梓の非日常/第五章・音楽教師走る(一)音楽教師
2021.03.09
梓の非日常/第五章・音楽教師走る
(一)音楽教師
廊下を歩く梓と絵利香。音楽室の戸が開いたままになっており、ふとグランドピアノに 目が止まった梓は、そばに歩み寄り蓋を開けてみる。
「鍵かかってないね」
「ねえ、ひさしぶりに聞かせて」
「え? ここで弾くの?」
「教室の戸も、ピアノの蓋も開いていたということは、神のお導きよ」
「どういう意味よ。まあいいわ。今日は気分がいいから」
椅子に腰を降ろし鍵盤に手を置き、ひと呼吸おいてからゆっくりと弾きはじめる梓。
優雅な旋律が教室内に響き渡り、それは廊下の方にも洩れて、波紋のように静かに広がっていく。
いつのまにか窓の外で聞き惚れている生徒達が立ち並びはじめているが、梓達は気づいていない。
「あれ、真条寺さんじゃない?」
「そうね。ピアノが弾けるなんて、やはりお嬢さまの気品って感じね」
「しかもとってもお上手よ」
うっとりとした表情で窓辺に寄り掛かり、聞き入っているクラスメート達。
演奏を終えて、ぱたりとピアノの蓋を閉める梓。
その瞬間、周囲から拍手の渦が沸き起こった。演奏に聞き惚れ集まった生徒達の数二十人ほどが、一斉に喝采の拍手を送ったのだった。
驚きのあまりに固まっている梓。
「お上手だったわよ」
と拍手をしながら女教師が近づいて来る。
「幸田先生!」
幸田浩子、梓達の音楽担当の教諭で、音楽部の顧問をしている。
「ご、ごめんなさい。あたし」
慌てて椅子から立ち上がり、ピアノのそばを離れる梓。
「あ、いいのよ。あなたのような女の子が弾くためにピアノは置いてあるのだから。昼休みや放課後だったら、いつでも弾いていいわよ。許可します」
「そ、そんなこと……」
「あなた、一年A組の真条寺梓さんよね」
「は、はい」
「今時、これだけ上手に弾ける女の子なんていないのよね。うちの音楽部にもいないわ。そうだ、あなた!」
といって詰め寄る幸田教諭。
「音楽部に入らない?」
「音楽部?」
「高校生音楽コンクールで、合唱のピアノ伴奏をしてくれる子を探していたのよ。あなたほどの腕前ならピアノの練習は必要ないと思うから、すぐにでも生徒達の合唱の伴奏をやってもらえるとありがたいんだけど」
「でも、あたしは他のクラブに入ってますから」
「どこのクラブですか?」
幸田教諭の目がきらりと輝いた。
「空手部です」
「空手っていうと、瓦を十数枚重ねて素手で割ったり、戸板に縄をぐるりと巻いて拳で叩くとかいうあれでしょう」
「え? まあ……それも、確かにあるけど……」
「だめよ、だめ。あなたのこのしなやかな細い指先が壊れちゃう」
幸田教諭は梓の指先をさするようにしている。
「今すぐ、空手部はやめなさい。女の子がするクラブじゃないわ。そして音楽部に入るのよ」
「あ、あたしの勝手じゃないですか。それにテニス部からも勧誘されているんです」
「テニス部? うん、テニス部ならいいでしょ。ともかく空手部というと、顧問は下条先生よね。いいわ、私が掛け合ってあげる」
と言うなり、すたすたと職員室の方へ歩いていった。
「ちょ、ちょっと、幸田先生」
「行っちゃったね。聞く耳持たないって感じね」
絵利香が呆れたように言った。
一年A組の教室。
上級生らしき女生徒が入って来る。
「ねえ。真条寺さんは、どなたかしら」
「え? 真条寺さんですか?」
上級生の声が聞こえた生徒達が一斉に梓の方を振り向いていた。
「ああ、あの子ね」
つかつかと歩いていって、梓のそばに立つ上級生。
「真条寺さん?」
「え? はい。そうですけど」
振り向いた梓を見て驚く上級生。
……か、かわいい……
職員室で幸田教諭から言われた言葉を思い出す。
「そういうわけだから、あなた達の方からも、音楽部に入るように説得して欲しいのよ。とっても可愛い女の子だから、一目見たら絶対音楽部に欲しくなるわよ。テニス部も欲しがっているらしいから、早いとこ手をうってこっちに入れなくちゃ」
……幸田先生の言ってたこと本当だったんだ……ほ、欲しい……テニス部に先を越されないようにしなきゃ……
「私、三年の山下冴子です。音楽部の部長しています」
……部長……いやな予感……
「幸田先生から聞いたわ。あなたピアノが上手だそうね。どうかしら、音楽部に入らない?」
「いやだ。入らない」
梓は、間髪入れずに答えた。そして、
「行こう、絵利香ちゃん」
と手を引いて教室をさっさと出ていった。
「ちょっと、待ちなさいよ」
梓は答えない。あの強引な幸田教諭の教え子なら似たり寄ったり、へたに相手になるとつけ込まれる恐れがあると判断したのだ。
職員室。
「申し訳ありません。玉砕しました」
「仕方ありませんね。でも、可愛い子だったでしょ」
「はい。欲しいです」
「となると、あとは……」
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