妖奇退魔夜行/第三章 夢鏡の虚像 後編
2020.11.24

陰陽退魔士・逢坂蘭子/第三章 夢鏡の虚像 後編


其の拾壱

 道子の自宅は程遠くないところにある。
「そういえば、先日おまえが妖魔から救ったという娘はどうしておる? 魔によって女子
にされたという」
「恵子ね。元気にしていますよ。あ、そこの家です」
 と、鴨川姉妹の家を指差す蘭子。
 その家をじっと眺め、妖魔の気配のないのを確認しているようすの晴代。
「そうか……。妖魔から完全に解放されたということだな」
「はい」
 再び歩き出す晴代と蘭子。
 やがて道子の自宅の前にたどり着く。
「ここです」
 立ち止まる二人。
 二階の窓を見上げる晴代は、そこに鬼火のようなものが点滅しているのを見い出してい
た。
「あれが見えるか、蘭子」
「はい。道子の魂が苦しんでいます。早くしないと手遅れになります」
「その通りだ」
 門をくぐって玄関に回りインターフォンを押した。
 ややあって、答が返ってくる。
「はい。どちら様ですか?」
「クラスメートの逢坂蘭子です」
「ああ、蘭子ちゃん……」
 しばらくの間があってから、玄関の扉が開いて暗い表情の母親が顔を出した。
「せっかく来ていただいたのだけど、道子が熱を出してしまって、今夜はご遠慮して頂戴
ね」
「実は、その道子のことでお伺いしたんです」
「どういうことですか?」
 ここで、後に控えていた晴代が前に出てきた。
「ちょっと失礼しますよ」
「あら、これは土御門神社の宮司さん」
 神社では季節の折々に祭礼が開かれており、町内会などの寄り合いなどに、晴代は宮司
としてかかさず参加している。阿倍野で暮らす人ならば、知らない者はいないという顔で
もある。
「娘さんの症状は、風邪などの病気ではなく、悪魔が取り憑いているせいじゃ」
「悪魔? まさか科学的な世の中にオカルトなんて」
「いや、信じられないのは良く判りますが、娘さんの症状は本当に熱だけですか? 他に
不思議な現象はありませんですかな」
 じっと母親を凝視する晴代。
 耐えられなくなって目をそらせ、喉を詰まらせたように話し出す母親。
「じ、じつは……娘は……」
 言いかけた時、奥からこの家の主人が出てきた。
「加代。娘の部屋に案内して、その目で確かめてもらった方が良い」
 その腕には痛々しいほどの包帯が巻かれていた。
「あなた!」
「その腕は、どうなされた?」
「いやはや、娘に噛み付かれましたよ。しかも尋常な力じゃない。筋肉を引き裂いて、骨
にまで歯型がついています」
「なるほど。やはり悪魔が憑いていますな」
「とにかく見てやってください」
「それでは失礼しますよ」
「お邪魔します」
 草履を脱いで家に上がる晴代と蘭子。
 母親に案内されて、二階の道子の部屋に着く二人。
「十分気をつけてください。信じられないことが中で起こっていますから」
 と言いながら、部屋の戸を開ける母親だが、怖がって中へ入ろうとはしない。
 部屋の中は惨憺たるものだった。
 箪笥は倒れ、カーテンは引きちぎられ、床には飾り物・置物などが散乱していた。壁際
にある紅い染みは、父親が噛まれた時の血飛沫だろう。
「まるでポルターガイスト現象ね」
 ふと、呟く蘭子。


其の拾弐


 ひとまず、その部屋を退散して、応接間で相談することにする。
「ご覧になられた通りです。やはり悪魔かなんかに魅入られてしまったのですか?」
「いかにも、今夜中にも何とかしないと、娘さんは助からない」
「助からないって……。そんな、娘が……」
 相変わらず涙ぐんでいる母親。
 その肩をやさしく抱き寄せながら、
「大丈夫だよ、ママ。陰陽道の大家である土御門宮司がいらっしゃっということは、娘を
助ける算段があるということだよ。ですよね?」
「いかにも」
「本当ですか、娘は助かるのですか?」
 母親の目が輝いた。
「土御門家の名誉にかけて」
 すると気が緩んだのか、顔を手で覆ってワッと泣き出した。

 その時、玄関のインターフォンが鳴った。
「私が出よう」
 いまだに泣き伏せっている母親に代わって父親が玄関に回った。
 玄関で何やら問答が聞こえていたが、戻ってきた父親に着いて、二人の男性が付いてき
ていた。
「井上課長さん!」
 蘭子が思わず声を出した。
 それもそのはずで、心臓抜き取り変死事件で、散々な待遇をしてくれた相手。大阪府警
本部刑事課長の井上警視だったからである。
「これはどうも……。逢坂蘭子さんでしたね。その節はどうも……」
 と、蘭子を認識して頭を下げる井上課長だった。
「知り合いかね」
 晴代が蘭子に尋ねる。
「例の心臓抜き取り変死事件の担当捜査官よ」
「ああ、あれか……」
「大阪府警刑事課の井上です」
 言いながら、晴代に名刺を差し出す。
 受け取って、記されている正式な肩書きを読んで尋ねる晴代。
「捜査一課の刑事課長さんが、わざわざお見えとは、何事か起こりましたかな」
「この近くで殺人事件が起こりましてね。目撃者によりますと、こちらの娘さんが関わっ
ているらしいとのことで、事情聴取に参った次第でして」
「ほう、殺人事件とな。どのような……」
「目撃者によりますと、こちらの娘さんに若い男が絡んでいたらしいのですが、突然男の
腕が捻じ曲がり、頭が首からもぎ取られるように吹き飛んだというのです。実際の現状も
その通りのままでして……。まるで怪力の持ち主かプロレスラーでもないと、ああにも…
…」
「とてもか弱い娘さんには不可能だとおっしゃるかな」
「その通りです。頭を抱えていたのですが、蘭子さんがこちらに見えているのをみて、少
し納得できたような気がします」
「納得とは?」
「はたまた悪霊かなんかの仕業ではないかと……」
「科学捜査しか信じない警察の言葉じゃないね」
「まあ、組織的にはその通りなのですが、個人的には蘭子さんに教えられましてね。科学
では解明できないものもあるということをね」
「ふん……」
 と、鼻声で答えて、両親の方に向き直る晴代だった。
「それでは、ご両親にお尋ねいたしますが、娘さんが帰宅された当時のことを、詳しく話
していただけますかな」
「よろしいでしょう。お話いたしましょう」
 父親が意を決したように語り出した。


其の拾参


 夜道をとぼとぼと歩いている道子。
 制服は乱れて至る所が破れている。
 自宅にたどり着き、玄関の戸を開けると無言で上がる。
 その物音に気づいた母親が台所から顔を出す。
「道子なの? 遅かったじゃない」
 しかし、その汚れた姿に驚いて、
「どうしたのよ。その格好は?」
 と、声を掛ける。
「何でもないわ」
「何でもないわじゃないでしょ。誰かに襲われたの?」
 気が気でない声で尋ね返すが、
「ちょっと転んだだけよ」
「転んだだけで、そんなになるわけないでしょ」
「いいから、放っておいてよ」
 母親の手を振り払って、階段を昇ってゆく道子。
「待ちなさい! 道子」
 居間の方で、二人のやり取りを聞いていた父親が呼び止めるが、無視して自分の部屋に
入ってゆく。
「あなた、道子に何があったのでしょうか?」
「わからん。ちょっと見てくる」
 階段を昇り、道子の部屋の前に立ちノックする父親。
「パパだよ。入るけどいいよね?」
 中から返事はない。
 静かにドアを開けて中に入る父親。
 道子はベッドに俯けに伏せっていた。
「道子……」
 声を掛けると、道子が父親に向けて、激しい声で怒鳴った。
「出てってよ。何でもないんだから」
「そんなこと言っても……」
 さらにベッドに近寄る父親だったが、突然道子が起き上がって、右腕に噛みついた。も
のすごい顎の力だった。筋肉を引き裂き、骨まで歯が食い込み、鮮血が辺り一面に飛び散
る。思わずのけ反って、右腕を押さえ苦痛にゆがむ父親。
 開けたドアのすき間から、母親が心配そうに覗いていたが、それから信じられないこと
がはじまった。
「ここから出て行け!」
 と、道子が叫ぶと、ぬいぐるみなど部屋中の置物が両親めがけてくる。タンスが大きな
音を立てて倒れ、カーテンが引き裂かれた。
 命からがら部屋を抜け出した両親は、まず父親の腕の治療のために、夜間診療救急病院
へと車を走らせた。入院治療を勧める医者の言葉に、
「娘を放っておけるか!」
 と、自宅に舞い戻ってきたのである。
 だからといって何ができるというわけでもなし、時々娘の部屋を覗きこむが、ベッドに
伏せって身動き一つしなかった。しかし、不用意に近づいて様子を見ることもかなわない。
 ほとほと困っている時に、蘭子達が訪問してきたのである。

「なるほど、良く判りました」
 父親から事情を説明され、納得した晴代が答えた。
「お願いします。娘を助けてやってください」
 必死の表情で懇願する母親。
「大丈夫です。そのために伺ったのですから」
 見つめ合って安堵する両親。
 横から井上課長が声を掛けた。
「あの……。私達に何かお手伝いできることはありますか?」
「何もありませんな。ご両親と一緒に、命が助かるよう祈っていて下さい」
「はあ……。相手が悪霊の類だと、我々には手も足も出ないということですか」
「いかにも、これから蘭子と二人で娘さんの部屋に入りますが、一切立ち入り禁止、部屋
には絶対に近づかないで下さい。ご心配でしょうが、儂らを信じてすべてを託して欲しい。
守れますか?」
 一同が見つめって確認しあう。
「判りました。仰せの通りにいたします。刑事さんたちもよろしいですね」
 父親が確認すると、大きく頷いて井上課長が答えた。
「無論です」
 井上課長は思い起こしていた。心臓抜き取り変死事件での、あの母親の猟奇殺人におけ
る、凍って時の止まった部屋のことを。悪霊というものが存在し、一般人にはとうてい解
決できないものがあることを身に知らされていた。
「いくぞ、蘭子」
「はい!」
 晴代が掛け声と共に立ち上がり、蘭子が応えて風呂敷包みを抱えて従った。


其の拾肆


 道子の部屋の前に立つ晴代と蘭子。
「陰形{おんぎょう}の術をかけておくぞ」
 陰形の術は、平安時代前期の文徳天皇・清和天皇の頃に活躍した宮廷陰陽家の滋丘川人
{しげおかのかわひと}が得意とした呪法。身を隠し守る護法の一つである。
 静かにドアを開けて中に入る二人。
 相変わらずの酷い惨状であるが、ある程度片付けなければ仕事にならない。
 床に散らばっている物を拾い上げて端に寄せ、ガラステーブルを中央に据えて作業台と
する。ベッド回りも邪魔にならない程度に片付ける。
 奇門遁甲八陣の方位に当たる部屋の周囲に燭台を置いて、ローソクに火を点し、死門の
位置に夢鏡魔鏡を設置する。道子と夢魔鏡とを結ぶ直線上の中心に対して直交する位置に、
夢魔鏡と鏡魔鏡を平行かつ等距離に置く。
「例のものは持ってきたな」
「はい」
 蘭子は懐から紙粘土を取り出して中心点に置いた。この紙粘土には自身の髪の毛を、呪
法を唱えながら練りこんで形代としたもので、夢の世界と鏡の世界を移動する蘭子の分身
ともいうべきものである。さらに式神を呼び出すための呪符をその下に敷いた。
 部屋中に張り巡らされた方位陣、虚空の世界を往来するための魔鏡の配置など。
 すべて準備が整った。
「蘭子、覚悟はいいな」
 おごそかに晴代が言った。
 場合によっては、夢鏡魔人との戦いに敗れ、命を失うかもしれないし、鏡の中に閉じ込
められて二度と出られなくなるかもしれない。陰陽師としてのすべての力を出し切り、命
がけの戦場へと向かう蘭子の心意気は本人にしか判らない。
「はい。いつでも結構です」
 と、目を閉じ手を合わせて、精神統一をはかった。
「では、いくぞ」
 晴代が心身解縛の呪法を唱え始めると、蘭子の身体が輝きだした。身体と魂の遊離がは
じまったのだ。やがて魂が完全に離れ、いとおしそうに身体にまとわりついている。
 さらに虚空転送の呪法を唱え始める晴代。すると蘭子の作った形代が輝きだした。
「夢の中へ、いざ!」
 晴代がカッと大きく目を見開いて、手を合わせてパンと鳴らすと、蘭子の魂が形代の中
へと、スッと消え入った。
 大きなため息を付いて肩を下ろす晴代。
 しかし、これで終わったわけではない。深呼吸をすると再び呪法を唱え始めた。道子の
生命を保ち続けるための呪法に取り掛かった。
 晴代と蘭子が全身全霊をかけた戦いが幕を下ろしたのである。


