梓の非日常/第二部 第五章・別荘にて(三)乗馬クラブ
2021.05.31

続 梓の非日常/第五章・別荘にて


(三)乗馬クラブ

 翌日のこと。
 梓付きのメイド達四人を前に訓示をたれている麗香。
「今日と明日の午後、昼食後から夕食前を自由時間にします」
「本当ですか?」
 満面に笑顔を見せて飛び上がるように喜ぶメイドたち。
「お嬢さまの御厚意です。お嬢さまのおやさしい心使いを忘れないように、真条寺家のメイドとしての規律を守って、羽目を外さずに行動しなさい」
「はーい!」
「あなた達が遊んでいる間にも、別荘勤務のメイド達が汗水流して働いていることを忘れないでください」
 真条寺家のメイドには二種類の職種があった。
 麗華や明美達が梓専属のメイドとして働いているように、主人の身の回りのお世話をする職種。
 部屋の掃除や給仕・洗濯といった屋敷内での日常業務を担っている、屋敷付きの職種とである。
 屋敷付きのメイドは、夜勤を含めて三交代で勤務時間がはっきりしている。基本的に週休二日制で、長期休暇もある。ごく普通のサラリーマンと何ら変わりはない。肉体労働ではあるがきちんと休みがあるので疲労が溜まることはない。
 一方の専属メイドは、仕えている主人に常に付き添って行動するために、勤務時間が明確に決められていない。夜討ち朝駆けだったり、いきなり海外へ渡航しちゃうこともある。主人との軋轢もあって、精神的ストレスに責め苛むこともしばしばである。それも主人次第ということで、梓のような心優しい人間に当たれば悪いことなしである。ちゃっかりと旅行気分を味わえたりするわけである。
 屋敷付きメイド主任の神楽坂静香に声を掛ける麗華。
「静香さん。お手数かけますね」
「いいえ。お気になさらなくて結構ですわ。あの娘達がお嬢さまのお世話をしながら、どんなに大変な思いをしているかわかりますから。厳格な礼儀作法を守りながら、常日頃から気配りを絶やさずにお嬢さまの身の回りのお世話をする。別荘勤務が忙しいのは、お客様がいらした時だけですけど、あの娘達は毎日ですからね」
「ありがとう。そう言って頂くと助かります」

 数時間後。
 とある牧場の乗馬クラブに梓と絵利香の姿があった。
 乗馬に興ずる梓と絵利香。
 馬の動きに合わせて見事な手綱捌きをみせていた。
 アメリカ仕込みの腕前は本物だった。
 牧場を軽やかに闊歩しながら、存分に乗馬を楽しむ二人だった。
 それにしてもいつも梓にべったりの慎二の姿が見えないのが不思議だった。
 その頃、慎二はメイド達と一緒に行動していた。
 牧場の付帯設備である購買部の土産物屋の中をうろついていた。
「慎二さん。今日はお嬢様と一緒じゃないんですか?」
 美鈴が首を傾げるように尋ねる。
「ほんとですよ。いつも一緒なのに」
「そうそう」
 明美とかほりも同意見のようだ。
「まさか、乗馬が苦手だとか……」
 恵美子に至っては、疑心暗鬼な表情。
「みなさん、そんなに責めちゃだめでしょ」
 土産を手に品定めしていた美智子がたしなめた。
「まあ、いいさ。ほんとのことだからな」
「ええ? ほんとうなのですか?」
「ああ、以前馬に乗ろうとして蹴られた。それでも強引に乗ったら、急に駆け出して振り落とされて腰を痛めたよ」
「暴れ馬だったんですか?」
「観光牧場のおとなしい馬だよ。どうも俺は馬が合わないようだ。喧嘩ばかりしているから、殺気を感じているのかもな」
「今の慎二様からは想像もできませんけど……」
「あ、ははは。梓ちゃんの前ではいい子ぶっているだけだよ。本性は荒くれ者さ」
 確かに【鬼の沢渡】と呼ばれ恐れられていた頃に比べれば、まるで天使のような人格と言えるだろう。
 梓と出会って人格的に成長したというべきか。
「慎二さん。このソフトクリームおいしいですよ」
 店頭販売していたソフトクリームを頬張りながら勧めている美鈴。
「そうか? そいじゃ、俺もひとつ」
 といって、同じものを買って食べ始める慎二。
「うん。うまい!」
「でしょ」
「絞りたてのミルクから作るから、味が濃厚なのよね」
「牛乳もそうだけど、一般の市販の乳製品ってのは高温加熱殺菌するから、成分が変質してしまってどうしても味が落ちてしまうんだよね」
「ここで売っているのは、低温で長時間殺菌しているらしいよ。だから味も濃厚なのね」
 ところで美智子たちにとって慎二は、主人の親友であり客人である。丁重に挨拶を交わし、言葉使いを選ばなければならない立場のはずであった。
 にも関わらず慣れ親しい会話を続けているのには、慎二の人柄によるところが大きいだろう。決して客人という態度を表さずに、常日頃から友人とでも接しているようであった。
 梓もまた、メイド達と慎二との係わり合いを微笑ましいものとして、注意することはなかった。だいたいからして梓自身、慎二を客人と思っていないからだ。
 このひととき、自由時間を楽しんでいた。


