梓の非日常/第二部 第三章・スパイ潜入(六)逃走
2021.05.18

続 梓の非日常/第三章・スパイ潜入


(六)逃走

 主任が静かに端末を操作しながら言った。
「ちょっとこれを見て頂けるかしら」
 自分の端末のスクリーンに映像が投影された。それは自分がいた女子トイレの中の場面だった。手洗い場で隠していた端末を取り出し外部と連絡している様が一部始終記録されていた。
「これはどういうことかしら? 通信機のようだけど外部の誰と連絡を取り合っていたの?」
 厳しい表情で追求する主任に対し、
「あははは。わたしが白状するとでも思ったの。ばれたら逃げ出せないことくらい判ってるわ。だから……」
 というと、歯を食いしばるような動作を見せた。
「しまった! 毒か?」
 主任が察知したように、そのオペレーターは義歯に、即効性の猛毒のカプセルを隠していたようであった。
 たちまち苦しみもがき、そして息絶えた。
「なんてことを……」
 まわりにいたオペレーターが嘆いていた。
 警備員に即座に指令を出す主任。
「遺体を運び出せ!」
「はい!」
 恐れおののきながらも指令通りに、遺体を外へ運び出す警備員たち。
「それにしても、通信端末をどうやって運び込んだのか」
「以前にトイレが詰まって配管修理工を呼んだことがあります。その時に、スパイが紛れ込んだと思われます。修理工具とか必要ですから、通信用の部品を忍ばせることもできたのでしょう」
「ふむ、外部の者を立ち入らせる時は、もっと厳重にチェックしなきゃならんな」
「旧世代の通信機とは意外でした」
「うむ、今後はもっと原始的な通信方法への対策も考慮せねばな」
「原始的とは?」
「トンツートンツーのモールス信号だよ。そうだな、例えば上下水の配管はすべて外部に通じている、配管を叩くなどしてモールス信号で情報を外部へ流せるわけだ。今時、モールス信号を認識できるものはいない。ただの雑音としてしか聞こえないだろう」
「モールス信号くらいなら誰でも知っていると思いますが……」
「だが、文面を読み取れないだろう。信号に雑音を混合させて流し、受け取った側は雑音除去して文面を読み取れるという訳さ」
 一同考え込む。
 それはそうだけど……。
 という表情である。
「セキュリティールームに連絡。外部にいるはずの連絡員は見つかったか? 電力線を使って通信できるのは、変圧器までの間だ。つまりこの施設内のどこかに潜んで通信を受け取っていたはずだ。まだ施設内にいる、至急に探し出せ」
 セキュリティールームでは犯人と思しき男をカメラで追い、警備員を向かわせていた。
「D36Aブロックに逃げたぞ。施設内警備員はただちにD36ブロックへ向かえ。外回りの者は出入り口を閉鎖しろ!」
 追い詰められる連絡員。
 しかし自動拳銃を持っており、容易に近づけさせなかった。
 そして窓を割って施設の外への脱出に成功する。
 敷地内の雑木林を駆け抜ける連絡員。
 その連絡員をスコープ内に捕らえている者がいた。
 それは施設の屋上にいた。
 狙撃銃のスコープを覗きながら、素早く照準を合わせてトリガーを引いた。
 銃口から飛び出した弾丸は一直線に連絡員のこめかみを捕らえて命中した。
 血飛沫を上げて倒れる連絡員。
「さすがですね」
 背後から声を掛ける女性がいた。
 麗華だった。
「なあにこれくらいの距離なら、動いてる標的でも確実に仕留められますよ」
「特殊傭兵部隊にいただけのことはありますね」
「殺しても良かったんですかね」
「どうせ口を割らないでしょう。お嬢さまの命を狙う組織に対して、こちら側も本気だと知らしめる必要がありました」
「つまりお嬢さまの命を狙うなら、それ相応の覚悟をして掛かって来い! ですね」
 と言いながら狙撃銃を分解してスーツケースにしまう狙撃員。
「それにしても、まさか、慎二君のお兄さんが狙撃のプロ集団の特殊傭兵部隊の一員だとはね」
「こちらも信じられませんでしたよ。私が所属している、テロリストから要人を警護し、人質となった場合の救出任務に従事する特殊傭兵部隊。その部隊を抱えている財団法人・セキュリティーシステムズの親会社のAFC財団のオーナー、真条寺梓さま。そのご親友というか……悪がきが弟の慎二とはね」
 この狙撃員の名前は、沢渡敬と言った。
 表の顔は、麻薬銃器対策課の警察官である。
 麻薬銃器取締りの研修として、犯罪の渦巻くアメリカのニューヨークに渡っていた。
 だが逆に組織、実はニューヨーク市警の特殊部隊に狙われて逃げ回るはめに陥った。そんな折にニューヨーク市警も手を出せない、治外法権の真条寺家の屋敷内に、たまたま迷い込んで命拾いしたのである。
 彼には同じくニューヨーク研修にきていた同僚警察官でかつ婚約者という女性がいたが、組織からの逃亡の際に撃たれてしまった。復讐のために特殊傭兵部隊に志願したというわけであった。やがて傭兵の契約期間が過ぎ、婚約者も実は生きていたということで、日本へ舞い戻り、元の警察官に納まったのであるが、腕を買われて時々こうして犯人狙撃に駆り出されるようになったのである。
 もっとも今回は警察からの要請ではなく、かつて所属したセキュリティーシステムズからの依頼だった。
「で、遺体の方はどうなさるのですか? 臓器密売業者にでも引き渡しますか?」
「まあ、警察との繋がりもありますし、お嬢さまの命を狙う組織に警告を与えるためにも、交通事故での死亡という発表を行うのが一番でしょう」
「偽装工作ですか?」
「その道の専門家もいますからね」
「ほんとに世の中ぶっそうになってきましたね。下々の世界では覚醒剤やMDMAが蔓延し、上流階級では派閥争いで命を凌ぎあう」

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