其の拾伍


 その頃、蘭子は摩訶不思議なる空間を彷徨っていた。
 呪法が成功して道子の夢の中に入り込んだようである。
 それにしても、目に見える景色が異様なまでに形容しがたいもので、抽象画のキュビズ
ムのようだったり、墨流しのようだったり、刻々と変化を続けていた。
 無理もないかもしれない。他人の夢など具象化できるものではないだろう。
 それでは夢鏡魔人は、その光景をどのように見ているのだろうか。
 その時、するどい突き刺さるような声が轟いた。
「誰だ! 私の神聖な領域を侵す奴は」
 景色の一角がスパイラル状に動いたかと思うと魔人が姿を現した。その姿が見えるのは、
道子が見ている夢ではなく、実際として虚空に存在しているからだろう。
「あなたが夢鏡魔人ね」
「ほう。現世では、私のことをそう呼んでいるのかね」
「なぜ、夢に入り込んで人を苦しめるのか。そして殺してしまう」
「なぜ? それは、人が食物を摂取するのと同じだよ。私が生きるためであり、人が苦し
みもがく負の精神波を命の糧としているからだよ。悪夢を見せるだけでもいいんだがね。
それではつまらないから、当人に殺人を犯させたりして、より苦しむところを眺めて楽し
んでいるのさ。まあ、道楽みたいなものだ」
「道楽ですって? 許せないわ。謄蛇よ、ここへ!」
 蘭子が叫ぶと、火焔に包まれた神将が現れた。式神十二神将の中でも桁違いの通力と生
命力を有する四闘将【謄蛇・勾陣・青龍・六合】の一神である。
「なるほど、式神というわけか。しかし、式神では私を倒せないことは知っているのでは
ないか?」
「おまえの精神力を削ぎ落とすくらいはできるはずだ。その間に、弱点を探し出して倒し
てみせる」
 はったりであった。
 おそらく、この道子の夢の中では、鏡の世界に本性を持つ夢鏡魔人は倒せないだろう。
もちろん魔人の方も蘭子を倒せないのは同様である。
「こざかしい真似を……。ならばこうしてくれるわ」
 蘭子の身体が浮かび上がり、空間に出現したスパイラルの中へと、魔人共々吸い込まれ
ていった。
 残された式神は自然消滅していった。

 そこはうって変わって荒涼としたただ広い空間だった。
 至る所に無数の鏡が浮かんでおり、足元にも水溜りのような水面が広がっている。
「これが夢鏡魔人の世界?」
「その通りだ」
 背後から声が掛かり、振り向くと夢鏡魔人がふてぶてしい表情で立っていた。
「ここは私の世界だ。鏡を通して世界中どこへでも往来できた……。しかし今は封印され
て、この魔鏡のみからしか現世へ渡れなくなってしまった」
 魔人のそばに一つの鏡がスッと寄ってきた。
 そこには、道子の部屋の中の様子が映し出されていた。部屋の八方に点されたローソク、
ガラステーブルの上に置かれた二対の魔鏡。そのそばで一心不乱に呪法を唱える晴代がい
た。
「なるほど……。二人掛かりというわけか。娘の夢の中にいたせいで、こんな仕掛けをし
ていたとは気づかなかったよ。なるほどたいした陰陽師の術者のようだな」
「おまえを倒すための方策は十分にとってある。覚悟することね」
「まあ、そう急くな。私のとっておきのコレクションを見せてあげよう」
 と、パチンと指を鳴らすと、別の鏡が現れた。
 そこに映る光景を目にして息を呑む蘭子。


其の拾陸


 若い女性が数人の男達に押さえつけられて輪姦されていた。
「この鏡には、女性達が苦しむ最も残酷な場面が残留思念として、魂と共に閉じ込めてあ
るのだ。つまりこの女性の魂は未来永劫輪姦され続ける思念に苦しめられるというわけだ

「なんてことを……」
「しかもこの女性は男達に襲われたのではない。私がその身体を乗っ取って、男達の前で
衣服を脱がせて淫乱女を演じさせたのだ。だが身体を乗っ取られても意識ははっきりと覚
醒し、目の前で意にならないことが起きていることをどうすることもできない。この女性
は清廉潔白で純真無垢な生娘だったよ。さぞかし心痛な思いであっただろうな」
「貴様! 人の純真な心を無残にも踏みにじるとは許せん!」
 怒り心頭にきて我慢の限界であった。
 蘭子は片膝を付いて呪法を唱え始めた。
「バン・ウーン・タラーク・キリーク・アク」
 心臓抜き取り変死事件の時に使用したあの呪法である。
 構えた両手の間に五芒星の印が現れる。
「はっ!」
 蘭子が気を放つと同時に五芒星は魔人の額を捕らえたが、すぐに消えてしまった。
「効かない?」
「何かね、今のは? そんな呪法など、私には効かない。それでは、こちらからも攻めさ
せてもらおうか」


其の拾漆


 一進一退が続いている。
 蘭子は次第に気力が衰えているのに気づき始めていた。
 一方の魔人は平然としていた。
 目の前に鏡が迫っていた。
 それに反映された自分の疲れきった表情。
 間一髪身をかわして鏡攻撃を避けるが、バランスを崩して青龍の背中から落下して地に
伏した。同時に青龍の姿も消え去っていた。
「そうか……。鏡は、私の精神波を吸収しているのか……。そして奴は」
 その時、どこからもなく精神波が届いてきた。
「その通りじゃ蘭子」
 晴代の思念波だった。魔鏡を通して鏡の世界へ思念波を送り込んでいるのだ。
「おばあちゃん!」
「いいか、良く聞け蘭子。魔人はそこら中にある鏡の中に閉じ込められた魂から、無限と
もいえる精神波を吸収して、消耗した体力を回復させているのだ。そしておまえは、鏡に
精神波を吸収されて、体力を消耗するだけだ。落ち着くんだ。怒りの精神波は、邪念や恐
怖といった負の精神波に近い。それこそが奴の活力の源なのだからな。そのままだと、他
の魂と同様に鏡の中に封じ込まれて、永遠に鏡の中を彷徨うことになるぞ。怒りを鎮めよ。
冷静さを取り戻せ!」
 そこで、思念波は途切れた。
「そうか……。そうだったのね」
 ゆっくりと立ち上がる蘭子。
 魔人が輪姦シーンの鏡を見せたりして、わざと怒らせて興奮させるような言動をしたの
は、蘭子の精神波を負の力へと導くためのものだったのだ。
 邪念を捨て、精神統一をはかる蘭子。
 冷静さを取り戻し始め、やがてその身体からオーラが輝き出しはじめた。
 魔人の放つ鏡が、そのオーラによって砕け散ってゆく。
 正義に燃える精神波が、負の精神波である鏡に打ち勝ったのだ。
 目を閉じ、静かに呪法を唱える蘭子。
 突然、歯で指を噛み切って血を流し、その滴る手を高く掲げて叫ぶ。
「虎徹よ。我の元へいざなえ!」

 現世の土御門家の晴代の居室。
 棚に置かれた御守懐剣が輝いて一瞬にして消えた。

 鏡の世界の中空の一点から強烈な光条が蘭子を照らし出した。
 そして一振りの剣が、ゆっくりと蘭子の差し出した手元へと、ゆっくりと舞い降りてそ
の手に収まった。
 虎徹に封じ込まれた魔人の精神波が解放されて怪しげに輝きだす。
「それは? 魔剣か!」
 さすがに夢鏡魔人も、これには驚かされたようだった。
 虎徹の本性も【人にあらざる者】であり、その実体は魔人である。
 鏡の世界の中へ飛び込んでくるくらいは簡単にできるはずであった。


其の拾捌


 魔人を倒すには、魔人をもってあたるべし。

 魔人はそこいらの妖魔と違って、桁違いの神通力と生命力を持っている。
 陰陽師家の大家でも封印するのがやっとの相手である。
 蘭子が魔人である虎徹を呼び寄せたのは、正しい判断と言える。
「その通り。魔には魔を。負の精神波には負の精神波を。魔を封じ滅する退魔剣なり」
 剣を上段に構え直し、地を踏みしめるように一歩前へと進む蘭子。
 その気迫に押されて、思わず後退する夢鏡魔人。
 相手が人間やその魂なら何とも思わない。
 しかし魔人が相手となると話は違ってくる。
 正真正銘の魔と魔の戦いとなり、どちらの魔力が勝っているかによって分かれ目である。
しかも強い念を持った陰陽師も付いている。
 この勝負、自分の方が不利と悟った夢鏡魔人は交渉を持ち掛けてきた。
「ま、待て。話し合おうじゃないか……。そうだ、ここにある鏡の中に封じ込めた魂達を
浄化してすべて解放しようじゃないか。そして私は、この魔鏡から二度と現世に出て、人
を殺めたりしないと誓おう。おまえは現世に戻って、この魔鏡を完全封印してくれ。な、
これでいいだろう?」
 魔人との口約束など当てにはならないだろう。永遠の命を持つ魔人なら、蘭子との誓い
を反故にして後世に再び災厄をもたらすのは明らかなることだった。

 この虎徹たる退魔剣に封じ込めたる魔人とは、古来のしきたりにのっとって正式なる【
血の契約】を結んでいるからこそ、意のままに従わせることが可能なのである。
 しかし、この鏡の世界の中では、血の契約を結ぶことは不可能であるし、そう簡単には
契約など結べないものである。
 夢鏡魔人の申し出は、急場凌ぎの言い逃れに過ぎないのである。
「人の世に、仇なす魔を断ち切る!」
 一刀両断のごとく、渾身を込めて退魔剣を振り下ろすと、解き放たれた魔人の精神波が、
夢鏡魔人に襲い掛かる。たとえそれを交わしても執拗に追いまわしてくる。
 突然、蘭子が気を放った五芒星の光が夢鏡魔人の背中を捉えてその動きを封じた。
「た、たのむ。見逃してくれ。同じ魔人じゃないか」
 目の前に迫ってくる魔人に、最期の許しを乞う夢鏡魔人だった。しかし蘭子との契約に
従う魔人には、何を言っても無駄である。
「ぎゃあ!」
 退魔剣に封じ込まれし魔人が夢鏡魔人に襲い掛かった。
 断末魔の悲鳴を上げて消え去ってゆく夢鏡魔人。
 蘭子との共闘により退魔剣が勝利した瞬間であった。
 宙に浮いていた無数の鏡が、次々と落下しはじめ地上で粉々に砕かれてゆく。そして封
じ込まれていた魂達が開放されて静かに消えてゆく。
「終わったのね……」
 その表情は、苦しい戦いを無事に乗り切った充実感に満ちていた。
 空に青龍が現れて蘭子を祝福するように吠えた。
「ありがとう、青龍。そしておまえもな」
 退魔剣に目を移すと、応えるようにひとしきり輝いた。
 やがて大地が崩れ出した。
 鏡の世界を支持する力が消滅したために、崩壊をはじめたのである。
 退魔剣は虎徹へと戻り、それを高く掲げて叫ぶ蘭子。
「現世へ!」


其の拾玖


 道子の部屋。
 ベッドに寄りかかるようにしていた蘭子の意識が戻った。
「大丈夫か、蘭子?」
「はい。大丈夫です」
 答える蘭子の懐からは、御守懐剣の虎徹が覗いていた。
「そうか……。虎徹を呼び寄せたのか」
「苦しい戦いでした。呪法や式神だけではとても……」
「そうかも知れないな」
 二人ともが揃って道子の方に視線を向けた。
 夢鏡魔人は倒した。残る問題は道子の容体だけである。
「道子は?」
「大丈夫だ。かなり弱ってはいるが、護法をかけておけば、二三日ですっかり良くなるだ
ろう」
「ありがとう。おばあちゃん」
「なあに、友達を助けようと一所懸命に勉強し、命を掛けて頑張ったんだ。そんな孫娘の
ためなら、いくらでも力を貸すさ。さてと……、後片付けをするとしようか」
「はい」
 手分けをして、部屋の周囲に置いた燭台や魔鏡などの道具を丁寧にしまい込み、ついで
に道子(魔人)が散乱させた部屋もきれいに片付けてゆく。倒れたタンスは式神を使役し
て元に戻した。

 やがて、道子の両親と刑事二人の待つ居間へと降りてくる二人。
「宮司!」
 その姿を見て、両親が立ち上がる。
「大丈夫です。娘さんは助かりました。取り付いていた魔物は退治しましたから」
「本当ですか?」
「無論です。しばらく安静にしていれば、元気になりますよ」
「あ、ありがとうございます。様子を見に行ってもよろしいですか?」
「もちろんですとも」
 喜々として階段を上がって道子の部屋へと向かう母親。
 その姿を見送りながら、父親が晴代に礼を述べる。
「本当にありがとうございました」
「いやいや、礼なら孫娘に言ってやってやってください。魔物を退治したのはこの孫です
から」
「蘭子ちゃん、ありがとう。道子が聞いたらどんなにか喜ぶでしょう」
「とんでもない。当然のことをしたまでですよ」
 両手を横に振って礼を言うまでもないことを表現している蘭子。
 とにかく円満解決した喜びに溢れている一同であった。
「さてと……」
 晴代が井上課長に向き直る。
「刑事さん達は、これからどうなさるおつもりじゃ」
 夜道で道子に絡んで惨殺された事件が残っていた。
 証言を裏付けるための事情聴取が必要ということで、この家を訪問したのであるから、
何もしないで帰るわけにもいかないのだが……。
「ともかく今夜は、このまま引き上げましょう」
 しばらく安静という判断なら、枕元での聴取もかなわないだろう。

 道子の家を出てくる刑事二人。
「どうしますか? 報告書」
「どうしますかと言われてもな……。男に絡まれていた、か弱い少女が、自分の力で図太
い二の腕を捻じ曲げ、その首根っこから頭をもぎ取って、十数メートル先に放り投げた。
と、証言通りに書くのかね?」
「上層部は信じないでしょうね」
「まあ、暗がりのことでもあるし、目撃者の見間違いということで落ちだな。犯人は通り
すがりの怪力男ということにしておこう」
「それが無難ですかね……。なんか、今回も迷宮入りになりそうです」
「運がないと、あきらめようじゃないか。さて、もう一度、殺害現場に行ってみるか」
「はあ……」
 刑事達が立ち去った後に、蘭子と晴代も出てきた。
 大きな背伸びをする蘭子。
「あ~あ。気分がいいわ」
「眠くはないのか?」
「どうかな、ついさっきまでは、気が張り詰めていたから。横になって目を閉じたら、そ
のまま朝までバタン・キューかもね」
「丁度明日は日曜日だ。昼まで寝ていると良い。晴男には儂から言っておく」
「ありがとう。でも大丈夫よ。若いんだから」
「あてつけかね、それは」
「あはは……」
 仲良く並んで談笑しながら、夜の帳の中へと消えてゆく二人だった。