 その夜、軽井沢一帯は激しい雷雨に見舞われた。
 折りしも遊びに来ていたクラスメート達にとっては、はじめて経験する豪雨だった。
 梓たちは、リビングでくつろいでいたが、窓に打ち付ける大きな雨音に打ち消されて、会話の声も届かない。
 そして突然の停電。
 一瞬真っ暗闇となったが、すぐにバッテリーによる非常灯に切り替わった。
「停電ね」
 非常灯の薄暗い部屋の中、成り行きを見守るしかない一同。
「大丈夫よ。もうじき自家発電機が動きだすわ」
「自家発電機があるのか」
「落雷による停電は日常茶飯事みたいなもの。しかも一度停電すると、二三日は復旧しないこともある。だから自家発電機が必要なのさ」
 だが、五分経っても停電は復旧しなかった。
 別荘内をメイド達が火の灯ったローソク片手に、行き来している。別に驚いた風でもなく、いつものことといった表情であった。
「どうしたのかしら?」
 その時、電話が鳴った。
「停電なのに、電話機が使えるのか」
「バッテリーが内臓されていますし、回線が切断されていなければ通じます。でも、これは内線みたいですね」
 おもむろに麗華が送受機を取る。
「機械室からです」
 梓邸の地下には、機械室が設置されていた。
 停電時の給電を担う自家発電装置、調理室や各部屋のシャワー・風呂そして冷暖装置に温水を供給するボイラー室などがあり、それぞれに国家資格を持った技術者が待機している。
「電機技師が、まだ帰ってきていない?」
 内線による連絡によると、電機技師が街へ用事で出掛けたものの、途中の道ががけ崩れにあって帰れなくなったというものだった。
 電気技術者がいなければ、自家発電装置の始動もままならなかった。
「がけ崩れ?」
「はい、電話回線も切断されたらしく不通です。衛星電話から連絡がありました」
「つまりこの別荘は孤立してしまったということ?」
「そういうことになりますね」
「じゃあ、自家発電は無理?」
「電機技師による通電試験を行わないと危険ですから……。無理です」
「しようがないなあ……」
 バッテリー供給による非常灯も次第に暗くなって、やがて真の闇夜がやってくる。
 この別荘は都会から遠く隔たれた森深い山間部の中にある。
 隣の別荘は何キロも離れていて遠く、周囲には街灯一つなし。例えあったとしても停電では同じことである。
 雷雨はさらに激しさを増し、嵐の様相を呈してきていた。
 テラス窓の前に佇んで、外の様子を伺っている相沢愛子。
「しかしこんな夜には幽霊がでてもおかしくないかもね」
 と、梓が呟くように応えた。
「出るわよ」
「え?」
 喉の奥底から搾り出すように声を出す梓。
「実は、この別荘が立つ前は……」
「いや! 聞きたくないわ」
 絵利香が耳を塞いだ。
「あはは、絵利香は、幽霊とかオカルトとかいった話しが苦手なのよね」
「百物語をしようよ」
 慎二が提案した。
 すると、
「うん。やろうやろう」
 と、賛同の声があがった。
 青くなる絵利香。
 メイドに人数分のローソクを用意させて、じぶんのテーブルの前に立てた。
 ローソクの揺れる炎に照らされて、各自の表情が不気味に変化する。
「それじゃあ、あたしからね」
 梓が一番乗りした。

