(六)退院
というわけで、両親に連絡を取って、明日に退院ということになった。
「看護婦さんはやさしいし、毎日お姉さん達が見舞いにきてくれるから、気に入っていたのになあ……」
記憶がないことを除けばまったくの健康体なのだから、いつまでも入院しているわけにはいかない。
その夜。
「あーあ。この病院とも今夜でお別れかあ……。せっかく馴染んでいたのにね」
(あほか。病院に馴染んでどうすんだよ。病院は治ったら退院する。これ当然」
「治ってないもん。記憶喪失は、ちゃんとした病気だよ」
(ここは産婦人科病院だよ。記憶喪失を直すなら診療内科。第一真菜美がこの病室を占拠していたら、病院の経営にも差し障りがあるだろう。もっと多くの患者を入院させたくてもできないじゃないか)
「でも脳移植手術をしたのは先生だよ。最後まで面倒見るのが医者の務めじゃない」
(だから「いつでも通院してきなさい」と言ってくれたじゃないか)
「入院と通院じゃ、環境がまるで違うもん。看護婦さん達ともせっかく仲良くなれたのになあ……」
(退院がそんなにいやか?)
「だって、まるっきし知らないところに行くんだよ。確かにあたしの両親なのかも知れないけど、記憶がないんだからちゃんと暮らしていけるか心配。帰ったはいいが、結局つまはじきされて、泣いて戻って来たりして」
(あほか、実の親がそんなことするわきゃないだろ。問題はおまえ自身が両親とどう付き合っていくかだよ)
「そんなもんかな……」
眠れなかった夜が開けて退院の日が来た。
両親が迎えに来た。
長い間お世話になった先生と看護婦さん、そして病室にもお別れを言う。
「真菜美ちゃん、元気でね」
玄関先にもお見送りに出てきてくれた看護婦さん。
看護婦さんというより、お姉さんという感じで、とても優しく色々とお世話してくれたんだもの。
いざ別れとなるとやはり寂しい。
涙が出てきちゃった。
「それじゃあ、出発するわよ。真菜美、乗りなさい」
「うん、わかった……」
病院が遠くに離れていく。
いわば懐かしの我が家と言ってもいいその建物が見えなくなるまでずっと見つめていたよ。
やがて、とある住宅の前で車が止まった。
「ここがあたしのお家?」
「そうですよ。懐かしいでしょう?」
と言われても、記憶になかった。
昔はここに住んでいたのは確かなことなのだろうが……。
今の自分から見れば完全なる他人の家である。
「真菜美、お部屋で着替えてらっしゃい。二階に上がってすぐ右手のお部屋よ」
「はーい」
言われるままに二階へ上がって、自分の部屋に入る。
「ここがあたしの部屋……。自殺する寸前まで、生活してたんだね」
(何か感じることはあるか?)
「何にも感じないよ」
(そうか……。とにかく今日からここが真菜美の部屋だ)
「今日からじゃなくて、以前からなんだろうけどね」
きょろきょろと部屋の中を物色する真奈美。
机の上に、黒い箱のようなものが置いてあった。
(箱とはなんだよ。ノートパソコンだよ)
「へえ、パソコンか……。ねえ、これどうやって使うの?」
(知らなくてパソコン持ってるのか?)
「しようがないじゃん、記憶がないんだから」
(それくらいのことも……。まあいいさ、教えてやるよ)
「サンキュー」
直人さんのレクチャーを受けて、パソコンを使いはじめる。
まずはパソコンの起動の仕方からはじまって、インストールされているソフトの起動、ファイルの開き方。インターネットの接続。
(それ自体だけではただの物書きぐらいにしか使えないが、ネットサーフィンできれば無限の可能性が広がるんだ)
「へえー。パソコンって便利ね」
(しかしこのパソコン、最新型じゃないか。インターネットにもADSLで繋がっているし……。君の両親は、娘のためにはいくらでも金を惜しまないって感じだな。部屋の中を見回しても、結構贅沢な代物が揃ってる)
「女の子の部屋、じろじろ見ないでよ」
(あのなあ……。俺は、真菜美の目を通してしか見ることができないんだよ。俺が見ているのはすべて真菜美が見ていることなんだぞ)
「わかってるわよ。言ってみただけ」
何も判らない家に来て、知らない両親の下で暮らす。
逃げ出したい心境だけど、心底可愛がってくれるから何とか踏みとどまっている。そのうちに打ち解け合ってくるだろうし、そうならなきゃならないのよね。
それにしても、直人さんが心の中にいてくれるから心細くならないし、色々と相談に乗ってくれるからほんとうに有り難い。女の子だったらもっと良かったのにな。
(あのなあ……。無理言ってんじゃないよ)