夢鏡の虚像 了

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11
妖奇退魔夜行/第三章 夢鏡の虚像 前編
2020.11.23

陰陽退魔士・逢坂蘭子/第三章 夢鏡の虚像 前編


其の壱

 大阪府立阿倍野女子高等学校。
 折りしも月に一度の清掃日。毎日定例の自分達の教室清掃以外に行われる、言わ
ば大掃除ともいうべきものである。体育館や講堂から、校庭の草むしり、通学路の
ゴミ&落ち葉拾いなど、全校生徒で一斉に行うのである。
 本校舎の西側に併設された講堂から物語りははじまる。
 講堂では、一年三組の生徒達が清掃の真っ最中だった。
 蘭子達仲良しグループは床の雑巾掛けを割り当てられていた。
「恵子のパンツ、丸見えだよん」
「もう……。こんな短いスカートだよ。しかたがないよ」
「何で今時、雑巾掛けなのよ」
「そうそう、せめてモップにしてよね」
「他の学校じゃ、業者と契約して教室からトイレ掃除まで、全部やってくれている
所もあるよ」
「それって私立でしょ。大阪府の予算に縛られている公立じゃ無理な話よね」
 その時、監督指導教諭が、手をパンパンと叩いて注意した。
「はい、そこ! 無駄口してないで、しっかりやりなさい。あと一往復で終わりで
すよ」
「はーい!」
 生徒達全員が一斉に答える。
 返事だけは良かった。
「どうせ、ここを終えても他の場所を手伝わされるんだから……」
 最後の気力を振り絞って、残り一往復を終えた。
「はい、ご苦労様でした。後は、終わっていないところを手伝ってあげなさい」
 やっぱりね……。
 という表情で、各自講堂内に散らばっていく。
 蘭子は、舞台の袖にある部屋の扉から中へと入ってゆく。
 口をタオルで覆った生徒が三人、はたきを掛けていた。もうもうと埃が舞い上が
るので、すべての扉や窓は全開で、扇風機を回して埃を吹き飛ばしている。
「手伝いにきたわよ」
「サンキュー!」
「何しようか?」
「とにかくハタキ掛けよ。そこにあるから」
 壇上に上がる階段に置いてあったハタキとタオルを取って掃除をはじめる蘭子。
「それにしても、こんなに埃がたまっちゃってさ。長期間使わないのなら倉庫の方
にしまえばいいのに」
「そうだよね。そうすれば、ここも広く使えていいのに……」
 それからしばらくは黙々とハタキ掛けを続ける一同だった。
 生徒の一人が、カバーで覆われたものを、物陰になる位置で発見した。
「何かしら、これ……?」
 彼女の名前は近藤道子。
 隠されたものを見つけると追求したくなるのが人間の性である。道子はカバーを
取って中身を確認した。
 それは鏡だった。
 鏡台に収められ、材質は錫のようで片面がきれいに磨き上げられ、その裏面には
見事な彫刻が施されていた。
「手鏡よね。これ」
 金属製の鏡など見たことがないのだろう。手にとって物珍しそうに眺めている。


其の弐


 鏡に映った像を自分自身と認識できる能力を【鏡映認知】と呼ぶ。その能力のな
い鳥などが、自動車のバックミラーなどに映った自分の姿に対して攻撃をする様子
はよく見られる現象である。
 鏡に自分が映るという現象は、古来から神秘的にとらえられ、こちら側の世界と
あちら側にあるもう一つの世界とを隔てる【物】と考えられて、祭祀や王墓の副葬
品などの道具として用いられるようになった。考古学調査で出土される平縁神獣鏡
や三角縁神獣鏡などがその例である。「三種の神器」の一つである八咫鏡やたのかがみ
最も有名である。
 もし鏡の中の自分が、こちらの自分自身とは違う表情や動きを見せたら?
 例えば、こちらはすましているのに、向こうでは笑っていたら?

「ひっ!」
 突然、道子が悲鳴を上げ、鏡を放り出して恐怖に慄いた。
「どうしたの?」
 周りの生徒達が振り向いて声を掛けた。
「鏡が笑ったのよ」
「鏡が笑うわけないじゃん」
「違うよ。鏡の中の自分が勝手に笑ったのよ」
「それは、あなたが笑っていたからでしょう?」
「笑っていない!」
 生徒達が言い争うようにしているのを聞き流して、投げ出された手鏡に歩み寄る
蘭子。それを拾い上げようとしたが、異様な気配を感じて、一旦躊躇してしまう。
「呪われているわ……」
 他の生徒達、特に道子に聞こえないように呟いている。
 妖魔か悪霊かはまだ判らないが、何ものかが取り憑いていて【呪いの鏡】となっ
ているらしかった。
 笑っていないのに、鏡の中の自分が笑ったというのは、その取り憑いているもの
が見せた幻影であろう。
 封印してしまうに限るが、道子が鏡に触れて【人にあらざる者】と接して取り憑
かれてしまった可能性がある。中のモノが出てしまって空になったものを封印して
も意味がない。妖魔なり悪霊を退治してしまうか、それができないのならば、元の
鏡の中に引き戻して封印し直すしかない。
「この鏡は、私が預かって調べてみるわ。もっとも学校の許可を得なければいけな
いけどね」
 蘭子の家系が、代々陰陽師であることは生徒達に知られている。蘭子自身も母の
実家であり、祖母の土御門晴代が当主となっている摂津土御門家(陰陽師一門)の
跡取りに指名されている。そんな事情から反対するものはいなかった。

 清掃が終わって、指導教諭に説明をすると、
「自分では決断できなから、校長先生に許可をもらってね」
 ということで、許可をもらいに校長室へと向かった。
 ドアをノックして、応答があるのを確認して中に入る。
「何か用かね?」
 蘭子の姿を見て、訝しげに尋ねる校長。
 呼びもしない生徒が校長室を訪れることはめったにない。文化祭などの行事に伴
う予算折衝で生徒会役員が来る程度である。


其の参


「実は、この鏡のことなんですが……」
 鏡を覆っているカバーを外して単刀直入に切り出す蘭子。
 すると校長の表情が見る間に変わっていく。
「そ、それをどこから持ってきた?」
 口調も怯えた様子で、いつもの張りのある声とはほど遠い。
「講堂の舞台袖です。清掃中に生徒が見つけました。呪われていると思いますので、
持ち帰って除霊なり封印したいと思います」
「呪われているのが判るのか?」
「はい。間違いありません。この鏡には呪われて亡くなられた人たちの霊が閉じ込
められて苦しんでいます。放っておいては、さらなる犠牲者が出るかもしれません」
「そこまで判るのか? さすが陰陽道の安部清明の末裔だな。古くは遣唐使となっ
た阿部仲麻呂の子孫らしいな」
「いいえ、清明の先祖説にはいくつかあって、【竹取物語】にも登場する右大臣阿
部御主人{あべのみうし}が直系ということになっています。やがて安部氏となり、
摂津国に入った一族が摂津土御門家を名乗ることととなりました」
「まあ、どっちにしても阿部氏の一族というわけだ。ともかく、その鏡のことは君
の思うとおりにしなさい」
「ありがとうございます。ご存知であれば、これまでの犠牲者の方々のことなどを
お話して頂ければありがたいのですが……」
「いいだろう。知っている限りのことを話してやろう」
「お願いします」
 口調を改めて話し出す校長だった。
「まず、その鏡がどうしてここにあること自体が不明なのだ。何せ学校創立が戦前
の大正十一年だからな。私の知っている最初の犠牲者と思われる事件は、創立五十
周年記念として行われた文化祭において講堂での演劇部の芝居の時に起きた。当時、
源氏物語を現代風にアレンジして上演していたのだが、待ち人来たらずで鏡を見て
ため息をつくシーンでヒロインが急に倒れたのだ。急ぎ代役を立てて上演は続行さ
れ、その生徒を救急車で病院へ運んだ。しかし、治療の甲斐なく原因不明の病気で
死亡した」
「原因不明の病死ですか?」
「その通りだ。その次の犠牲者も演劇部員で、幼稚園の交流公演として白雪姫を演
じていた時だった。継母役の生徒が鏡に向かって問いかける場面になったが、その
時は何事もおこらなかった。終幕間際の鏡に向かう場面で、「白雪姫が一番美し
い」と鏡が答える場面の直後に、突然倒れたのだ。そして「鏡がしゃべった」と言
い残して亡くなった」
「鏡自身がしゃべったのですか?」
「ああ、鏡役のナレーションではなく、鏡が直接しゃべったというのだ」
「やはり鏡には、魔物かなんかが住み着いているようですね」
「私もそう思うよ。その後も鏡にまつわる事件が起こった。鏡を手放すなり処分し
ようかという話もあったが、不幸となる物を他人に押し付けるのは如何なものかと、
校庭の片隅に埋めたのだが、とある地震の時に土地が陥没して鏡が出てきてしまっ
た。再度埋め戻しても大雨でまたしても……。その後もいろんな所に隠したりもし
たのだが、結局今日のように見つけ出されてしまう。やはり魔物が住み着いていて、
この学校の生徒を死に至らしめるために、現れているとしか思えない」


其の肆


「そうでしたか……。犠牲者の方々は、すべて鏡と対面した直後に亡くなられたのです
か?」
「いや、数ヶ月生きていた例もあるよ。しかし、まるで認知症のようになってしまったり、
ヒステリーを起こして自殺したり、何日間も高熱で苦しんだりいろいろあるが、結局最後
には死んでしまったよ。私が知っている事と言えばこんなところだ。とにかくかなり古く
からこの学校にあったみたいだが、生徒はもちろんだが教諭たちも人事異動や退職で、ど
んどん入れ替わって事件があってもいずれ忘れさられてゆく。そんな時にポッカリと現れ
て事件を起こしている感があるな」
「良く判りました。お伺いした内容は参考にして対応策を検討してみます。では、鏡は大
切にお預かりします」
「うむ。よろしく頼むよ」
「それでは失礼します」
 深々とお辞儀をして校長室を退室する蘭子。
 とにかく大急ぎで取り掛からなければならなかった。
 道子が鏡と対面し、【人間にあらざる者】に取り憑かれた可能性が高かった。そしてい
ずれは死に至り、鏡の中に取り込まれてしまう。
 クラスメートをそんなことにはさせたくなった。
 似たような事例が他にないか、対処法はあるのか調べねばなるまい。
 となれば、土御門屋敷の祖母にあって相談するしかないだろう。

 土御門屋敷は学校からほど遠くない所にある。
 表門玄関は、立派な神社の境内をかなりの距離を通り抜けていかねばならぬので、近道
である裏門から出入りするのが日常である。
「お邪魔しまーす」
 勝手知ったる祖母の家。遠慮はいらぬ。
 まずは挨拶をするために祖母の部屋に伺うことにする。
 礼儀にうるさい祖母なので、障子の前に正座して声を掛ける。
「蘭子です」
「入ってよいぞ」
「失礼します」
 許可を得て、両手を添えて片側の障子を静かに開ける。
 中に入ったら、同じような動作で障子を閉めるのだ。
 祖母は、目ざとく蘭子の持参した鏡を見て言った。
「ただならぬ物を持ってきたようだな」
「はい。今日はこの鏡のことでご相談に伺いました」
 鏡のカバーを外して、祖母の前に差し出す蘭子。
「どうやら魔鏡のようだな。しかも妖魔が封じられていたようだ。今は解放されて自由に
出入りができるようだ。鏡面に光を当てて反射光を、そこの白壁に映してみよ」
 障子を開けて日光を取り入れ指示通りに行うと、白壁に文様がくっきりと映し出された。
 魔鏡は、日光などの平行線的な光を反射させると、表面にはないはずの像が投影される
銅鏡である。鏡面には目には見えないほどの微細な凹凸があり、これが光を乱反射させて
文様を浮かび上がらせるのである。
 鏡面を磨く時、一定以上の薄さまで鏡を研磨すると、手の圧力によって鏡面がしなり、
版画のように裏面の文様が表面に凹凸を生じさせるのである。
「奇門遁甲八陣図か……。これは本来、退魔鏡として魔を封じるために製作されたのだろ
うが、長い年月の間に鏡の面に微妙な傷や歪みを生じ、魔を封じる力が減少して魔が解放
されたのであろう。この妖魔は鏡を媒体として、鏡の中の世界と現実の世界とを行き来し
ているようだ」


其の伍


「鏡の世界ですか?」
「そうだ。本来なら鏡のある所ならどこにでも出没できる能力があるのだが、奇門遁甲八
陣図の効力がまだ残っていて、この鏡を通してのみしか動けないようだ」
「退治する方法はありますか?」
「こやつは、こちらの世界にいる時は人の夢に巣食っている。要するにこちらの世界にい
る人間にとっては、実体のない虚像の魔人なのだ。実体であるおまえが虚像を倒すことは
絶対に不可能だ」
「夢と鏡の中の魔人……」
「じゃが、策がないでもない」
「どうするのですか?」
「まず奴が人の夢に入り込んでいる時に、おまえ自身も自分の精神つまり魂をその人の夢
の中に送り込むのだ。すると奴は、おまえの魂を自分の世界である鏡の中へ引きずり込も
うとするだろう。それが奴の本性なのだからな。して、ここからが本番だ。鏡の中は奴の
世界だから、魂を完全に閉じ込めてしまうこともできる。それはつまり、現実の世界のお
まえの死ということを意味するわけだ」
「身体と魂を引き離されたら、死を意味しますね」
「だが、それを防ぐ手立てが一つだけある。着いて来なさい」
 祖母は立ち上がって、蘭子を案内して先に歩き出した。
 障子が勝手に開いた。
 目には見えないが、式神を使役して開けさせているのである。呪法の力を衰えさせない
ために、日常的に訓練として行っているらしい。並みの陰陽師なら、式神を呼び出すのに
呪符を使い呪文を唱える。しかし祖母のような熟達者ともなると、心の中で念ずるだけで、
式神を呼び出せるのである。
 二人が向かっている先は書物庫であった。
 神社が建立されて以来の重要な書物が所蔵されている。陰陽道五行思想、天文学、易学、
時計などの学問を記述した陰陽道関連の書物が数多い。特に呪法、呪符、呪文について書
かれた文献は、門外不出となっている。書物庫の周囲には、奇門遁甲八陣の結界が張り巡
らされ、【人にあらざる者】から貴重な書物が奪われるのを防いでいる。さらに周囲には
一般人が侵入しないように、立ち入り禁止の柵も巡らされており、その柵板にも魔除けの
鎮宅七十二霊符の呪符が描かれている。
 ほぼ完璧な霊的防御陣が敷かれていた。