↓ 1日1回、クリックして頂ければ励みになります(*^^)v




にほんブログ村 本ブログ 小説へ
にほんブログ村



11
梓の非日常/第二部 第五章・別荘にて(二)お邪魔虫再び
2021.05.30

続 梓の非日常/第五章・別荘にて


(二)お邪魔虫再び

 梓達が別荘に戻り、食堂に入ると慎二が先に食事を取っていた。
「遅かったじゃないか。先に食ってるぜ」
「おいこら。どうして貴様がここにいる。貴様がこっちに来るのは三日後。クラスメートと一緒のはずだろ」
「いいじゃんかよ。家からずっと自転車こいでやってきたんだから」
「じ、自転車だと?」
「ああ、さすがに疲れたよ」
「自慢のバイクはどうした?」
「ガス欠だ! 最近やたらガソリンが高いだろう。あのバイクはやたらガスを馬鹿食いするのでね。バイト代が追いつかなくて、乗るに乗れねえ状態だ」
「あんな図体のデカイのに乗ってるからだ。ガソリンを撒き散らしているようなもんじゃないか。50ccのバイクにしたらどうだ?」
「ふん! 武士は食わねど高楊枝だ。原チャリになんか乗れるもんか」
「それで、自転車かよ」
「足腰の鍛錬にはいいぜ」
「呆れた奴だ」
「それにしても、朝からフランス料理とは、さすがブルジョワ。さしずめ絵利香ちゃんところなら、会席料理でも出るのかな」
 絵利香の家は、戦国時代から綿々と続く旧豪族の家系であり、その広大な屋敷は国指定重要文化財にも指定されようかというほどの寝殿造りである。
 自分の名前が出たので答える絵利香。
「そうでもないわ。ごく普通だと思うわ。刺身・煮物・焼き魚、そして味噌汁ってところかな。基本的に一汁三菜よ」
「へえ、そうなんだ……。やけに庶民的だな。で、俺は基本的にカップラーメンだ。雲泥の差だな」
「カップラーメン? まさか毎日食べているんじゃないだろな」
「悪いか! 毎日だよ」
「病気になるわよ。塩分取りすぎで糖尿病とかね。最近は太っていなくても糖尿病という人が増えているらしいから」
「大丈夫だ、こいつが病気になるはずがないさ。逆に塩分足りないくらいだ。血の気が多いからな」
 さほどの心配もしていない様子の梓だった。
 会話の間も、ナイフとフォークを休みなく動かして、食事を口に運んでいる慎二。洋式の食事作法に慣れていないようで、その動きはぎこちない。
「それにしても、これだけじゃ。足りないな」
 目の前の料理を平らげて不満そうであった。
 彼にとっては、質より量ということである。
 フランス料理など腹の足しにもならないという感じであった。
「あたし達の後で、遅番のメイド達が食事するから、握り飯でも作ってもらえ」
「はん。ならいいや。それまで何するかな」
「おい、皿にソースが残ってるじゃないか」
「ソース?」
「フランス料理はソースが命なんだよ。シェフはソース作りからはじめる。ソースも残さず頂くのが、シェフへの心使いというものだ」
「ソースね……」
 というと、皿を持ち上げてぺろりと舌で舐めてきれいにした。
「あ、こら。なんて事をする。礼儀知らずだな。ソースは、こういう具合にパンに滲みこませて頂くんだよ」
 慎二に手本を見せてやる梓。
「判ったよ。こんどからそうすることにするよ」
「なんだよ。まだ、食事をたかるきかよ」
「悪いか。一人ぐらい増えたって、少しも家計に響かないだろ」
「響くね。おまえがいると食料貯蔵庫が空になる」
「よく言うよ」
 二人とも仲たがいしているような口の聞き方をしているが、反面的に相手の反応を見て楽しんでいると言った方が良いだろう。喧嘩するほど仲がいいというところ。
 食事を終えて立ち上がる梓。
「さてと……。いつまでもおまえに関わってもいられない」
「おい。どこ行くんだ」
「午前中は、書斎で勉強だよ」
「勉強? わざわざ軽井沢に来て勉強かよ」
「可愛いだけの馬鹿女にはなりたくないのでね」
「俺は勉強は嫌いだ。付き合ってられねえ。せっかく避暑地に来たってのによ」
「白井さんが、渓流釣りに出かけるから、釣り道具を借りて一緒にいけば?」
「渓流釣りか……それもいいかもね」


