梢ちゃんの非日常 page.3
2021.07.21

梢ちゃんの非日常(ルナリアン戦記前章譚)


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『梢ちゃんも、すっかり英語人になってきたわね。わたしの話し掛ける英語にちゃんと正しく答えてる』
『そうね。聞いている分には、日常生活会話ならだいたい理解しているわよ。話し言葉の方は舌が回らないしまだまだだけど、乳歯も生え揃ったことだし、正しい発音もこれからよ』
『やっぱり本場の英語圏に来ているだけあって、覚えるのが早いわね。話し言葉の基礎ができるのは、三・四歳くらいまでというけど。梢ちゃん今二歳十ヶ月だっけ、これから幼稚園に入って、さらに小学校に上がる頃には、完璧なアメリカ人になっているわよ』
 二人の会話に加われない当の本人の梢は、手持ちぶさたそうに梓の手のひらと自分の手のひらの大きさを比べたり、その指を折って数をかぞえる練習をはじめたりしている。
『まわりが英語を話す人ばかりだからね、あたしも英語以外では一切話し掛けないから』
『つうことは、日本語はまるでだめということか』
『そういうこと。第二言語を教えはじめるのは、まず国語としての英語がしっかり身についてからね』
『わたし達と、同じね。確かにわたし達日本語が話せるけど、やっぱり生まれついて慣れ親しんだ英語で話すほうが楽だものね』
『さてと……午後の講義まで少し時間があるから、梢ちゃんと遊んであげましょうか』
 食器類を調理場の片隅の返却コーナーに戻すと、梢の手を引いて食堂を後にした。

 キャンパスをそぞろ歩く二人。その周りを梢が両手を水平に広げて飛行機走りしている。もちろんボディーガード達も目立たないようについて来ている。
『梢ちゃん、転ぶわよ』
 絵利香が注意する。
『大丈夫よ。転ぶと痛いことぐらい知ってる。だから転ばないように気を付けながら走ってる。それでも転ぶ時は転ぶ。転びと痛みを繰り返しながら、より上手な走り方をするようになるのよ。運動神経と反射神経を養うために好きなように走らせてやるの。他人に迷惑をかけなければね。あの走り方をする時は機嫌がいい時なの。無理に止めさせて気分を害することはないでしょ』
『でも、怪我する時もあるわよね』
『その時は、やさしく声をかけて、母親の愛情を一杯注いで治療してやるのよ。絆創膏は大小取り混ぜていつも持ってるの。ほら』
 といってバックから取り出して見せる。
『怪我を恐れず、何にでもチャレンジするような子になって欲しいものね』
『そのうち木登りだってするような、おてんばになるわよ』
『いいんじゃない、それでも。あれ……』
 今まで周りを走りまわっていた梢の姿が見えない。見渡すと花壇の前にしゃがみ込んで、何かを熱心に見つめている。
 そのうち、
『ママ、ママ、来て!』
 と梓を手招きしはじめる。
 何事かと思って近寄ってみると、花壇の草木の間に蜘蛛の巣が張り巡らされていて、放射円状の中心に鮮やかな緑色をした蜘蛛がいた。
 興味の対象を見つけたら、まず母親を呼んで、触ってもいいかを確認するのだ。
『くもだよ。これ』
 梢が指差して答える。
『そうだね。この周りの糸で蝶々なんか捕らえて食べちゃうんだよ』
 絵利香が解説を加える。
『うん。図鑑に載ってたよ』
 図鑑とは梓が梢に買ってあげた昆虫図鑑のことである。いろんな昆虫が天然色の写真入りで図解されている。
 広大な屋敷内には多くの樹木が茂っていて沢山の鳥類や昆虫類が生息している。樹液に集まり簡単に捕獲できる甲虫類は、梢のお気に入りである。カブトムシ、クワガタムシなどはよくご存じの定番である。それらの虫を捕まえて、その図鑑で確認して、力比べをさせたりして遊んだらまた離してやる。いつでも好きな時に捕まえられるから、飼うことはしない。野におけれんげ草、自然にあるものは自然に返す。梓の教育方針を忠実に守っている梢であった。
 蜘蛛は正確には昆虫には入らないが、昆虫と蜘蛛は捕食関係にある都合からか、一緒に載っているようである。
 動くものがあれば、触りたくなる、これは動物の本能である。小犬も子猫も動くものには盛んにじゃれつく。梢は興味があるものを見つけた時の癖で、人差し指を唇にあてて、触りたくてしようがない様子だ。そのうち人差し指で蜘蛛をつつきはじめるかもしれない。
 そのことを充分承知の梓は、すぐさま注意する。
『梢ちゃん、触っちゃだめよ』
 地味な色をしている蜘蛛が多い中で、これだけ目立つ色をして隠れもしないのは、いわゆる警戒色で毒を持っているかもしれないと判断したからだ。欧米に分布するヒメグモ科ラトロデクツス属の蜘蛛類は極めて有毒なことで知られている。もっとも梓がそんなこと知るわけもないが。
『うん。わかった』
 以前に何も知らずに蜂の巣を触って懲りている梢は、残念という表情を見せて素直に従っている。その時は、幸いにも巣を作りはじめの頃で、女王蜂と数匹の働き蜂しかいなかったから助かったが、もし球状に大きくなったスズメ蜂の巣だったらと思うと冷や汗がでる。それ以来、飛翔して攻撃してくる蜂の巣には、絶対に近づかないように言いくるめてある。念のために数週間後にアレルギーの抗原抗体反応を調べてみたが、アナフィラキシーの過敏反応は見られず一安心というところ。
 人を襲う虫がいることを身を持って体験しているから、母親が触るなといえば絶対に触らない。しかし興味はあるので、遠めに観察することはやめないようだ。こちらから何もしなければ、相手も襲ってこないことを教えられているからだ。
 噛む、針で刺すなどのほか、毒液を吹き掛けるタイプの虫もいるので要注意である。毒液が目に入れば失明することもある。

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