 書物庫に近づくに連れて、二人の歩き方に変化が現れた。
 地面を踏みしめ呪文を唱えながら千鳥足風にして歩く。魔を祓い大地の霊を鎮める呪法
の一つで、【兎歩】と呼ばれる。
 書物庫の扉の前にたどり着いた。遁甲式盤という方位魔術の図柄が彫りこまれた錠前が
掛けられていた。書物庫全体に掛けられた結界陣と違って、錠前にのみに呪法が掛けられ
ていて、鍵穴が見当たらなかった。呪法によって巧妙に隠されているのである。
 祖母が、顎をしゃくり上げるようにして、
「おまえ、やってみろ」
 と、言っているようであった。
 錠前に向かい、細心の注意を払いながら開門の呪文を唱える蘭子。
 やがて錠前が輝いたかと思うと、鍵穴が現れた。
 祖母から鍵を受け取って鍵穴に差し込むと、ピキンという音と共に錠前が開いた。
 ほっと安堵のため息をついて、胸をなで下ろす蘭子。
「……まあまあだな」
 時間が掛かりすぎていた。
 祖母なら一瞬にして開けてしまうところである。


其の陸


 錠前を外して扉を開けて中に入り、戸口脇の棚から燭台を取ってローソクに赤燐マッチ
で点火して明かりを確保、今度は中から閂をかける。
 なお、ここから先は呪法の使用は厳禁である。呪法の影響で書物の内容が書き換わって
しまう可能性があるからだ。
 先に立って書物庫の中を進む祖母と、後に従う蘭子。
 総檜でできた書棚の前で立ち止まる祖母。燭台を棚の上に置いて、手を合わせ祈ってか
ら、漆塗りの玉手箱のようなものを取り出した。そしてそばの所見台の上に置いた。
 飾り紐を解いて蓋を開けると、二枚の銅鏡と和綴じの本が入っていた。
 蘭子がそばに寄ってのぞき込んでいる。
 和本の表紙には達筆な墨文字で【夢鏡封魔法】と書かれている。
「これに、夢鏡の魔人を封じる方法が書かれているのですか?」
「もちろんじゃ」
「どうしてこんな本がここにあるのでしょうか?」
「阿呆なこと言ってんじゃないよ。あの魔鏡に魔人を最初に封じたのがこの本の筆者、つ
まり我がご先祖様だ。あの魔人を封じた後に魔鏡を地中深く埋め、それが何かのきっかけ
で掘り出され魔人が復活した時のために、封魔法を記した本と使用した封魔鏡を、後世の
子孫のために残したのじゃ」
「あ、なるほどね」
「おまえは時々魔の抜けたことを言う。気をつけないと戦いの時に命を落とすことになる
ぞ」
「はい。肝に銘じて」
「とにかくじゃ、この二枚の封魔鏡は持ち出しても良いが、書物の方は厳禁じゃからな。
ここで読んで頭の中に叩き込んでおくことじゃ。よいな」
「はい。わかりました」
「それじゃ。儂は戻るが、ここを出るときまたちゃんと閉めておけよ」
 と言い残して、扉の方へとスタスタと歩き出した。
 蘭子は先回りして閂を外して祖母を送り出し、再び閂を掛けると元の所見台の所に戻っ
た。
「夢鏡封魔法か……」
 表紙に書かれた達筆な文字から、想像を絶するような内容が記されている感じが、ひし
ひしと伝わってくるようだ。
 息を呑み、静かに最初のページをめくる。
 毛筆で書かれた達筆な草書文字が飛び込んでくる。いわゆる平安貴族の間でもてはやさ
れた枕草子や伊勢物語・土佐日記などに記述されている、漢字かな混じりの文体で書かれ
ている。
 今時の女子高生にはとても読めないものであるが、幼少の頃から祖母に般若心経を写経
させられ、陰陽道に関する古典書物を読誦させられた蘭子には、読むには造作もないこと
だった。
 さて封魔法に書かれている内容を現代文に直してお知らせしよう。

 ■夢鏡封魔法

 建久六年十二月、第八十三代土御門天皇即位し頃。(注・西暦1196年1月)
 摂津国阿倍野というところで、奇妙なる病が流行っていた。
 若い女性が、ある日突然として狂ったように踊り続け、翌日に死んだ。
 その翌日、別の女性が昼間に痴呆となって村中を徘徊し、翌日に死亡した。
 次には、やはり女性が昼間に素っ裸になって男達を誘惑し、やはり翌日には死んだが、
その股間は精液まみれだった。
 時として包丁を振りかざして村民を次々と刺し続けて殺人鬼となり、最期には自分の首
筋を掻き切って自害して果てた女性もいた。
 すべてに共通していることは被害者は若い女性ばかりで、奇行の果てに死亡してしまう
ことで、偶然なのか自宅の鏡がことごとく割られていた。同時には決して発症しないこと
もわかり、何か【人にあらざる者】が若い女性に次々と取り憑いては奇行を働かせて、死
に至らしめているのではないかとの噂が広まった。
 そして女性が必ず持っている鏡が、その媒体となっているらしいとのことで、女性には
鏡を持たせるなということになった。


其の漆


 しかし、女性達の奇行死は治まらなかった。
 日常的に女性達は、炊事・洗濯・掃除と水に関わる家事に携わっている。飲料水を蓄え
ている水がめ、洗濯のためにタライに張った水、掃除のために桶に汲んだ水。その水面が
鏡面となって【人にあらざる者】を呼び出している事がわかった。
 水はありとあらゆる場所に存在する。川の水面、防火用水、雨後の水溜りなど。
 がために、【人にあらざる者】の動きを封じることは不可能だった。
 人々は、絶大なる人気を誇っていた陰陽師に救いを求めてきた。そして、我が安部氏土
御門家の門を叩いたのである。

 ■相手を知るべし。

 敵を倒すには、まず相手のことを良く知らねばならない。
 これまでに判っていることを列挙すると。
 一、若い女性に憑依して奇行死させること。
 二、鏡および鏡様になった水面などを媒介とすること。
 三、発症するのは、眠っている時に起きるらしいこと。
 四、誰もその姿を見たことがなく、おそらく人の心の中(夢?)と鏡の中とを移動する
ものである。これをもって今後は夢鏡魔人と称することにする。

 ■退治方法について

 これまでに述べてきたように、夢の世界と鏡の世界とを往来する虚像の魔人であること
が判った。ゆえに実体である我々が虚像を倒すことは絶対に不可能である。
 では、どうすれば良いか。
 答えは一つ。
 魔人を鏡の中に閉じ込めて出られないように封印することである。
 しかし、鏡は無限に存在し、すべての鏡の封印は不可能。
 そこで、魔を封じることのできる退魔鏡を用意し、これに夢鏡魔人を追い込んで封印し
てしまうのである。
 魔人が鏡の世界から抜け出して、特定の女性の夢の中に憑依している時こそが、封印す
ることのできる機会である。その女性の中に一旦封印し、かつ女性が死なないように眠ら
せておく。死んでしまえば夢は消失し、魔人が解放されてしまうからである。
 特定の女性の夢の中に閉じ込めたなら、夢の中に入り込むことのできる式神を使って魔
人と戦わせるのだ。倒すことは不可能だろうが苦しめることはできるはずである。ここで
奇門遁甲八陣の呪法を張り巡らせ、死門だけを開けておいて、そこに退魔鏡を置いておく。
ここで女性の封印を解いてやると、苦し紛れに奇門遁甲の開いた門から退魔鏡の中へと逃
げ込むはずである。だが飛んで火にいる夏の虫。魔人はその魔鏡からは二度と抜け出せな
くなるというわけである。
 早速、退魔鏡を作ることのできる鏡師を探すことにした。しかし奇門遁甲八陣図という
微細彫刻を施せる鏡師が見つからない。
 仕方なく、全国行脚しながら鏡師を探し出す旅を続け、志摩国の大王村波切というとこ
ろで鏡師を見い出し、ついに退魔鏡を手に入れたのである。
 急ぎ摂津国へと引き返して阿倍野に舞い戻った。
 かねてよりの計画通りに女性の夢の中に潜んでいた夢鏡魔人を退魔鏡の中に封印するこ
とに成功した。そして地中深くに退魔鏡を埋めることにしたのである。

 しかしながら、万が一退魔鏡が掘り出されてしまうこともあり得る。そのために、後世
の子孫のために、この書物を残しておこう。

 建保三年一月六日記(西暦1215年2月6日)
    土御門晴康


其の捌


 ここで思わずため息をつく蘭子であった。
 陰陽師の家系である彼女だから納得できる内容ではあるが、一般人が読めばとても信じ
られないことであろう。まさに怪奇的な内容が記されていた。
 しかし疑念が一つ残った。
 この封魔法を使用すれば、夢鏡魔人を再び鏡の中へ封印することができるかも知れない
が、全く同じ手が通用するかというと、魔人も馬鹿ではあるまい。必ず対抗手段を打って
くるであろう。
 悩んでいると、
「あ、続きがあるじゃない」
 書物には、まだページが残っていた。
「また、お婆ちゃんに叱られるところね。『おまえは間が抜けているぞ』はい、はい。気
をつけます」
 先を読み続けることにする。
 ページをめくると、まず附録と書かれてある。さらにページをめくる。
「夢鏡魔人退滅法」
 という文字が飛び込んでくる。
「退滅法か……」
 おそらくここから先に、同梱の二枚の鏡を使って魔人を退治する方法が記されているの
であろう。文字の字体がそれまでと全く異なっているところを見ると、封魔法を読んだ後
世の子孫が退滅法を編み出して、その内容を書き記し附録として付け足したのだろう。
 再びその内容を現代文に直してみよう。

 ■夢鏡魔人退滅法■

 序の文。
 ご先祖様の書き残した【夢鏡魔人封魔法】を拝読し、なるほど素晴らしい呪法を完成し
てくれたと感謝した。
 実際にも我が世代においても、鏡を媒体とする虚空の世界に住む夢鏡魔人ほどでないに
しても、亜流の夢魔人ともいうべき妖魔が徘徊し、人々を大いに苦しめているのだ。この
妖魔は鏡を媒体としない実体のある魔人で、人の夢の中に入り込んで悪夢を見せ、苦しむ
際に生じる負の精神波を活力源としているらしい。人を殺しはしないが、ほとんど廃人と
なってしまう。そして次なる獲物を見つけて乗り移るその際に、一時的に実体化する。そ
の時が、退治する絶好の機会であるが、いつ乗り移るかが判断できない。それよりもまず、
魔人に取り憑かれて悪夢を見られているのか、ただ単に自身の過去の古傷を思い出し悪夢
として苦しんでいるのか、識別することが困難だ。
 仮に取り憑かれている人を見つけて魔人をその身体に一時的に封印できたとしても、相
手は夢の中の虚像と化している。ご先祖様も述べておられるように虚像は絶対に倒せない。
 そこで何か策はないかと書物をあさり、ついに封魔法が書かれたこの書物を見い出した。
これを参考にすれば、夢魔人を退治することはできなくても、鏡やこれに替わる何物かに
封印することができるだろう。
 即座に実行に移すことにしたのだが、夢魔人は送り込んだ式神によって、あっさりと倒
されてしまったのである。意外な出来事を推察するにあたり、夢鏡魔人は鏡の中の世界に
生きているのに対し、夢魔人はこちらの世界に生きているという違いのせいかも知れない。
(注・これは相対性理論や量子理論の質量とエネルギー変換を考えると判りやすい。夢鏡
魔人が完全なる虚像であるのに対し、夢魔人は実体があって夢の中に入る際に、その質量
をエネルギー化しているのである。ゆえにそのエネルギーをゼロにしてしまえば、実体も
存在しえなくなって消滅してしまうのである)