 それから数時間後。
 書斎で勉強をしている、梓と絵利香。窓の下には、白井と慎二が、釣り道具をRV車に積み込みながら、談笑している姿が見える。
 やがて二人が乗ったRV車は軽いエンジンを上げて、魚釣り場である渓流へと向かった。

 森を抜ける涼しい風が、二人のふくよかな髪をなびかせている。
「んーっ」
 梓が両手を広げて伸びをしている。
「ちょっと休憩しようよ」
「そうね」
 テラスに移動して、ガーデンテーブルに腰掛けて深緑を眺める二人。テーブルの上にはグラスに注がれたジュースが二つ。その傍らに立つメイドが一人。
「今頃慎二君、どうしてるかしら」
「おっちょこちょいだからね。川に落ちてずぶ濡れになってるかも」

 丁度同時刻。
 川に落ちて濡れ鼠の慎二がいた。
 河川敷きにはRV車が止まっている。
「だから、そこは滑るから気をつけてと言ったじゃないですか」
「いや、なんというか……足を誰かに引っ張られたような気が……」
「はは、河童でもでましたかな」
「出るの?」
「何が?」
「あのなあ、おっさん。おちょくるなよな」
「冗談はさておき、着替えたら?」
「いや。放っておいても乾くさ」
「一応忠告しておきますけど。お嬢さまは臭い奴はお嫌いですからね。ま、女性ならみなそうでしょうけど」
 あわてて服の匂いを、くんくんと嗅いでいる慎二。
「はは……やっぱ、臭いかな。といっても着替えは部屋に置いてきちゃったから」
「帰ったらすぐに着替えるんですね」
「そうしよう」
 言いながら釣りのポイントを探しながら移動する慎二。
 大きな岩が川面に張り出している所で、
「ここらあたりがいいかな……」
 と、釣り道具を岩場の上に降ろした。
「いい場所を確保しましたね」
「そうかな……。でも、代わってあげないよ」
 岩場が川の流れをかき乱し、釣り人の姿をも隠して気取られない。
 絶好の釣りポイントといえるだろう。
「いいですよ。私はあちらの岩場にしますよ」
 と、移動していく白井だった。
 それぞれに釣り場を確保して、早速釣りをはじめるかと思いきや……。
 餌がない!
 慎二は少しも慌てず、離れた場所の川べりの石や岩を引き剥がして何かを探している風だった。
 釣り餌となるカゲロウなどの水生昆虫を集めていたのである。
 魚の食いを良くするには、普段から食しているはずの身近な餌が一番なのである。
 ある程度餌が集まったところで、おもむろに岩場に戻って腰を降ろして釣りをはじめた。
 針先にカゲロウを取り付けて、竿を小刻みに動かしてポイントを動かしながらフライフィッシングを楽しむ。
「なるほど、慎二君は渓流釣りの経験があるようですね」
「おだてても何もでないぜ」
「そういうつもりはないですが……」
 それから二人は分かれて黙々と釣りをはじめた。
 静かな時間が過ぎてゆく。

 別荘に残った梓と絵利香。
 勉強を予定通りに済ませて、自室でくつろいでいる。
 絵利香は読書、梓はTVでビデオ鑑賞中である。
 外の方からRV車のエンジン音が響いてくる。
「慎二君が帰ってきたようね」
「出迎えてやるとするか」
 立ち上がって玄関先に向かう二人。
「どうだい、大漁だぜ」
 と、クーラーボックスを抱え挙げてみせる慎二。
「おまえにしては上出来じゃないか」
「あたぼうよ。おかずに塩焼きにでもして出してもらおうか」
 言いながら、メイドにクーラーボックスを手渡す慎二。
 くんくんと、慎二の身体を嗅いでいる梓。
「おまえ、川に落ちたろ」
「なんでわかるんだ」
「やっぱり落ちたんだ。きゃははは」
 慎二を指差し、高笑いする梓。
「もうじき食事だ。シャワー浴びて着替えろ。脱いだ服はメイドに渡せば洗濯してくれる。臭い奴は、きらいだ」
 と言って、ぷいと背中を見せて別荘の中に入っていく梓。
「あ、明美さん。慎二君に、部屋を用意してあげて」
「かしこまりました」

