持しているはずである。
 決行は慎重かつ迅速に行われなければならない。
 やがて一人の捜査員が令状を持って現れた。
「令状が届きました!」
「よし! 踏み込むぞ。ただし監禁されている女性がいる。行動は迅速に、発言は慎重にだ」
「了解!」
 敬がてきぱきと強制捜査の手筈を組み立てていた。
 家宅捜査令状を持って部屋に入る班(麻薬取締官が担当)、逃走路を封鎖する班、交通規制を行う班、銃撃戦になった時の住民の避難誘導班などである。
「真樹は、響子さんを保護する担当だ」
 響子さんは一応女性である。(少なくとも外見上は……)
 女性であるわたしに保護担当が回ってくるのは当然である。
「巡査部長、あれを!」
 捜査員の一人がマンションの部屋を指差して叫んだ。
 あ!
 誰かが窓から身を乗り出している!
 しかも裸の女性だ。
「響子さんの部屋だ!」
 まさか!
 次の瞬間だった。
 ふわりと身を投げ出したその身体が宙に舞った。
 まっさかさまに落下してゆく。

 きゃあー!

 わたしは思わず悲鳴を上げてしまった。
 捜査員が駆け出してゆく。

 ドシン!

 鈍い大きな音があたり一面に響き渡った。
 バンの天井にめり込むように身体が沈み込んでいた。
 そうなのだ。
 丁度真下の路上にバンが違法駐車していたのだ。
「救急車を呼べ!」
 誰かが叫ぶ。
 責任者である敬が動く。
「ここはまかせて、麻薬取締官は部屋の方に急行してください。身投げを知って逃げ出されます」
「判った!」
 麻薬取締官達はマンションへと突入していく。
 捜査員はたくさんいるのだ。
 全員がその女性に関わってはいられない。
「交通課はただちに交通規制だ。一帯を通行止めにしろ!」
「了解!」
 交通課の警察官が無線連絡によって、道路封鎖のために配置に付いていた要員に指示を出す。
 付近一帯を通行止めにして現場に車両を進入させないためである。


 捜査員がバンの天井によじ登っている。
「生きているぞ! まだ息がある」
 すぐさま報告が帰ってくる。
「担架を持って来い! 脊髄を損傷しているかも知れない。担架に乗せて、ゆっくり慎重に車から降ろすんだ」
 担架が運び出されてバンの天井に上げられ、その場で脊髄に負担を掛けないように慎重に担架に移された。
「ようし、担架を水平に保ったまま、ゆっくり降ろせ!」
 わたしは呆然と見つめていた。
 身投げという事態に足がすくんでいたのである。
「真樹! こっちへ来い」
 敬が、わたしを呼ぶが動けない。
「真樹。聞こえないのか! おまえが見なくてどうする?」
 車から降ろされた裸の女性。
 ここには女性はわたししかいない。銃撃戦が想定される捜査に女性警察官は使えない。
 当然、彼女の介抱などはわたしの役回りとなる。
 敬の声に我を取り戻して、その女性のところに駆け寄る。
「ごめんなさい!」
 すぐさま身体に毛布を掛けて体温の維持を図る。もちろん裸を他人に見られないためでもある。
「響子さん?」
 その姿を見たことのないわたしは、敬に確認する。
「間違いない、響子だ……」
 この娘が響子さん……。
 血の気の引いた青ざめた顔。
 哀しい運命の性に振り回され続けている……。
「敬、これを見て」
 白い腕に残された痛々しいほどの注射跡。
「覚醒剤を射たれているな……」
「ええ……」
 最悪の状態に陥っていた。
 覚醒剤の魔性に操られ、それから解き放そうと自ら命を絶とうとしたのだろう。
「可哀想な娘……」
 涙が頬を伝わって流れてくる。
 どうしようもなく哀しくて仕方がなかった。

 銃撃戦に備えて付近で待機していた救急車がやってきた。
「真樹は、彼女についていけ! 後のことは俺に任せろ」
「判ったわ!」
 担架に乗せられた彼女と共に救急車に乗り込む。
 サイレンを鳴らして、救急車が発進する。
「センターどうぞ。飛び降り自殺の女性を収容。……脊椎損傷の可能性有り。行き先を指示願います」
 運転席の方から、東京消防庁災害救急情報センター(119番)に連絡を取っている声が聞こえてくる。
「待ってください。わたしの知り合いの病院があります。そちらへ搬送してください」
「救急指定病院ですか?」
「いいえ。違いますが、腕は確かです」
 彼女は、性転換している女性だ。
 一般の救急病院に搬送するのは後々問題が起きるに決まっている。
 生死の渕を彷徨っていたわたしを、奇跡的に助けてくれたあの先生のところしかない。
「黒沢産婦人科病院です」
「産婦人科? 場違いではありませんか?」
「彼女は特別な女性なんです。そこしか治療はできないんです。責任はわたしが取ります」
「判りました。では、場所を教えてください」
 住所を教える。
「センターどうぞ……。患者の収容先は、同乗した人物の指定先に決定しました。はい、ですから……」
 センターに行き先決定の連絡を入れている声。
 救急車は、一路黒沢産婦人科病院へと進路変更した。
 わたしは早速黒沢先生に連絡する。
 救急車内での携帯電話は禁物であるが、そうも言っていられない。
「斉藤真樹です。急患お願いします。飛び降り自殺で、脊椎損傷の可能性があります。さらに覚醒剤中毒の症状も見受けられます……」
 彼女の容態を詳しく説明していく。
『判った。至急に用意する。連れて来たまえ。裏の場所だ、判っているな?』
 連絡は取れた。
 後は一刻も早く病院へ到着するのを祈るだけである。

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