梓の非日常/第一章・生まれ変わり(六)過去に別れを
2021.01.31

梓の非日常/第一章 生まれ変わり


(六)過去に別れを

 退院の日がきた。
 病室では、麗香が梓の荷物をまとめている。母親の渚は梓の着替えを手伝っている。ネグリジェから、はじめて外出着である白い木綿のワンピースを身にまとう梓。

 主治医や看護婦に見送られながら玄関を出ると、目の前には黒塗りのロールス・ロイス・ファントムⅥが横付けされていた。
『お嬢さま、ご退院おめでとうございます』
 運転手が深々とお辞儀をして出迎える。
『あ、ありがとう。ええと……白井さん……でしたっけ』
 今の梓にとっては会ったことのないはずの人物であったが、超高級車であるロールス・ロイスというキーワードが、過去の記憶の中から自分専属のお抱え運転手白井という名前を呼び起こしたのだった。
『はい。さようでございます』
 梓の記憶障害のことは白井にも知らされているのか、少しの動揺も見せていない。後部座席を開けると、梓の乗車を促した。
『どうぞ、お嬢さま』
 促されるまま、乗車し後部座席に腰を降ろす梓。運転手は、ドアを閉めて反対側に母親の渚を乗せると、麗香の運んできた荷物をトランクにしまう。それが済むと麗香は助手席に、白井は運転席に着席する。
『白井。まずは、長沼さまの所に伺います』
『かしこまりました、渚さま』
 ロールス・ロイスは病院の玄関前を発進した。
『長沼……?』
『あなたの命を救ってくれた方ですよ。長沼浩二さん』
 ……そうか。長沼浩二というのが、男だった時の俺の名前か……会えるのか?

 この俺自身に……

 川越の町並みをロールス・ロイスが走り抜ける。
 梓としての記憶をたどると、一度も見たことのない風景が流れているのだが、いつかどこかで見たような雰囲気、デジャブー現象を覚える梓だった。
 それはかつての長沼という男の持つ記憶のイメージなのか。しかし、今の梓にはそれを確認する術はなかった。梓としての記憶はあっても、長沼としての記憶は持ち合わせていないのだ。
 やがてとある民家の前に停まるロールス・ロイス。
『着きましたよ。梓』
 白井がドアを開けてくれる。
 ゆっくり車から降りて、その民家を眺めると、どこにでもありそうな、いわゆる分譲住宅4LDKという間取りのごく普通の家だ。玄関には長沼健児という表札がかかっており、郵便ポストにはその名の他に、良子、良一、京子、そして浩二という名がしるされている。つまり浩二は五人家族の末っ子だったらしい。もっとも梓にはその字が読めるわけもないが。
 母親が、出てきた家の居住者に頭を下げ、時々梓の方を見やりながら何事か話している。
『梓、いらっしゃい』
 呼ばれて母親のそばに寄る梓。
「こちらが梓さんですか。とっても可愛いお嬢さまね」
「はい。おかげ様で傷一つなく」
 渚はその母親のために、日本語を使っている。
「浩二に会っていただけますか、梓さん」
『……?』
 日本語の判らない梓に、母親が通訳しながらそっと梓の背を押して促した。
『はい……』
 梓は小さく呟くように声を出し、玄関から中へ上がっていく。
 居間のサイドテーブルに簡便な仏壇状のものが設けられ、手向けられた花束に囲まれて位牌と遺影がそっと置かれてある。
「浩二ですわ」
 遺影を指し示して、
「私は、生前の息子は人様にご迷惑をかけるだけの乱暴者の不良だと思っていました。でも、こんなお嬢さまを身を呈して助けることのできる正義感のある男の子だった。私は、息子を信じてやれなかった自分を、母親として恥ずかしく思っています」
 渚が梓の耳元で、英語に通訳している。

「梓さん」
『はい』
「あなたには、浩二の分まで長生きして欲しいと思ってます。事故のことがトラウマとして残らなければいいのですが、早く忘れて自分の人生を歩んでください」
『あの……浩二さんのお部屋、見せていただけませんか』
 渚の通訳を介して、梓の意志を汲みとったのか、
「いいでしょう。こちらです」
 案内されて二階の浩二の部屋に入る梓。
「下で待っていますわ」
 気を利かせたのか、梓を残して下に降りていく母親達。
『ここに長沼浩二が暮らしていたのか』
 机と椅子があり、本棚には本が並んでいる。窓際にはベッドが置かれ青いカーテンが引かれている。しかし、いくら思い起こそうとしても、この部屋の住人である長沼浩二という人物の生活の記憶がまるで出てこなかった。
 そうなのだ、今の自分にある記憶のほとんどすべて、真条寺梓という十二歳の少女のものでしかなかったのだ。
 今自分が抱いている長沼浩二という記憶は、もはやただ単なるイメージでしかないのに気がついた。
 本棚にあった本を一冊取り出してみる。
 熟れた人妻、乱れ髪。
 というタイトルが目に入る。
『な、なにこれ』
 ページを開けば、裸体のオンパレード。くんずほずれつ言葉に言いがたい。
『こんなもの読んでたのかよ。俺は……冗談じゃない』
 真っ赤になっている自分に気づく梓。それは男としての欲情ではなく、まさしく女性特有の恥じらいの表情であった。
 ぱたんと本を閉じて元の場所に戻す梓。
 ふう……
 思わずため息をもらす梓。
 かつて自分が暮らしていたはずの部屋ではあったが、今の梓にとっては何らの感情も抱くことのない単なる空間でしかない。
『ここは、今の自分が来る場所ではなかったか……』
 静かにその部屋を出ることにする。
 その表情は、もはや過去の遺影と化した長沼浩二と決別し、新たなる梓という人生を生きる決意に満ちていた。

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