 昼食。
 何故か慎二の前の皿だけ山盛りになっている。
「象並みに食らう奴だから、特別に量を増やしてもらったんだ」
「それはどうも」
「……なんだかんだいっても、慎二君のことちゃんと考えてやってるのよね。梓ちゃん。最初の頃は問答無用で叩き出していたのに。部屋まで用意してあげて……」

↓ 1日1回、クリックして頂ければ励みになります(*^^)v




にほんブログ村 本ブログ 小説へ
にほんブログ村



11
梓の非日常/第二部 第五章・別荘にて(一)朝のひととき
2021.05.29

続 梓の非日常/第五章・別荘にて


(一)朝のひととき

 朝の光がカーテンごしに淡く差し込む寝室。
 ベッドの上で仲良くまどろむ梓と絵利香。
 専属メイドを従えた麗香が入って来る。ベッドの傍らに静かに立ち、二人の寝顔を見つめている。
「可愛い寝顔だこと。まるで天使みたい……ふふ、食べちゃいたいくらい」
 メイドの一人が軽く咳払いして注意をうながした。
「麗香さま」
「そ、そうね。じゃあ、みなさん。はじめてください」
 ベッドメイク係り、衣装係り、ルーム係りなどなど、それぞれの役目を負ったメイド達が配置につく。
 ルーム係りのメイドが、カーテンを開けて、朝の日差しを室内に導いた。
 まぶしい光に、うっすらと目を開ける二人。
「お嬢さまがた、朝でございますよ」
 そっとやさしい声で、目覚めをうながす麗香。
 ゆっくりとベッドの上で起き上がる二人。まだ眠いのか目をこすっている。
「んーっ。おはよう」
 両手を広げ、大きく伸びをしながらあいさつをする梓。
「おはようございます。お嬢さま」
 メイド達が一斉に明るい声で朝の挨拶をかわす。
「おはようございます。麗香さん」
「はい。おはようございます。絵利香さま」

 ドレッサーの前に腰掛けた梓の長い髪を、麗香がブラシで丁寧に解かしている。ニューヨーク時代に梓の面倒をみるようになっていらい、メイド主任を兼務して多くのメイドを従えるようになっても、梓の髪だけは誰にも触らせなかった。
 梓ほどの細くしなやかで長い髪となると、その日の気温や湿度、あるいは梓の体調によっても、微妙に梳き方を変える必要がある。梓の気分次第によって、三つ編みにするとか、前髪を軽くカールしたり、りぼんをあしらったり、ヘアスタイルを適時適切にアドバイスしてさし上げる配慮も忘れてはならない。梓の好みは、基本的にはストレートヘアではあるのだが。梓のほうも、女の命ともいうべき髪について、麗香に安心して任せていた。
 ショートヘアで気軽な絵利香の方は、すでに身支度を終えてバルコニーの方に出て朝の空気を吸っていた。
「今日は良いお天気で、とてもすがすがしい朝でございますよ。お食事の前に、お散歩でもなされるとよろしいでしょう」
「ん。そうする」