其の玖


 こちらの夢魔人は、式神を使って退治することはできた。もう一歩進めて、鏡の中の世
界の夢鏡魔人をも式神を使って倒せないものか。
 ご先祖様によれば、式神を使っても夢の中にいる魔人は倒せないらしい。となれば鏡の
中へ直接式神を送り込んだらどうだろうか。
 早速、方策を練り始めることにする。現時点では鏡の中へ式神を送り込むことは不可能
だった。何か特殊な道具立てを考案しなければならない。
 まず思いついたのが、合わせ鏡である。二枚の鏡を相向かわせて、その中心に式神を呼
び出すための人形を置いてやる。すると双方の鏡の中には、人形と反対側の鏡の像が無限
に連続して映り込まれる。この状態で鏡の中に映る人形に働きかけて、式神を出現させる
ことができれば成功である。と、簡単に言ってしまったが、鏡の中にまで通ずる呪法がな
い。我々が会得しているすべての呪法は、この世界の中においてのみ通用するものだった。
虚空の世界である鏡の中にまでは届かない。
 鏡を四面や六面にもしたりして、試行錯誤の日々が続くが、一向に鏡の中の人形は答え
てはくれない。
 二十年の月日が過ぎ去っていた。
 未だに打開策は見い出せない。
 ほとんど諦めの心境に陥ったとき、突然閃くものがあった。
 人の夢の中には、式神を送り込ませることが可能であることは判っている。
 そうだ!
 夢の中も虚空の世界なのである。虚空の世界同士ならば、たとえ異質であっても移動が
可能なのではないか?
 それは夢鏡魔人の行動を考えれば納得する。奴は夢と鏡の世界とを行き来していたでは
ないか。
 まず式神を夢の中へ送り込み、そして鏡の中の世界へと転送するのだ。
 理論がまとまれば方策を考える。
 さらに二十年をかけて、【夢の魔鏡】と【鏡の魔鏡】という二つの魔鏡を完成させた。
この二枚の鏡を相対面させ、その中央に式神を呼び出す人形を置いて準備は完了である。
そして夢の世界と鏡の世界とを行き来する呪法も完成させた。
 しかし問題がある。これには夢を見てくれる実験体が必要だった。幸いにも実弟である
一番弟子が名乗りを挙げてくれた。彼には大いに感謝し、成功すれば土御門家の名跡を与
えると約束した。
 彼には早速眠ってもらって、人体実験がはじまった。
 そしてついに、式神を鏡の中へと送り込むことに成功したのである。さらにもう一体を
送り込んで戦わせることも行ったがこれもうまくいって、こちらの世界から鏡の世界の式
神を自由に使役することができるようになったのである。
 これでやっと夢鏡魔人を倒す方策が完成し、万が一復活することがあっても、この書物
を読んだ後世の子孫によって倒されるだろう。
 一番弟子との約束通りに、彼に土御門家の名跡を譲り、私は引退することにした。
 それからの隠居生活は悠々自適のはずだった。
 しかし、何か物足りない。大切なものをどこかに置き忘れているような気分がどうして
も拭えない。悶々とした日々が続いたある日、当然思い浮かんだのである。
 夢鏡魔人をこの手で倒せないものかと……。
 すなわち自分自身の魂を鏡の世界へ送り込んで、直接に魔人を倒したいものだと。
 思いは月日が経つに連れて大きくなってゆく。
 どうせこの身は老いさらばえて余命幾ばくもなし。たとえ失敗してもなんぼのものか、
後悔はしない。
 居ても立ってもいられなくなった私は、一番弟子に頼み込んで協力してもらうことにし
た。もちろん名跡を継いだ彼に人体実験を行うことはできない。彼の弟子の一人が手を挙
げてくれた。私にとっては孫弟子ということになる。
 そして、彼と孫弟子との協力を得て、自分自身の魂を鏡の中へ送り込むことに成功した
のである。
 ここに至り、夢鏡魔人退滅法の完成を見たのである。
 果たせるかな残念なことに、夢鏡魔人はすでに【夢鏡魔人封魔法】によって魔鏡に封印
されたままなので、この方策を試す機会がない。
 せめて後世の子孫のために【夢鏡魔人退滅法】を書き記しておくことにする。
     応仁元年正月二日記(西暦1467年2月6日)
          土御門晴樹


其の拾


 数時間後、祖母である土御門家晴代の居室。
 書物庫から持ち出した二枚と合わせて三枚の魔鏡を挟んで、蘭子と晴代が対面している。
「扉はしっかりと閉めて呪法は掛けてきたか?」
「はい」
「それで【夢魔人封魔法】はしっかり読んで、頭の中に叩き込んだか?」
「退滅法をも合わせてしっかりと……」
「なら、良い」
 しばし沈黙が流れた。
 庭先から虫の鳴き声が寂しく聞こえてくる。
 その泣き声に聞き入るように、庭先の方に目を向けながら、晴代が静かに尋ねる。
「これからどうするつもりだ」
「もちろん夢鏡魔人を倒します。この手で……」
「その手で倒すとな? すると退滅法の最期の手段を使うのか?」
「はい!」
「いつ?」
「今夜です」
 驚いて目を見張る晴代。
 今さっき退滅法を覚えたばかりで、いきなり実践しようというのだから無理もない。
「早急過ぎはしまいか? まだ、練習もしていないというのに」
「魔人は待ってはくれません。今夜か明日にも、友達は殺されるかもしれないのです」
「そうかもしれないが……」
 前のめりになり、手を突いて懇願する蘭子。
「お願いします。許可してください」
 目を閉じ腕を組んで考え込む晴代。
「呪法に失敗したら、その娘の命はむろん、おまえの命もないのだぞ」
「覚悟の上です!」
「そこまで言うのなら許可しよう」
「ありがとうございます」
「ただし! その呪法、儂が掛ける」
「おばあちゃんが?」
「馬鹿におしでない! これでも土御門家の総帥だぞ」
 声を荒げて怒る晴代。
「失礼しました」
 素直に謝る蘭子。
 やがて静かな口調に戻って、晴代が話し出す。
「いいか、蘭子。この呪法は失敗が許されない。その娘とおまえの命が掛かっているのだ
からな。未熟なおまえでは力不足だ。だから呪法は儂がやる。おまえを鏡の中の世界へ送
り込んでやる。そして魔人と力の限り戦え。たとえ敗れてお前の命を失っても、その娘の
命だけは守り通してやる。いいな、蘭子」
「はい、判りました」
「よし、いい返事だ」
 さわやかな笑顔になって見詰め合う二人。
 この時、蘭子は気づいていた。
 【夢鏡魔人封魔法】という書物を晴代は知っていた。当然として、実際に呪法を確かめ
るため弟子に協力を頼んで、練習を続けていたに違いない。そして鏡の中へ自分自身や弟
子達を送り込むことに成功していたのだろう。だからこその今の言葉なのである。
「そうと決まったら、早速その娘の家へ向かうぞ」
「はい!」
 蘭子は魔鏡を包み始めた。
「これを使え」
 晴代が棚から取り出してきたのは、長方形の薄い桐の箱で、蓋を開けると仕切り板が付
いていた。魔鏡同士ががぶつかり合って割れるという危険性を、仕切り板が防いでくれる
というわけである。魔鏡を慎重に包んで桐箱に納めて、さらに動かないように新聞紙で詰
め物をして蓋をし、風呂敷で丁寧に包んで、小脇に抱えて立ち上がる蘭子。皿や鏡のよう
な割れやすいものは、包んだ上で上下に重ねるのではなく、横に連ねるように梱包運搬す
るのが原則だ。
「虎徹はここに置いておくのだ。魔の精神波が漏れて呪法に支障をきたすかも知れぬ」
「判りました」
 蘭子は懐から御守懐剣を取り出して、棚の引き出しにしまった。
「よし! 行くぞ、案内しろ」
「判りました」
 二人連れ立って、近藤道子の向かうのだった。
 すでに日は暮れて辻を吹き抜ける風は冷たかった。

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妖奇退魔夜行/第二章 夢幻の心臓
2020.11.22

陰陽退魔士・逢坂蘭子/第二章 夢幻の心臓


其の壱


 とある街角。
 どこからともなく線香の匂いが漂っている。
 喪服を着込んだ人々がひっきりなしに行きかっている。
 その列をたどって行くと、葬儀用の飾花の立てかけられた家に着く。
 玄関前には葬儀社の職員とおぼしき人達が、来客を手際よく案内している姿があった。
 家から出てきた来賓が職員に怪訝そうに尋ねている。
「ねえ、どうして棺に入れてあげないのですか?」
 と、困ったような表情を浮かべて、果たして答えていいものだろうかと悩んだ挙句に、
重々しく質問に答える職員。
「いえねえ……。奥様がどうしても承知なさらないのですよ。旦那様と相談して、席を離
れた隙に無理矢理棺に納めたのですが、それを見た奥様は髪振り乱して鬼のような形相に
なって、ご遺体を棺から引きずり出してしまわれたのです。『この娘は死んではいません。
心臓さえ見つかれば生き返るんです。心臓さえ……』ってね」
「そういえば、お嬢さん。心臓が悪くて臓器移植しか方法がなくて、ドナーが現れるのを
ずっと待っていたらしいですわね」
「ええ……。結局、間に合いませんでした」
「可哀想なことしたわね。まだ中学生になったばかりだというのに……」
「はい、運命の女神は時としてひどい仕打ちをするものです」
「それはそうとねえ……」
「なんでしょうか?」
「あのまま遺体を放置しておいたら、腐ってしまうのでは?」
「ご家族が折りに触れて説得なされているようですが、どうしても首を縦に振らないそう
です」
「困りましたねえ。まあ、母親としてはそういう気持ちも判らないではありませんが」
「とりあえずは、冷却剤の入ったベッドパッドの上に、ご遺体を安置して身体を冷やして、
少しでも腐るのを遅らせようとしてはいるのですが……。それも限界がありまして」
「なるほど……」
 ひとしきりの会話を終え、深々とお辞儀をして分かれる二人。
「本当に困ったものだ……」


其の弐


 夕闇に暮れた街角。
 誰かに追われているかのように、度々振り返りながら、道を急ぐ女性。
 その後方から、暗闇に隠れるようにひたひたと迫り寄る怪しい人影。
 女性の視界に灯火の点った交番が見えてくる。
 助かった!
 と思いつつ、交番に駆け込む女性。
「すみませーん! 誰かいませんか」
 大声を張り上げるが、交番内はひっそりとして人気がなかった。
 おそらく巡回に出ているのではないだろうか。
「どうかしましたか?」
 戸口の方から、男性の野太い声。
 振り返ると、制服を着た警察官が立っていた。
「じ、実は誰かに追われているんです」
「追われている? ストーカーですか、心当たりは?」
 言いながら外の方を見回す警察官。
「そんな人はいないはずです」
「そうですか……。ちょっとそこらを見回ってきますから、ここにいて下さい」
「ひ、一人にしないで下さい」
 女性はかなり怯えているようだった。
 すぐに戻りますからと、出てゆく警察官。
 一人になる女性。
 膝を揃え両手を添えるようにして椅子に腰掛けて、震えながら警察官の戻るのを待っている。
 突然、外の方で、
「な、なにをする!」
 大きな声が響いた。
 驚いて外に視線を移す女性。
 コロコロと何かが転がり込んできて、女性の足元で止まった。
 ふと見ると、それはあの警察官の頭だった。
「きゃー!」
 叫び声を上げる女性。
 続いてズルズルと、外の方から何か重いものを引きずるような音。
 やがて現れたのは、喪服を着た女だった。その手には、首のない遺体を襟元掴んでいる。
 なおも鮮血のしたたり落ちるその遺体を手放して女性に近づく喪服の女。
「あなたにお願いがあるの」
「ひっ!」
 足がすくんで身動きできない女性。
「あなたの心臓が欲しいの」
 一歩一歩近づいてくる女性。
「娘が生き返るのに必要なの。だから心臓を頂戴ね」
 だからと言って「はい、どうぞ」と渡せるものではない。
 女が目前に迫っていた。
 握手をするような仕草で、右手を差し出すと、それは女性の胸元でピタリと止まった。
「ごめんね……」
 そう言った途端だった。
 女の右手が、女性の胸元から、その身体の中にめり込んでいく。
 一瞬、女の右手が止まり、今度はゆっくりと引き抜かれていく。
 その右手には、血がしたたりドクドクと生々しく動く心臓が握られていたのである。
 白目を剥いて口から泡を吹く女性。
 やがてドサリと床に崩れ落ちる。
 無表情のまま心臓を手に、夜の闇の中へと消えてゆく女。

 交番に静けさが戻り、頭をもがれた警察官と、心臓のない女性の遺体が転がっていた。


其の参


 逢坂家のいつものような朝食風景。
 TVを見ながら一家団欒の最中であった。
 つと、ニュースに釘付けとなる家族。
『○○町××交差点にある交番にて、首を切断された警察官と、心臓のない女性の遺体が
発見されました』
 心臓のない女性という言葉に注目する家族だった。
「聞いたか?」
「はい」
「昨夜は何も感じなかったのか?」
「いいえ。何も……」
「だとすると、妖魔の仕業ではなさそうだな」
「悪霊の類ではないかと思うのですが」
「うん。あるいはな」
 そもそも生霊や悪霊、あるいは人の魂というものは、元々同じものであって、区別でき
るものではなかった。殺人者と一般人とを、見た目で見極めることが不可能なのと同じで
ある。
 ゆえに、昨夜の事件が悪霊の仕業であるならば、蘭子にさえ気づかせなかったのも道理
である。それでも直接に対面すれば、悪霊かどうかくらいは判別できる。
「しかし、神出鬼没の妖魔と違って、悪霊は限られた地域にしか出没しないから、二度三
度と繰り返されるうちに、おのずと特定できるだろう」
「それだけの犠牲者を出すことになりますけど……」
「仕方あるまい。これだけは、さしもの蘭子とてどうしようもあるまい」
「そうではありますが……」

 大阪府警阿倍野警察署。
 入り口には「阿倍野区変死事件捜査本部」という立て看板が立てられている。
 その捜査会議室の壇上から、府警本部から派遣されてきた井上馨刑事課長が怒鳴ってい
る。
「最初の事件からもう十日だぞ! 犠牲者もすでに五人に上っていると言うのに、未だに
何の手掛かりも見出していないとはどういうことだ!」
 周囲にある刑事達をギロリとにらめ付けながら、
「被害者の検視報告を言ってみろ」
 一人の刑事がすっと立ち上がって、報告書を読み上げる。
「はい。被害者はすべて女性。年齢としては十四歳から十七歳の間。被害者は心臓を抉り
取られるようにして亡くなっています。しかも、身体の皮膚には全く傷一つ付けずにで
す」
 室内にざわめきが沸き起こる。
「それが判らんのだ。皮膚に傷一つ付けずに、どうやって心臓だけを抜き取ることができ
るというのだ」
 現在の常識、科学的に不可能な事件であった。
 仮に殺人犯を捕らえたとしても、起訴に持ち込む困難であろう。
 殺人にいたる動機と証拠・アリバイなどを突き止めても、殺人の方法が科学的に証明不
可能だからである。
 いわゆる不能犯というやつである。


