特務捜査官レディー (響子そして/サイドストーリー)
(四十三)阻害剤  それから数日後。  わたしは黒沢先生の元を訪れていた。  囮捜査のこととかをすべて話してみた。 「何か便利な薬とかありませんか? 妊娠阻害剤とかもありましたよね」  先生が、某製薬会社の社長ということで、そういった性に関わる薬剤を手に入れら れるのではないかと思ったからだ。 「おいおい。言ってることの意味を、良く理解して依頼してるんだろうな?」 「もちろんです。売春組織と関わるのですからね。万が一に備えたいのです」 「妊娠阻害剤はあるが、それを必要とするときは組織に囚われた結果としての性行為 もあるだろう。その状態で犯された後から薬を飲むことは不可能だと思うぞ。ピルを 毎日飲んでいれば妊娠はしないが、これも囚われた状態では飲用は無理だ。ピルの飲 用をやめれば即座に妊娠可能となる」 「事前妊娠阻害剤はないのですか? 飲んだら一週間くらいは妊娠しないというの」 「捕らえられて一週間以内で脱出できるか、救出されるかということか?」 「やはり一週間でしょう。証拠を掴むも掴まないにしてもね」 「ふむ……」  じっとわたしの顔を見つめる先生だった。  どれくらい意思が固いとかを推し量っているように思えた。 「まあ、いいだろう。捜査に協力しようじゃないか。産婦人科医として、女性の苦し みを放っておくわけにはいかないからな。売春が原因で望まぬ妊娠をした女性の中絶 手術をすることだけは願い下げだからな。覚醒剤にも効果がある催眠阻害剤と即効性 麻酔針仕込み髪飾りを進呈しよう」 「ありがとうございます。髪飾りは何となく判りますが、催眠阻害剤とは?」 「麻酔剤がどうして効くか知っているか? 薬剤師の君なら当然知っているはずだが」  もちろん知らないでどうする。  生物には体内エンドルフィンという麻酔作用を及ぼす物質を分泌する能力を持って いる。指などを切るとしばらくは痛みを感じるが、やがて傷が治っていないにも関わ らず痛みが無くなるかやわらぐはずだ。これは痛みの刺激に対してそれをやわらげよ うとして、身体の防衛システムがこのエンドルフィンを分泌するからである。痛みを 感じる組織にはこのエンドルフィンに感応する受容体(レセプター)があって、受容 体がエンドルフィンを受け入れると痛みを感じなくなるというわけである。また中国 古来の針麻酔という術法も、針の刺激によって体内エンドルフィンを分泌させて麻酔 作用を引き起こしているわけである。  受容体とは、細胞膜上あるいは細胞内に存在し、ホルモンや抗原・光など外から細 胞に作用する因子と反応して、細胞機能に変化を生じさせる物質。ホルモン受容体・ 抗原受容体・光受容体などをいう。アレルギー反応も同様のシステムで起きるもので ある。  これはもちろん女性ホルモンを呑んだ男性の乳房が発達することを考えればよく判 ることだ。男性にも女性ホルモン受容体があるからこそ、女性ホルモンで乳房が発達 するのである。  さて本題の人工的な麻酔剤だ。  麻酔作用を期待するには、何も体内エンドルフィンと同じ成分そのものでなくても 良い。要は、この痛みを感じる組織中にある受容体が感応し、期待する作用を及ぼす 成分であればいいのだ。科学的に論ずるならば、化学成分式に表されるところの、あ る特定の塩基配列を持つということになるのだが……。  細胞に作用する因子と、これに感応する受容体という関係から、本来体内に存在し ない体外から入ってきた物質に対しても、一様に効果を発することを利用するもの。  それが麻酔などの薬剤なのである。  麻薬や覚醒剤が人体に及ぼす作用も、同様にして説明できる。  では、阻害剤とは?  麻酔や覚醒剤が効果を発するのは、それに感応する受容体があるからである。なら ばその受容体を別の無害で長時間作用するもので先に埋めてしまえば、麻酔も覚醒剤 も効果を発揮することなく、そのうちに体外に排泄されてしまう。アル中の人に麻酔 が聞かないのも一種これのせいである。  簡単に説明すると、受容体を別の無害な物質で、先に埋めてしまえ!である。 「……ということです」  ぱちぱちぱち。  と拍手しながら答える先生。 「正解だよ。さすがは薬剤師」 「からかわないでください。つまり、事前に阻害剤を投与していれば、覚醒剤を射た れても効果を発揮しないということですよね」 「そうだ。しかし、覚醒剤が効いているという演技が必要になってくるかも知れない がね。しかも任務を考えれば、身体を汚されることも容認しなければならないのは、 君が妊娠阻害剤を求めるとおりに避けて通れないことだ。それでも君は、渦中に飛び 込もうというのだね」 「はい。敬も理解してくれました」 「そうか……。彼も納得の上でというなら、これ以上何もいうこともないだろう」 「ご無理を言って申し訳ありません」 「任務決行の日がきたら事前にここに寄りたまえ、最善の薬を用意しておこう」 「ありがとうございます」
     
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