 朝露にしっとりと濡れる草花生い茂る小路。せせらぎの音に耳を澄ましながら、そぞろ歩く梓と絵利香。やがて小路は下り坂となって朝の冷気に霧立つ川辺に到達する。サンダルを片手に持ち、裸足で川面を岩伝いに渡る梓と、心配そうに見つめる絵利香。
「危ないよ、梓ちゃん」
「平気よ、こんな岩なんか」
 驚いた岩魚が飛び跳ねて水飛沫があがり、岩を飛び越えるたびに揺れる長い髪が、きらきらと朝の日差しを浴びて美しく輝いている。
「絵利香ちゃんもおいでよ。とってもおいしい湧き水があるんだよ」
 さわやかな笑顔を返しながら、渡り終えた梓が手招きする。
「でも……わたし、運動神経鈍いから」
「大丈夫よ。少し下流に丸木橋があるから。ほら、あそこ。見えるでしょ」
 と指差す方向に、両岸にしっかりと固定された丸木橋があった。
「もう、それを早く言ってよ」
 ゆっくりと丸木橋の方へ歩きだす絵利香。
 橋は日常的に清掃されているのか、上面の苔が丁寧に削ぎ落とされ、渡る人々の足元を確かなものとしていた。橋のたもとからは、別荘の方へと向かうもう一本のなだらかな小路が続いている。
 絵利香が橋を渡り終えたかと思うと、
「はい、通行料をいただきます」
 といって、右手を差し出す梓。
「なに?」
「だって、この橋はあたしの別荘で懸けているんだもん。湧き水のところまで行くためにね」
「あのねえ……」
「はは、冗談よ」
「そっかあ……、ということは、この辺一帯も梓ちゃんちの所有なのね」
「あたり。山や谷全体そっくりがあたしんち。きのこ取りや山菜摘み、渓流釣りにくる人達もいるけど、一応自由に取らせてあげてるんだ。独り占めはいけないもんね。そんなことより、早く湧き水のとこに行きましょ。傾斜のある小路を歩き続けて、喉がかわいちゃった」
「そうね。わたしもよ」
「こっちよ」
 絵利香の手を引いて歩きだす梓。木洩れ日が地面に影を落とす川辺を、手をつないで小走りに湧き水のところへと向かう二人。空を仰げば、朝日を受けた山々に上昇気流をとらえた鳶が、ゆっくりと旋回しながら谷間を滑空している。
「足元注意してね。滑りやすいから」
 苔に足を取られないようにしながら、茂みをかき分けていくと、眼前に大きな岩場が広がっている場所に出る。
「ここよ」
 と梓が指し示す場所、岩の隙間からちょろちょろと清水が湧き出ていた。
 梓が湧き水に両手を差し入れて飲みはじめた。
「ああ、生き返るわ。絵利香ちゃんも飲んでみなよ、おいしいよ」
 ポシェットから取り出したハンカチで口元を拭いながらすすめる。
「大丈夫?」
 自然の湧き水など飲んだことがないのであろう、絵利香はおそるおそる手を水に差し入れた。台所の蛇口を捻れば水が出る。そんな生活に慣れ親しみ、自然からの恵みを享受することを忘れた都会人には、無理かなる反応である。
「わあー。冷たいね」
「大丈夫よ、飲んでみて。定期的に水質検査もしているから」
 両手ですくうようにしてして湧き水を口に含む絵利香。そして喉元がこくりと動いて、冷たく清涼な水の刺激が喉を潤していく。
「おいしい!」
「でしょでしょ。消毒用の塩素はもちろん入ってないし、天然ミネラル豊富だからね」
「うん。コンビになんかで売ってる天然水とまるで違う。ほんとの本物なのね」
 といいながら口元をハンカチで拭っている。
「上水道が通じるまでは、飲み水はここから汲んで運びあげていたらしいよ。毎日、大変な作業だったでしょうね。今でも料理に使うために必要量は汲んでいるみたいだけど」
「ああ、それで橋が懸けてあったのね」

↓ 1日1回、クリックして頂ければ励みになります(*^^)v




にほんブログ村 本ブログ 小説へ
にほんブログ村



11
梓の非日常/第二部 第四章・峠バトルとセーターと(七)そんでね……
2021.05.27

続 梓の非日常・第四章・峠バトルとセーターと


(七)そんでね……

 真条寺邸に戻った梓を待っていたのは、書類の山だった。
 真条寺グループの傘下企業から提出されたさまざまな書類の中で、麗華が決済でき
る範囲のものは処理が済んでいたが、代表である梓にしか決済できない書類が残され
ていたのである。
「明朝までに決済おねがいします」
「あーん。こんなに残っているの?」
「授業が終わった頃合をはかって、決済の事がありますから、お早めにご帰宅くださ
いと申しあげたはずです。なぜご帰宅が遅れたかは、あえて問いませんが、お嬢さま
は真条寺グループの代表としての仕事も多々あることを、お忘れにならないでくださ
い」
「麗華さんがやってくれればいいのに……」
「これはお嬢さまのお仕事です」
 うんざりといった表情の梓。
 麗華も手伝いたい気持ちもあるのだが、あえて冷たく突き放すことで、お嬢さま気
分の抜けない梓を、社会人としての自覚を持たせようとしていたのである。
「それでは、明朝取りに参りますのでよろしくお願いいたします」
 うやうやしく礼をして、静かに退室する麗華だった。
 積まれた書類を前にしてため息をつく梓。
「明日にしようっと……今日はいろいろあって疲れてるし……」
 大きな欠伸をもらし、パジャマを取り出して着替え、そのままベッドに入る。 
 すぐに軽い寝息を立てて眠りに入る。
 が、しかし……。
 突然、目をぱちりと見開いたかと思うと、ベッドを抜け出して書類の山に向かった。
「だめじゃない、梓。こういうことは、できる時にちゃんとやっておかないと。麗華
さんが明朝に取りにくるんだから……」
 と呟くと、黙々と書類の山をかたずけていった。

