陰陽退魔士・逢坂蘭子/第六章 すすり泣く肖像

其の壱  阿倍野女子高等学校美術準備室。  キャンバスに向かって絵筆を動かす人物がいる。  非常勤講師で美術担当の稲川教諭である。 『稲川先生、校長先生がお呼びです。校長室までいらしてください』  校内放送を受けて、絵筆を置いて立ち上がる稲川教諭。  静かに外に出て戸を閉める。  誰もいなくなった美術準備室。  閉め切った窓、淀んだ空気の中で、カーテンの隙間から淡い光が、キャンバスを照らし ている。  清純な姿をした少女の肖像画。  まるで生きているようなほどに繊細に描かれていた。  と、突然異変が起こった。  肖像画の瞳から涙のようなにじみが現れ、水滴となって流れ床を濡らしはじめた。  異変はそれだけではなかった。  周囲の壁に飾られた肖像画がすすり泣きはじめたのである。  その中にあってただ一つ男性の肖像画が怪しげに異彩を放っていた。  数時間後。  蘭子達が教室の中央に置かれた石膏像を取り囲んで、デッサンの授業を受けている。  後ろ手に腕組みをし、生徒達の間を回りながら、指導をしている稲川教諭。  一人が静かに手を挙げ、稲川教諭が歩み寄って小声で指導をはじめた。  陰影についての質問のようだった。光線の当たり具合や陰影の濃淡について、より立体 感を出すにはどう表現したら良いかを尋ねている。  生徒達の質問に対して、親切にアドヴァイスを与えている稲川。 「立体的に描こうじゃなくて、見たまま感じたままを正直に描くんだよ。技巧的に描こう としないで自然にね」 「はい、わかりました!」 「こら、どさくさに紛れて手を握るんじゃない!」 「えへへ……」  頭をかく生徒。  この生徒の名は宮田安子といって、稲川教諭にほのかな思いを寄せていた。  やがて授業終了のチャイムが鳴った。 「ようし、それまでだ。デッサン画の裏にクラスと名前を書いて提出。誰か集めて準備室 まで持ってきてくれ」 「はあい。あたしがやります」  手を挙げたのは宮田安子だった。  稲川教諭はさっさと準備室へと戻り、安子は生徒達からデッサン画を集めはじめた。 「あんたもマメね」  安子が稲川教諭を好きなことを知っている友人が冷やかす。 「先生に気に入られたいからね」 「好きにやってなさい」 「へいへい。そうしますよ」  何を言われても、意に介せずである。  デッサン画を集め終わると、そそくさと準備室に入っていった。  稲川教諭は紅茶を入れて飲んでいるところだった。 「みんなのデッサン画をお持ちしました」 「おう。そこの机の上に置いてくれないか」 「はい」  指差された机の上にデッサン画を置く安子。 「君も紅茶を飲むか?」 「はい。頂きます」  断るはずもなかった。  稲川教諭は、もう一客ティーカップを棚から取り出して、ポットから紅茶を注いで安子 に渡した。 「ミルクを切らしているんだ。砂糖だけで我慢してくれ」 「砂糖だけでいいです」  手渡れたティーカップに砂糖を入れてかき回しながら、壁に掛かった肖像画を眺める安 子。 「この肖像画は、みんな先生がお描きになられたのですか?」 「そうだよ」 「やっぱり、モデルさんを頼んで描いておられるのですか?」 「もちろんだよ。おかげでモデル料を支払ったらすっからかんだよ。絵具を買うのにも四 苦八苦しているよ。非常勤の給料ではきびしいね」 「あたしでよければ、ただでモデルをやってあげましょうか?」 「本当かね?」 「はい」  次の授業の予鈴が鳴り始めた。  ティーカップを机の上に置いて話す安子。 「また後でうかがいます」 「その時に話し合おう」 「そうですね。ごちそうさまでした」  授業に遅れないように、あわてて準備室を退室する安子。  一人になり、意味深な含み笑いを浮かべる稲川教諭だった。
     
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