其の肆


 奈良の大仏に縄を掛けて引きずって盗もうとしたり、藁人形に釘を刺して呪い殺そうと
したりするのも不能犯である。仮に実際に大仏が盗まれたり、人が死んだりなど実現した
としても、それを科学的に証明できないために、不起訴となる可能性が高い。
「以前TVで見たのですが、ヨガの診療で患者を素手で手術していました。患者の身体に
術者の手がめり込んでいって、血が流れ中から何かを取り出していました。でも、さっと
身体を拭ったら、傷一つなかったのです」
「馬鹿もん! あれはトリックだ。二つの脱脂綿にフェノールフタレインとアンモニアを
それぞれ含ませておいて、もみ合わせれば化学反応が起きて、赤い血が流れたようになる。
手をこう押し当てて指を少しずつ曲げていけば、赤い液体で皮膚表面が見えないから、め
り込んでいくように見える。そしておもむろに脱脂綿の中に隠しておいた臓物らしきもの
を出して見せているんだよ」
「へえ……。そうだったんですか」
「少しは勉強しろ!」
「それでは科学的に」
 一人の刑事が手を挙げた。
「なんだ、言ってみろ」
 という刑事課長の目は、ろくな話でなかったら許さんぞ、というような気迫がこもって
いた。身じろぎしながらも立ち上がって発言する刑事。
「生体接着剤というものが開発されているそうです。手術の後、切開した傷口をこれでく
っつけてやると、ほとんど手術創を残さず治るそうです」
 一見もっともらしい発言だった。
 確かにそんな接着剤を使用すれば、みにくい傷跡を残さないということで、特に女性に
は歓迎されそうである。
「それじゃなにか……。今回の被害者は、心臓を抜き取られた後で接着剤で、傷口を接着
されたというのだな」
「可能性としてですが……」
 刑事課長は目を閉じ、ため息混じりに先を促す。
「それで……?」
「それでって、以上ですが」
「それだけかね」
「はい。それだけです」
 刑事の述べたことは、情報としては確かなものかも知れないが、ここから洞察するげき
事件の関わりが、まったく述べられていなかった。
「では聞くが、被害者は生きているのかな」
 刑事課長は矛盾する点を突いてきた。
「いえ、死んでいます」
 そう刑事が答えたとき。
「馬鹿もん!」
 大声で怒鳴り散らす刑事課長だった。
「生体接着剤のことなら私も知っている。一種の蛋白質の糊状のもので、これを使うと皮
膚同士を貼り合わせることができるものだ」
 蛋白質が糊の役目を果たすのはよく知られている。パンを食べると、歯にくっついて取
れにくく、虫歯や歯垢の原因となっている。
 これは小麦粉に含まれるグルテンという蛋白質が、非常に粘着性を持っていて、パンが
膨れるのもこの性質があるからである。
 生体接着剤は一時的に皮膚同士をくっつける。やがて両側から組織が伸張してきて、時
間経過と共に完全に癒合してしまうというものである。
「だがな、これは患者が生きていてこそのものだ。死んでしまった皮膚は決して再生しな
いし、くっつきもしない。どうだ、違うか?」
 刑事課長は、念を押すように尋ねる。
「そ、その通りです」


其の伍


 どんなに優れた生体接着剤をもってしても、一端切り開かれた皮膚には接合痕もしくは
再生痕が必ず痕跡として残るものである。
 それに犯人が心臓を抜き取った後で傷口を治療する理由が理解できない。
 心臓が欲しければ抜き取るだけで良いはずである。何もわざわざ傷口を隠す必要もない
だろうし、生体接着剤の入手ルートから足が付くこともあり得る。
「まあ、いいだろう……。ともあれ意見を述べることは非常に大切なことだ。発言しなけ
れば何も進展しないからな」
 と、黙ったままの老刑事達を睨んだ。
 彼らは、上から命令されれば忠実にまめに働く。だがそれだけでしかなく、進歩的なこ
とには動こうとしない。
 ノンキャリアである彼らに昇進の道は遠く、どんなに頑張っても警部補止まりであろう。
警察大学校を卒業したキャリア組とは大違いである。国家公務員でもあるキャリア組は、
初任でも警部補として任官し、現場に配属されれば自動的に警部となり、二三年も立てば
警視に昇進するというのが、ほぼお決まりのコースとなっている。
 それが判っているからこそ、ノンキャリア組は率先して働くこともなく、上から命令さ
れれば働くという、一種退廃てきな官僚ムードに支配されているのである。警察官という
公僕としての責任を背負わされている割には報われない。非番時に電車で女子に痴漢行為
を働いたり、スカートの中を盗撮したりして、ストレスを発散したくなるのも無理からぬ
ことではないだろうか。
 会議は六時間という時間を無駄に消費しただけで、何の成果を上げることなく解散とな
った。
 外はすっかり暮れて夜となり、刑事達はさらなる聞き込みを命じられて、それぞれの分
担区域へと散らばっていった。

 夜道を蘭子が警戒しながら歩いている。
「これまでの被害地域から考えると、この辺りが震源地だと思うのだけど……」
 きゃー!
 と、突如響き渡る悲鳴。
 急いで声のした方へと駆け出す蘭子。
 すると夜道を向こうから誰かがやってくる。
 街灯に照らされて、姿を見せた人物は喪服を着込んだ女性で、手に何かを持っていた。
 それは紛れもなく血の滴り落ちる心臓だった。
 喪服の女性は、蘭子には目もくれずに、古い屋敷の土塀の中へと消え入った。
 女性の消えた土塀を調べる蘭子。ごく普通の土塀で人が通り抜けられるはずはない。
 常識では考えられないことだった。
「やはり悪霊の仕業だったのね」
 次の行動に移ろうとした途端、懐中電灯で照らされ、
「こんな夜中に、何をしているか! 署まで来てもらおうか」
 警察官に取り押さえられた。
 早速、変死事件の捜査本部の置かれている阿倍野警察署へと、有無を言わさずに連行さ
れることになった。
 取調室に監禁され、女性警察官立会いのもと、刑事課長の尋問が続けられている。
「こんな時間に出歩いていた目的は?」
 何度聞かされただろうか。
 答えないでいると、次々と質問を浴びせられて、またこの質問に戻ってくるという堂々
巡り。仮に正直に答えたとして、思惑通りでないと、執拗に同じ質問を繰り返す。
 是が非でも自分がやりました、犯人ですと言わしめ、自白調書に署名させるのだ。いわ
ゆる冤罪事件と言われる、人を人と思わずに人権無視が横行する、警察官の横暴であった。


其の陸


「被疑者を取り押さえたと聞くが」
 と取調室に入ってきたのは、警視の階級章を付けた警察官だった。おそらく警察署長と
思われる。
「なんだ。女の子じゃないか」
 蘭子と刑事課長との表情を見比べて、しばし考えてから言った。
「その女の子を帰してさし上げなさい」
「どうしてですか? 今夜も被害者が出て、すぐそばを歩いていたんです。被疑者もしく
は重要参考人として」
「馬鹿もん! だからと言って年端もいかない子女を、こんな夜遅くに取調室に監禁など
もってのほかだ。現行犯逮捕でもない限り、許されるものではない」
「しかし、署長……」
「言い訳無用だ。今すぐ車で送ってあげなさい。パトカーはだめだぞ。覆面で送ってや
れ」
 まだ何か言いたそうな刑事課長だったが、渋々従うよりなかった」
 覆面パトカーで自宅まで送られた蘭子だったが、自室に戻りふと窓の外を覗くと、覆面
パトカーがまだ止まっていて、中から刑事がこちらを窺っていた。どうやら張り込みされ
ているらしい。

 翌日、学校へ通学する蘭子。
 そのはるか後方を、何者かが尾行を続けている。もちろん蘭子が気づかないはずがない
が、素知らぬ顔をしている。
「おはよう、蘭子」
「おはよう」
 クラスメート達が朝の挨拶を交わす。
 教室に入り外を見ると、校門で立ち尽くす尾行者がいる。
 ここは治外法権みたいなもので、さすがに尾行者も校門から中へは入ってはこれない。
「今朝のニュース見た?」
「見た見た。例の連続変死事件でしょ」
「昨晩のことよね。怖くて夜道を歩けないわ」
「早く犯人が捕まって欲しいわね」
 女子高校生たちの話題はもっぱら変死事件のことばかり。挨拶代わりに交わされるほど
に、日常的となっていた。学校側も無関心でいられるわけもなく、女子生徒のクラブ活動
は日のある間だけで、日が沈む前に帰宅しなければならない。教諭達による校内巡回も当
番製で実施され、女子生徒が残っていれば、速やかなる帰宅を促していた。
 授業中の間、尾行者は校門前で張り込みを続けているが、不審者扱いされ学校関係者や
通報を受けてやってきた警察官から、しばしば訊問を受けていた。その度ごとに平謝りし
ながら胸元から手帳を出して見せていた。
 放課後、授業を終えた蘭子は、学校の方針に従って、所属する弓道部の練習を中止して、
真っ直ぐ自宅へ帰ることにした。校門には尾行者の姿は見られなかったが、どうせどこか
に隠れているのであろう。さすがに大勢の女子生徒が一斉に帰宅する時間帯は、校門前に
は張り付いていられないというところだろう。
 歩き出してしばらくすると、やはり尾行者が付いてくる。


其の漆


「尾行の下手な人だ。ちょっとからかってみますか」
 呟くと、さっと素早く路地裏に身を隠した。
 すると撒かれてなるものかとばかりに、大急ぎで駆け出してくる。そして路地裏に駆け
込むと、
「いてて、痛い!」
 待ち構えていた蘭子に、羽交い絞めを掛けられて、うめき声を上げた。
 腕を振りほどこうとするが、完全に決まっていて抜け出せるものではない。
「どうして私を尾行するのですか? どうやら警察官のようですけど」
「そうだ。常時目を離さず監視するように、上から命令されている」
「命令したのは、刑事課長でしょう」
「それは言えない。それより早く腕を解きたまえ。でないと公務執行妨害になるぞ」
「あら、構いませんわよ。その変わり私も強硬手段に訴えるだけです」
「強硬手段?」
「大声で悲鳴を上げればいいだけです。下校時間だから、大勢の女子高生の野次馬が集ま
ってきますわよ」
「馬鹿な。私は警察官だぞ。上の命令で君を監視していた警察官だぞ。女子高生の証言な
ど誰が信じるか」
「そうでしょうか? 最近の警察官の腐敗は良く知られているじゃありませんか。飲酒運
転で交通事故を起こしたり、出会い系サイトで知り合った少女を集めて売春させたり、電
車内痴漢やストーカー行為など不祥事が絶えませんよね。それにあなたは学校の校門前で、
大勢の人々に不振がられていた。そんなあなたが、ストーカー行為を働いたって不思議と
は思われないでしょ」
「冗談じゃない!」
 大声で否定する刑事。
 自分は純朴なる公務員だと言いたそうな表情である。
 そんな輩に限って不貞を働いたりするものだが。
「いいでしょう。いつまでも付きまとわれるのは侵害ですので、連続変死事件の真犯人に
会わせてあげましょう」
「知っているのか? 真犯人を」
「知っていますよ。あの夜、血の滴る心臓を手にした女性を見かけたのです。しかし後を
追おうとしたところに、あなた方警察官に取り押さえられてしまったのです」
「それは済まない事をした。しかしこういうことは、警察に任せて欲しいものだ。民間人
に踏み込んでもらっては困るし、身の危険にもなる」
「皮膚に傷一つ付けずに心臓を抜き取られるという不能犯に、手をこまねいているのは警
察の方ではありませんか」
「では、君なら解決できるというのかね」
「できますよ。なぜなら犯人は人間ではないからです」
 事実をありのままに証言する蘭子。
「人間じゃないとはどういうことだ」
「まあ、とにかく。犯人に会いに行きましょう。すべて判りますよ」
 ここで議論してもしようがないし、納得させることはまず不可能であろう。
 実際に事実を突きつけてやった方が、解決は早い。
「いいだろう。会いに行こうじゃないか」
 というわけで、早速あの土塀の続く屋敷へと向かったのである。
 途中、警察官一人の手に余るということで、上司の井上刑事課長も同行することになっ
た。

 土塀のある屋敷に着いた。
 あたりはひっそりと静まり返り、不気味なくらいであった。
 予定では蘭子一人で乗り込むはずだった。
 蘭子の着ている制服を見れば、同じ高校だと判るはずだから、クラブ活動なり生徒会の
意向で見舞いに来たと言えば、通してくれるだろう。
 だが同行の警察官が問題だった。教諭と偽るには眼光が鋭すぎる。
「まあ、何とかなるでしょう」