 翌朝。
 目覚める梓。
「うーん。なんか……寝不足みたい。ちゃんと眠ったのに……」
 パジャマのまま、昨夜の書類に取り掛かろうとするが、
「あれ? 書類がない!」
 机の上に置いたままにしていたものが無くなっていた。
「ねえ、ここにあった書類、知らない?」
 朝のルームメイク担当になっていた美智子に尋ねる。
「麗華さまが持っていかれましたよ」
「え? まだ決済してないのに」
「いいえ。ちゃんとお嬢さまのサインがなされていましたよ。わたしも見ましたから
間違いありません」
「ほんとう?」
「はい」
「おかしいなあ……」
 首を捻って合点がいかない様子の梓だった。
 いつの間にサインしたのかしら……。
「ま、いいか。手間がはぶけたというものよ」
 あまり考え込んでも詮無いこと。

 やがて麗華がやってくる。
「お嬢さま、おはようございます」
「うん。おはよう。ところで書類のことだけど……」
「はい。すべて滞りなく決済が済みました。記入ミスとかもありませんでした」
「あ、そう……」
 毎朝の日課となっている、麗華の手による梓の髪梳きの時間である。
 これだけは誰にも任せられない、梓と麗華の強い結びつきを確認する儀式みたいに
なっていた。
「慎二さまとのことは、仲良くなされていますか?」
 手際よく髪を梳きながら、やさしく語りかける麗華。
「な、何を急に?」
「ええ、渚さまがたいそう気になさっておられましたから」
「それって、お婿さんに迎える話?」
 以前に誕生日にブロンクスに帰ったときに、俊介との間に起こった決闘で、慎二の
自動的婚約者となったことを思い出した。
「その通りです」
「何だかなあ……」
 確かに命預けます! な、関係があるとはいえ、さすがに結婚までは考えにくい。
「でも、セーター編んであげてましたよね」
「それよ、それ。ほんとにあたしが編んだのかな……」
「お嬢さまが編んでらっしゃるところを見てますよ」
「そうか……」
 そんな梓の表情を見るにつけて、麗華は絵利香の言葉を思い出した。
 確かに、お嬢さまは変わられたようだ。
 あの研究所火災事件を契機として。
 そう、まるで二重人格だと。

第四章 了

↓ 1日1回、クリックして頂ければ励みになります(*^^)v




にほんブログ村 本ブログ 小説へ
にほんブログ村



11
梓の非日常/第二部 第四章・峠バトルとセーターと(六)命預けます
2021.05.26

続 梓の非日常・第四章・峠バトルとセーターと


(六)命預けます

 ゴールが近づいていた。
 すでに視界から、前を行くリーダーの姿は見えない。
 明らかに負けがはっきりしてきた。
「なあ、梓ちゃん」
「なに?」
「この俺に命を預けてくれないか?」
「え?」
「このままじゃ、奴らには勝てない。だから、空を翔ぶ!」
「空を翔ぶ?」
「ああ……。だから俺を信じて欲しい」
 慎二の言わんとしている事をすぐに理解する梓だった。
「判ったよ。死ぬときは一緒だろ? 好きにしていいよ」
「サンキュー」
 ハンドルを握る慎二の手に力が込められるのが判った。
 切り立った崖、はるか眼下に下りのラインが見えている。
 ガードレールの途切れた箇所で、慎二は思い切りハンドルを切った。
「いっけー!」
 掛け声と共に、慎二と梓を乗せた自動二輪が、正丸の空に翔んだ。

