梓の非日常/第八章・太平洋孤島遭難事件(四)軍医の診察
2021.04.05

梓の非日常/第八章・太平洋孤島遭難事件


(四)軍医の診察

『おお、ここは冷房が効いているのか、助かる』
 コクピットに入るなり、その涼しさに感涙している軍医。派遣される野戦場や病院には冷房設備などあるはずもなく、汗だくだくで治療するのが常だったからだ。或は全くその正反対かのどちらかである。
『機長、傷口の痛み以外に、何か体調に異常は感じないか』
『大丈夫みたいだ』
『そうか、ならいい。今から神経ブロック麻酔をしてやる。脊椎注射だからちょっと痛いが我慢してくれ。麻酔が効けば楽になるからな』
『ああ……』
 ここへ来るまでに麗香からおよその症状を聞き出している軍医は、まず最初に何をすべきかを理解していた。
『麗香君、包帯を解いてくれないか』
『判りました』
 麗香が包帯を解きはじめると同時に、診察を開始する軍医。
『美智子君とか言ったかな、注射器の用意をしてくれ、それとプロカインのアンプルを出して。手術キットの中に必要器材が全部入っている』
『はい』
 看護士の資格と経験のある美智子は、少しの迷いもなく脊椎麻酔用の大きな注射器と針、そして局所麻酔剤のプロカイン(コカインの誘導体・副作用が少ない)のアンプルを用意していく。もちろん手術用の薄てのゴム手袋着用や器具の消毒も怠っていない。
 その間に軍医は、脈拍や心肺聴診・瞳孔検査など必要初診を続けている。
『包帯が取れました』
『よし』
 早速傷口の状態を確認している軍医。
『うーん。これはひどいな……しかし、肺肋膜はまだ感染していないようだ。なら助かるかも知れん。機長、以前に肋膜炎を患ったことがあるだろ』
『え? よく判りましたね。その通りです』
『肋膜が胸壁に癒着しているからな。普通、肋骨骨折で皮膚を貫通する傷を負えば、肺の虚脱と縦隔の振せんが起きて、呼吸困難に陥るのだが、肋膜の癒着で助かっている。過去の病気に救われたな』
 胸腔の内面は、二枚の肋膜(胸壁肋膜と肺肋膜)で覆われており、生理的に肺と胸壁の間には僅かの隙間がある。さらに肺は、呼吸の状態に関わらず常に大気圧よりも低圧になっていて、呼吸の手助けにもなっている。ところが皮膚を貫通して肺にまで達する傷(開胸)を負うと、低圧の肺が大気圧に押されて萎縮(肺虚脱)、呼吸困難になるのだが、肋膜の癒着があると萎縮が抑制されるわけだ。
 また縦隔の振せんとは、左右の肺を隔てている隔壁(縦隔)が、肺の虚脱によって呼吸のたびに移動する症状のことである。縦隔には、心臓や大血管・気管・食道などが収められているが、この振せんによって心臓や大血管などが、圧迫されて呼吸・循環障害を引き起こす。
 このために、開胸手術には低圧室による手術や気管カテーテル加圧呼吸法など、肺の虚脱を回避する手術法が不可欠である。

『軍医殿、注射の用意ができました』
 美智子がトレーに器材を乗せて持ってくる。
『おお、よし。麗香君、機長の身体をずらして背骨側を横に向けてくれ』
 軍医が麗香に向かって指示する。
『はい。かしこまりました』
『いいか、そっとだぞ、そっと』
『はい』
 麗香が指示通りに機長の身体を横に向けていく。
『ところで鎮痛剤を飲んでるそうだが、薬のパッケージを見せてくれ』
 軍医の問い合わせに、乗務員が薬箱からパッケージを取り出して見せる。
『はい、これです。約一時間前に定量を飲んでもらいました』
『ふーむ……。なるほどね』
 鎮痛剤の薬効成分と量に応じて麻酔薬の量も加減しなければならない。パッケージに記された薬剤の種類と量を確認してから注射器を取り、アンプルから適量分を取り出している。
『機長、これから注射するが痛くても絶対動くなよ、心臓に繋がる交感神経がすぐそばを通っているんだ。ちょっとでも位置がずれると心臓麻痺を起こすぞ』
『わ、わかった』
『事前麻酔としてチオペンタールを静注すれば痛みを緩和できるんだが、こいつは呼吸中枢を抑制するから、肺機能の低下している現状ではやばいんだ』
 静脈注射麻酔チオペンタールは、バルビツール酸誘導体の一種で、直接の鎮痛作用はほとんどないが、強い睡眠作用を持っているので、その睡眠の間に手術を行うことが出来る。複雑な機器を使用することなく簡単に麻酔効果を期待できるので、野戦場などで活躍する軍医の常備麻酔剤だ。しかしこれ単独のみで麻酔作用を利用できるのは、五分以内の短時間の手術に限られる。
 ちなみにチオペンタールは、アメリカでは死刑執行に際して意識を喪失させるために使用していたが、製造中止を受けて代替品が使われることとなった。
 背骨を触診しながら注射ポイントを探っている軍医。
『君、ここを消毒してくれ』
 注射ポイントを探り当てて、消毒するように言う軍医。
『はい』
 美智子は、消毒綿をピンセットに挟んで、軍医が指差す箇所を消毒する。
『二人とも、動かないように押さえていてくれ』
『はい』
 機長の身体を両側から押さえる麗香と美智子。
『よし、注射するぞ』
『ああ……』
 ぐいと注射器を背骨に突き刺す軍医。

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