其の捌

 意を決して門をくぐる蘭子と警察官の二人。
「ごめんください!」
 蘭子のよく通る声が奥まで届き、主人らしき人物が玄関先に現れた。
 目はどこか虚ろで疲れきったような足取りだった。
「何かご用ですか?」
「お亡くなりになられたお嬢さんのご焼香に伺いました。それと奥様にご挨拶を」
 途端に主人の顔色が変わった。
「どういうご関係かは知らぬが、会わせるわけにはいかぬ」
 すごい形相だった。
 しかしここで引き下がるわけにはいかない。
「ご近所の皆さまから伺った話ですが、お嬢様はお亡くなりになられたというのに、奥様
は死んでいないと言い張って、看病を続けているというじゃありませんか」
「そ、それがどうした」
「おかしいとは思いませんか? お嬢様がお亡くなりになって十五日ほど経ちますが、普
通なら腐敗がはじまって異臭が屋敷中に漂っているはずです。純日本家屋ですから、異臭
が部屋の外に出ないはずがありません。もしかしたら亡くなった時の状態を保ってらっし
ゃるのではありませんか? 違いますか?」
 主人は言葉に詰まって返答できないでいる。
 図星だなと判断した蘭子は、追い討ちを掛けるように言葉を続ける。
「もう一つ、お伺いしますが、奥様はどうなされていますか? ちゃんと食事を摂られて
いますか? 十五日も食事をしなければ死んでしまいますよね」
 矢継ぎばやに繰り出される質問に、主人は答を見出せない様子だった。
 しばらくうなだれていたが、意を決したように口を開いた。
「わかりました……。とにかく会っていただきましょう」
 玄関を上がって長い廊下を歩いていく。エアコンは見当たらないが、開け放たれた障子
など、換気は十分で吹き抜ける風は冷たい。
 家中がひんやりと冷え切っているような感じだ。
 主人、蘭子、刑事二人の順で廊下を歩く。
 やがて閉めきった部屋の前にたどり着く。
 さすがに死人のいる部屋を開けておくことはできないようだ。
「こちらです」
 主人が立ち止まって障子を開く。
 信じられないような情景が目に飛び込んでくる。
 布団に横たわる少女。
 まるで生きているような表情をしていた。
 しかし少女は死んでいるはず。
 そして枕元に正座して、少女をやさしく見つめるようにしている母親。
 しかし、それは現実ではありえないはずのものだった。
 まるで時が凍えていうような情景であった。
「本当にお嬢様は亡くなられているのですか?」
 若い刑事が念のために質問した。
「はい。もう十五日になります。心臓病でした」
「変死事件が始まったのもその頃ですね」
 若い刑事が口をはさんだ。
「ここでそんな話をするもんじゃない!」
 ぶしつけな質問をするのを、刑事課長がたしなめた。
「いえ、確かにそうなのかも知れません。心臓移植を希望していたものの、ドナーが現れ
ずに死んだ娘。それから始まった「娘は生きている」と主張する母親の狂気ですが、そこ
に悪魔かなんかが取り付いてしまったのではないかと。この部屋の光景が物語っていると
思います。娘は他人の心臓を与えられて、腐ることなく生き続けているのです。いや、生
かされているのだと。そしてまさしく、心臓を届けているのが妻なのです」
 部屋の前で数人が集まって話し合っているというのに、部屋の中の住人はまるで聞こえ
ないかのように静かなものだ。


其の玖

「不気味ですね」
 再び若い刑事。
 蘭子が身構えながら敷居を越えて部屋の中へと入っていく。
 一瞬、部屋の空気がどよめいたように感じた。
「皆さんは、そこから動かないでください。何が起きるか判りませんから」
「しかし……」
 若い刑事が後に続こうとするが、
「動くんじゃない!」
 と刑事課長に制されて足を止めた。
 この部屋の中に充満する得体の知れないものを感じているのかもしれない。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前」
 と、九字の呪法を唱えながら、部屋の中ほどへと進み行く蘭子。
 母娘のそばに立ち、やおら布団を巻き上げると、異様な光景が眼前に現れた。
 少女の身体を取り囲むようにして置かれている干物のようなもの。まさしく心臓だった。
 優しげな表情をしていた母親の顔つきが突然変わった。まるで鬼のような形相となって、
蘭子に襲い掛かってくる。蘭子は軽々と身をかわしていたが、やおら片膝を着くと、両掌
を胸元で構え、少し指を内側に曲げるようにして、セーマンの呪文を唱え始めた。
「バン・ウーン・タラーク・キリーク・アク」
 すると両手の間に輝く五芒星(清明桔梗紋)が現れた。
 この五芒星を示した図柄は、古代エジプト墳墓に多く描かれ、かの有名なカルナック神
殿やルクソール神殿の天井にも描かれている。これは人間が手足を広げた形で、人は死ぬ
と空に行って星になるという言い伝えからきていると言われている。果たしてこのエジプ
トの言い伝えと、陰陽道の考えにどういうつながりがあるかは判らないが、死者を送るこ
とと悪霊を祓うことと共通性が見られる。
「はっ!」
 蘭子が気合を込めて、両手を前に突き出すと、五芒星が宙を飛んで母親の眉間に、その
陰影を刻んだ。
 突然、動きを封じられたかのように、身動きしなくなった母親。
 すっくと立ち上がり母親の顔に向かって指を突き出す蘭子。両側のこめかみにある「太
陽」と、眉間にある「神庭」と呼ばれるツボ(経穴)を突く、三点心打突である。
 そしてやさしく諭すように語り掛ける。
「思い出すが良い。娘さんとの楽しい日々のこと。悲しいこともあっただろう。娘さんは
そんな思い出と共に天に召されようとしている。人には運命というものがる。短い命もあ
れば長寿を全うする場合もある。娘さんは母であるあなたに見守られて幸せに生きた。例
え果かない命であったとしても、あなたの愛情に包まれて逝ったのだ。娘さんは十分幸せ
に生きた。あなたは、その娘さんを地上に束縛して苦しめているだけなのだ。違うか? 
もう一度思い出すのだ。娘さんとの幸せな日々を」
 切々と訴えかける蘭子。
 母親の両目から涙が溢れてくる。
「さあ、逝くがよい。娘さんと一緒に、仲良く」
 二人の身体から白い靄のようなものが浮き出してきた。それは人の形となり母親と娘の
姿となった。母親が頭を下げて礼をしているかのように見える。二人は仲良く手を取り合
って天に召されていった。
 そして母親の身体が、ボロボロと崩れはじめ、やがて灰となってしまった。
 つと振り返って、主人や刑事の所へと戻る蘭子。


其の拾

「終わりましたか?」
 刑事課長が言葉を掛ける。
「はい。これで変死事件も起きません」
 若い刑事が部屋に入って、二人の遺体を調べ始めた。
「これはどういうことですか? 灰になってしまうなんて」
「お母さんは、お嬢さんを生かし続けるために、自分の生命エネルギーを注ぎ込んでいた
のです。身も心もすり潰して」
「そんなことができるのでしょうか? いや……現実に目の前で起こったのですから信じ
るしかないのでしょうねえ」
 刑事課長が感慨深げにため息をつく。
「娘と妻は、成仏したのでしょうか?」
 主人が尋ねた。
「はい。二人の魂が仲良く手を取り合って、天に昇っていくのが見えました」
「魂が見えるのですか?」
「場合によります。自分が関わった人とか、怨念やこの世に未練を残した人に限りますけ
ど」

 屋敷から出てくる蘭子と刑事二人。
 大きな欠伸をして、背伸びをする蘭子。
「どうしました?」
「いえね。昨晩、ある所に遅くまで監禁状態にされていたので、睡眠不足気味で」
 わざとらしく聞こえるように蘭子が言うと、
「いや、大変失礼なことをした。すまないと思っている」
 頭を深々と下げて、反省している様子を見せる刑事課長。
「あなたは霊能力者のようだ。それでお願いというか協力して頂きたいのですが……」
「協力?」
「いえね。ここ最近、うちの管内で人の手では不可能と言われるような事件が多発してい
るのです。ついこの間も四天王寺で全身の血を抜き取られるという事件が起きていたので
す」
 その事件は、蘭子が隠密裏に解決したものだった。
「結局、まったく不可解で手掛かりなしで、迷宮入りになりそうです。あなたには、そう
言った「人にあらざる者」に関わる事件捜査に協力してほしいのです」
「なるほど……。そういうことなら、自分にできうる限りの協力に尽力しましょう」
「ありがたい。また改めてご自宅にお伺いしてご相談しましょう」
「では、今日のところはこれで失礼させていただきます」
 刑事と別れて帰宅の途につく蘭子。
 また一つの事件を解決して、充実した気概に満ちていた。

夢幻の心臓 了

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11
妖奇退魔夜行/第一章 夢魔の標的
2020.11.21

陰陽退魔士 逢坂蘭子/第一章 夢魔の標的


其の壱


 翌朝となった。
 逢坂家の食堂にて、家族が朝食をとっている。
「おはようございます」
 そこへ女子高制服に身を包んだ蘭子が眠たそうに入ってくる。
「おはよう」
 蘭子が自分の席に着くと、母親が早速ご飯と味噌汁をよそってくれる。
「どうした浮かぬ顔をして……」
 父親が不審そうに尋ねる。
「いえ……。最近、夜毎に妖気を感じて目が覚めるのですが、しばらくすると消え
てしまうのです」
 昨夜のことを事細かに報告する蘭子。
「うーん……。それはあれだな。その妖気の正体は、人間という依り代を必要とす
る妖魔なのであろう」
「憑依型の妖魔ですか?」
「そうだ。妖魔が人間に憑依するには、誰でも良いというものではない。輸血や臓
器移植に血液型などが合わないとだめなように、妖魔と依り代となる人間との因果
関係が必要なのだ」
「因果関係?」
「それが何かはいまだに判らぬことが多い。ともかく妖魔は憑依できる人間を見つ
けたというわけだ。しかし人間が明瞭な自我を持っていては憑依できない。そこで
自我を崩壊させるために、眠っている間にその精神に入り込んで、毎夜悪夢を見せ
続けるのだ。その時に一時的に実体化して妖気を放っているのかも知れない。それ
をおまえが察知したというわけだ」
「そういうことでしたか……」
「自我を崩壊させるのには、性急し過ぎてもだめだ。自我だけでなく魂までも殺し
てしまうことになる。人間が生きるには肉体と魂が必要だからな。魂までも殺さな
いようにして、じわじわと悪夢を見続けさせる」
「そして自我を崩壊した人間は、妖魔に憑依されて実体化すると」
「やっかいなのは実体化するまでは手が出せないし、実体化したらしたで依り代と
なった人間には傷をつけることなく、妖魔だけを退治するのは至難の技ということ
だ。おまえの持つ虎徹が必要になるな」
「はい……」 
 唇をぎゅっと噛みしめる蘭子だった。


其の弐


 大阪府立阿倍野女子高等学校へと続く通学路の小道。
 女子高制服に身を包んだ一団が次々と通り過ぎる。
 スクールゾーンとなっているこの時間帯には自動車は通れない。
 ために、道いっぱいに広がってゆったりと歩いている。
 その中に、逢坂蘭子の姿もあった。
 春のそよ風に、そのしなやかな長い髪がそよぎ、つと掻き揚げる仕草には、まさ
しく今時の女子高生の雰囲気をかもし出していた。
「蘭子~!」
 と、突然背後から声が掛かった。
 立ち止まり、振り返ると、同級生の鴨川智子が小走りで駆け寄ってくる。
「おはよう、智子」
「おはよう、相変わらず早いわね、蘭子」
「門限ぎりぎりに駆け込むというのは、性にあわないのでね」
「何事にも、心にゆとりを持って行動する……ってか?」
「そういうこと」

「おはよう!」
「おはようございます」
 見知った友達同士や先輩・後輩が挨拶を交わしながら、次々と学校の校門をくぐ
り、自分たちの教室へと向かう。
 1年3組とプレートの掲げられた教室の前。
 蘭子と智子の二人が中へ入っていく。
「おっはよう!」
 手を上げて大きな声で先に来ていたクラスメートに挨拶をする智子。
「おはよう智子。相変わらず元気ね」
「元気が取り柄やからね」
「おはよう蘭子」
「おはよう、静香」
 たちまちのうちに仲良しグループが集まってくる。
 そしていつものように他愛のない会話がはじまる。
 昨晩のTV番組のことや、誰それが男の子と云々とか話題は尽きない。
 やがて予鈴がなって、それぞれの自分の席へと分かれて授業の始まりを待つ。

 一時限の授業がはじまる。
 教本を読む教師、名前を呼ばれて立ち上がり、指定された箇所を読誦する生徒。
 黒板に書き綴られた内容を、ノートに書き写す生徒。
 蘭子もまたそんな生徒の一人として、窓際の席で楚々として授業を受けていた。

 どこの学校でも見られるごく普通の授業風景であった。


其の参


 昼休みとなった。
 女子生徒達は教室のあちらこちらにグループを作って、それぞれに弁当箱を広げ
て談笑している。
 鴨川智子、芝桜静香、風祭洋子、そして蘭子を加えた中学校からの仲良し四人組
もまたその中の一つであった。
「ところでさあ……。この間の変死事件だけど、結局迷宮入りになりそうよ」
 グループの中でも、いち早く噂話や事件の裏話などを仕入れてくる、情報屋と呼
ばれる静香が話題を提供した。
「ああ、四天王寺公園で全身の血を抜かれて死んでいた、うちの学校の生徒のこと
でしょう?」
 ぴくりと眉を吊り上げる蘭子。
 ある夜のことを思い出していた。

 夜の公園に悲鳴があがる。
 一人の女子高生が怪物に襲われている。
 恐怖に引きつった顔、あまりの恐ろしさに身動きできない。
 つつと怪物から触手が伸びていく。
「まるで、蛭のようだな」
 どこからともなく声が響く。
 振り返った怪物の視線の先の木陰から現れる巫女装束の少女。
 陰陽退魔士、逢坂蘭子だった。
 次の瞬間。
 その手元から呪文の書かれた呪符が飛び、怪物の身体に張り付いた。
 ぐぉー!
 うめき声を上げる怪物。
「どうだ。身体を動かせないだろう。おまえのような低級妖魔には呪符だけで十分
だ。どうやら昨夜の件もおまえの仕業のようだ」
 蘭子が呪文を唱えながら、右手をゆっくりと水平に上げると、その指先に青い炎
が点った。
「清浄の炎よ。邪悪なるものを永遠の闇に返せ」
 蘭子が右手を前方に振り出すと、青い炎が宙を舞って怪物の身体に取り付き、一
瞬にして燃え上がった。
 ぐあああ~!
 苦しみもがく怪物。
 やがて跡形もなく消え去ってしまう。

 地面にへたり込んで呆然としている少女。
 歩み寄り、その額に指先を当てながら、
「眠るが良い。そして今宵のことはすべて忘れることだ」
 呪文を唱える蘭子。
 やがて目を閉じて眠るように横たわる少女だった。

 すっくと立ち上がり、闇夜の中へと消え去る蘭子。

「蘭子! 聞いているの、蘭子?」
 すぐ目の前に智子の顔があった。
「ああ……済まない」
 過去に思いを馳せていた自分を現実に引き戻す蘭子。
「何を考えていたの?」
「いえ、何でもないわ」
「そう……」
「それで、何か用かしら」
「食事が済んだら、他のみんなを集めてボール遊びでもしようという話よ」
 風祭洋子がバレーボールを片手で宙にぽんぽんと弾ませていた。
「ああ、その話ね。わかったわ」
 新入学したばかりで、各中学校から集まったクラスメート達とは馴染みのない者
も多かった。そこで昼休みにバレーボールに興じながら親睦を図ろうというものだ
った。
 すでに食べ終わっていた弁当箱を鞄に収めて立ち上がる蘭子。
「さて、行きましょうか」


其の肆


 放課後の帰り道。
 一緒の鴨川智子が深刻そうに言う。
「蘭子、お願いがあるんだ。お兄ちゃんのことで相談したいんだけど」
「相談事?」
「うん。うちに来てよ」
「わかったわ」
 というわけで、智子の家に立ち寄ることになった蘭子。
 智子の自室は日の良く当たる南側にあって、窓側から少し離してベッドが置かれ、
壁際には勉強机や洋服箪笥、そして中央にはカーペットとガラステーブルが置かれ
ている。
「ちょっと着替えるね」
 女子高生服を脱いで普段着に着替え、制服をハンガーに掛けて壁際に吊るす。
 ドアがノックされて母親が顔を見せた。来客のためにジュースとお菓子を持って
きてくれたのだ。気の利くやさしい母親のようだ。
「どうぞ、ごゆっくり」
 甘いものには目がない智子。早速用件はそっちのけでショートケーキを頬張りは
じめた。
「智子、太るわよ」
 蘭子が注意するが馬耳東風である。
「これだけは止められないのよね。ショートケーキ」
 最近太り気味の智子であるが、スカートのウエストが合わなくなって着れる服が
少なくなって困っているという。にもかかわらず甘いものを断ち切ることができな
いでいるという。
 呆れながら蘭子もショートケーキを頬張りはじめた。嫌いではないが好きとも言
えないところ。それに蘭子は武道をたしなんでいるので、これくらいのカロリーは
すぐにエネルギーとして消費されてしまうのだ。
 ショートケーキを食べ終えた二人。
「そろそろ用件の方を聞かせてもらえないかしら」
 本題に入ることを促す蘭子。
「ここ最近だけど追いはぎが夜に出没するようになったの知ってる?」
「知ってるわよ。若い女性を襲っては着ている服を脱がして持ち去ってしまう事件
でしょ」
「そうなのよ。しかも首筋にくっきりとキスマークも付けられているの。これが牙
が刺さった跡で血でも抜き取られていたらドラキュラなんだけど……。で警察は単
なる物盗りということで本腰を入れてないみたいなのよね。これでは四天王寺の事
件みたいに迷宮入りよね」
「それで?」
「ここからが本題よ」
 智子の表情が少し険しくなった。姿勢を正して座りなおすと、とつとつと話しは
じめた。


其の漆


 公園の影から智子が飛び出した。
「智子、後を付けてきたのか」
「目が覚めて制服がなくなっているので、もしかしたらと思ったからよ。教えて、
蘭子の言ったことは本当なの?」
「本当さ、間違いない」
「そんなあ……」
 智子の全身が震えている。
 涙があふれて止まらないようだった。
「智子。お兄さんは、もう以前の達也君じゃない。妖魔に身体を乗っ取られ、精神
を操られているのよ」
「嘘よ!」
 そんなこと信じられないと、激しい怒りを蘭子にぶつける智子だった。
「あはは、そいつの言っていることは本当さ。証拠を見せてやろう」
 高らかな笑い声を上げると、達也は制服を両手で引き裂いた。と同時に、その身
体がまはゆく輝きだした。
「何が起こっているのよ?」
「メタモルフォーゼ……。再融合よ。妖魔が、お兄さんと一体化して、新しい身体
へと変化しているの」
「止められないの?」
「止められないわ」
 達也の身体に変化がはじまった。
 胸が膨らみ始め、髪が長くなってゆく。ウエストはくびれ、腰が大きく張り出し
てくる。
 まさしく女体への変貌であった。
「女性を襲って、精気を奪っていたのは、このせいだったのね」
「そうよ。私は男である身体に嫌悪感を持っている。しかし憑依できる身体が見当
たらなかった。だから取りあえずこの身体に憑依して、女の性エネルギーを吸い取
って、変身することにした」
 やがて再融合が完成したようだ。
 元の達也からは想像もできないような完璧な女体。
 ため息がでそうなくらいに美しい身体であった。
「どう? 美しいでしょう」
 ひときわ長く伸びた爪を舌なめずりする妖魔。
「そのために何人の女性を犠牲にした。精気を半分以上吸い取られた彼女達は、異
常なまでの速さで老いさらばえてゆくのだぞ」
「関係ないわね」
「これ以上の犠牲者を出さないためにも、おまえを退治する」
「あら、やるというの? いいわ、かかってらっしゃい」
 御守懐剣を、懐から取り出す蘭子。
 隙をうかがいながら、じりじりと間合いを狭めていく。
 ここぞという瞬間に、懐剣を突き刺すが、ひらりと飛び上がって身をかわす妖魔。
 その背には白い羽根が生えていた。
 空を飛ぶ能力を持っているようだった。
「あらあら、そんな攻撃しかできないの。なら、手っ取り早く片付けてあげるわ」
 空から急降下で、その鋭い爪を突き立てる妖魔。あまりにも素早い動きのために、
呪法を唱える余裕がなく防戦一方となる蘭子。
 強襲攻撃を受けて地面に転がる蘭子。
 このままではやられると観念した蘭子は、呪符を五芒星に並べて禁呪符陣の結界
を張った。
 呪符にはそれ自体に、呪法が掛けられているので、素早く結界陣を張ることがで
きるのだ。
 妖魔が急降下攻撃を仕掛けてきたが、見事に結界が防いでくれた。


其の捌


「結界か……。こしゃくな真似を。しかし、その中にいても私を倒せないぞ」
 蘭子は答えずに黙々と呪文を唱えていた。
 と、突然。
 御守懐剣の刀身で自分の人差し指に傷をつけた。
 そのしたたり落ちる鮮血を、刀身に吸わせるようにしながら、今度ははっきりと
した言葉を発した。
「先祖より代々伝わりし虎徹よ。いにしえの契りにより、その本性を現わし、我に
応えよ」
 するとどうだろう。
 懐剣が輝きだし、その形を変えて長剣へと変貌し、その刀身からすさまじいオー
ラを発し始めた。
 この妖しく輝く長剣こそが、【長曾禰虎徹】が鍛えし本来の姿で、その刀身には
魔人が封じ込められていた。
 蘭子の先祖である安部清明の子孫が修行で江戸に赴いた時、世間を騒がす魔物と
対峙することになった。修行者は江戸で買い求めていた虎徹を使って、その中に魔
人を呪法で封じ込めることに成功した。その後、その修行者が亡くなり、虎徹は人
から人へと渡っていった。しかも封じ込められた魔人の力によって、その虎徹は人
斬り剣となって、数多くの民衆の血を吸い続けたという。
 虎徹の持つ鋭い切れ味と、刀身に刻まれた見事なまでの彫刻によって、有力武家
が欲しがり所持している者を殺してまでも手に入れようとした。
 魔剣となってしまった虎徹。安部家の子孫であり神道をも極めた土御門家の修行
者の一人が、虎徹を再び御守懐剣として人殺しをできない形状にして封じ込めに成
功したという。
 力を封じ込められてしまった魔人は改心し許しを乞うた。そこで修行者は契りを
結ぶことによって、一時的に懐剣から解放し、懐剣を持つ者と共に魔物と戦うこと
を約束させた。魔物と戦い続け、この世にさ迷う魔退治した時、降臨して封印をす
べて解いてやることにしたのだ。
 これが蘭子の家に伝わる御守懐剣の秘密だった。
 虎徹を下段に構えて、結界から出てくる蘭子。身体中からオーラが発散していた。
これは虎徹から解放された魔人と精神融合して、その能力を身に付けた証でもあっ
た。だからといって、魔人に精神を乗っ取られたのではなく、完全に魔人をコント
ロールしていた。
「ほほう。退魔剣というわけか……。なら、これでどうだ」
 というと、智子の背後に飛び移って、人質にとった。
 蘭子は意に介しないという態度で、剣を大上段に構えなおした。
「この虎徹。人を斬る剣にあらず。魔を封じ滅ぼす退魔剣なり」
 言うなり、大上段から剣を振り下ろした。
 まばゆいばかりの光の渦が地を走るようにして妖魔に向かって襲いかかった。
 苦しみもがく妖魔。
 素早く駆け寄り、護符を貼り付ける蘭子。
 やがて妖魔から白い靄のようなものが浮かび上がり、弾けるように消え去った。
 崩れるように地に伏した達也の身体に変化が現れた。
 白い羽根や長い爪が消え去り、ごく普通の女の子の身体になった。
 女性の精気を大量に注ぎ込まれて女の子になってしまった身体は、元の男である
達也には戻れないようだった。
 一方の智子は、茫然自失のまま身動きしなかった。
「智子、しっかりして」
 その身体を揺すぶって気づかせる蘭子。


其の玖


「な、何が起こったの? 妖魔は?」
「もう大丈夫よ。妖魔は退治したわ」
「お兄ちゃんは?」
「ちゃんと生きているわ。でも……」
 言葉を詰まらせる蘭子は、視線を達也に向けた。
「これがお兄ちゃん? 女の子のままじゃない」
 兄の身体に目をやった智子が質問する。
「そうね。妖魔によって女の子に作り変えられた身体は元には戻らないみたい」
「そんなの……。これからどうして生きていけばいいのよ」
「とにかく智子は、ありのままを達也さんやご家族に話すしかないでしょう。そし
て家族全員で考えて結論を出すしかないわ」
「そ、そうね。そうするしか……」
 一応納得する智子。
 蘭子は懐から呪符を取り出すと、呪文を掛け息を吹きかけた。
 すると空に巨大な竜が現れた。
「式神よ。十二天将の中の一神」
「それって、玄武とか白虎・朱雀とかいうあれ?」
「その通り」
「強そうじゃない。最初から呼び出せば良かったんじゃない?」
「そうもいかないのよ。妖魔の中には式神を無効にしてしまう者もいるから。所詮
呪文で呼び出しただけだから。でもこういう場合には役にも立つ」
 そういうと青龍の持つ玉から一条の光が差して、蘭子たちを包んだ。
 次の瞬間、三人は達也の部屋に転送されていた。
 床に横たわる達也を抱えて、ベッドに横たえ布団を掛けてやる蘭子。
「目が覚めたら、女の子になってると驚くだろうから、事情を説明してなだめてあ
げてね」
「わかったわ」
「それじゃ、今夜はもう帰るわ。学校でまた相談しましょう」
「うん」

 それから数ヶ月のことだった。
 蘭子達のクラスに転入生があった。
 担任教諭が、黒板に名前を書いて紹介をはじめた。
「今日からお友達になる鴨川恵子さんよ。智子さんとは双子の姉妹です。仲良くし
てやってくださいね」
 驚く蘭子。
 智子の方を見ると、微笑んで片目をつぶってみせた。
 びっくりさせるために、このことを隠していたようである。
 達也だった恵子は、すっかり女の子らしくなって、女子校制服が良く似合ってい
た。
 今後、少なくとも三年近く付き合っていくしかないようである。

 第一章 了

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11
妖奇退魔夜行/序章・蘭子登場!
2020.11.20

 陰陽退魔士・逢坂蘭子/序章・蘭子登場!


 大阪市阿倍野区阿倍野元町5-16。
 熊野街道沿いに安倍晴明神社(あべのせいめいじんじゃ)がある。
 安倍晴明公は、天慶7年(944年)、この地に生誕し、のちに天文陰陽推算の術を
修め、「葛の葉子別れ」の伝説で広く知られている。

 この物語は、その安倍晴明が活躍した世代から、約十世紀余の現代にはじまる。

 草木も眠る丑三つ時。
 安倍晴明神社からほど遠くない所にごく普通の住宅がある。
 その二階の一室で眠る一人の若き少女。
 本編の主人公であり、枕元には先祖代々受け継がれた妖刀を収めた小柄が、夜の闇に
怪しげに輝いている。
 名匠長曽弥虎徹が鍛えた御守懐剣の一つである。

 少女の名は、逢坂蘭子。

 安倍晴明の血筋に繋がり、陰陽道の妖術の使い手でもあったが、その寝顔を見るにつ
けてもごく普通の女の子にしか見えない。
 それもそのはずで、近くの大阪府立阿倍野女子高等学校に通う、今時の女子高生なの
だから。

 窓のカーテンは開け放たれており、夜を照らす月の光が差し込んでいる。
 その月を真っ黒な雲が覆い隠し、物音しない夜の空間に闇を作り出した。

 と、突然だった。
 枕元の小柄が、微かに震え始めた。
 その小柄に向かって、白くて細い指先が伸びて、それを掴んだ。

「妖気……」
 異変を感じて目を覚ました少女は、あたりに漂うただならぬ気配を感じ取っていた。

 何も言わず、静かに寝巻きを脱いで裸になる少女。
 そして和箪笥から、この時のための装束である巫女装束に着替え始めた。
 巫女装束は、少女にとっては戦闘服でもあった。

 巫女装束に着替えた少女。
 彼女の名前は……。

 陰陽退魔士「逢坂蘭子」

序章 了

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