 それに驚いたのは後続の立会人達だった。
「空を翔んだ!」
「あいつは、『手芸のえっちゃん』だったのかあ!」
「インベタのさらにイン……どころじゃないな。あれが掟破りの地元走りか?」
「よおし、こっちも行く……」
 パンダトレノを運転する梶原拓海がアクセルを踏み込む。
 そして、崖っぷちから空へと飛翔する。
 それをバックミラーで見ていたレビンの冬山渉が驚愕する。
「ば、馬鹿な二人とも自殺する気か!」
 冷静さを取り戻して、先を行くリーダーのバイクの追従に専念する渉だった。
「付き合ってられないぜ」

 空中に飛び出した慎二と梓。
 急降下する加速度に、梓の意識が遠のいていく。
 その時だった。
 意識のどこかで声が聞こえてきたのだ。
「だめよ、意識をしっかり持って! 慎二君を信じるのよ。お願い、気を確かに持って!」
 はっ! と意識を取り戻す梓。
 目の前に着地点が迫っていた。
 着地の衝撃で振り飛ばされないように、しっかりと慎二にしがみ付く梓。
 道路に直接着地するのではなく、道路脇の斜面にラウンディングを試みる慎二だった。スキーのジャンプのように斜面に着地することで、落下のエネルギーを吸収・分散させることができる。慎二の野生の感が、とっさの好判断を促した。
 すさまじい土ぼこりを舞い上げながら、減速をしながら斜面を駆け下りる慎二。そして再び峠道に舞い戻ったのである。
 続いて梶原拓海も無事に付いてきた。
「見たか、梓ちゃん。さすが『秋名のハチロク』と呼ばれるだけあるな。あいつのドラテクは神業だぜ」

 やがて、後方からリーダーの乗る自動二輪が迫ってくる。
「追いついてきたわ」
「ゴールは目の前だ! よっしゃー。飛ばすぜ!」
 スロットル全開、重低音を響かせて加速する。
 迫り来るリーダー。
 ゴールが近づく。
 先にゴールを切るか、追い抜かれるか微妙な差であった。
 両側の道沿いに立ち並ぶ観衆達、梓連合と暴走族がどうなることかと息を呑んでいる姿が目に入る。
 リーダーペアに脇に並ばれた。

 そして、そのままゴール!

 勝負はついた。
 どっちが先か?
 しかし誰も即座に答えられなかった。
 ほとんど同時に並んでゴールしたとしか見えなかった。
 続いて立会人の二者も到達する。

 道路脇に停車させる慎二。
 そのすぐ後ろにリーダーも停車させ、自動二輪を降りてヘルメットを脱いで近づいてきた。
「あたし達の負けだよ」
「同時じゃない?」
 ヘルメットを脱ぎながら答える梓。
「いや、シロートのお前らに先行を許し、追い越せなかったんだ。はっきりこっちの負けだよ」
「そうか……立会人はどう見る?」
「引き分けでいいんじゃないですか?」
 パンダトレノの窓から顔を出して梶原拓海が答える。
「そうだな」
 とは、レビンの冬山渉。

 リーダーは、空を仰ぎながら感心したように言う。
「しかし、空を翔ぶとはな、ぶったまげたよ。あんな肝っ玉の据わった奴がいるとは思わなかったよ。さすがに鬼の沢渡、噂通りの男だ」
「そりゃどおも」
「あなたもあなたね。命預けてたね、こいつに……」
「まあね」
「ここにいる奴らはみんな、国道299号線沿線にある各女子高で番を張っているんだ。それらを軽くあしらい、そして今そのリーダーであるあたしを負かしたんだ。東上線沿線を支配している青竜会と、新宿線沿線の黒姫会共々、あなたの傘下に入ることにする」
 え?
 耳を疑う梓だった。
「おまえらもいいな!」
 振り向いて部下達を一喝するリーダー。
「おお!」
 賛同の声が返ってくる。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「あたしらは、あなたの度胸っぷりに感激したよ。新しいリーダーにふさわしい人物だ。これからもよろしく頼む」
 と頭を下げた。
「もう……」
 先の二人のスケ番共々、いくら言っても無駄であろう。
「慎二、帰るわよ」
「判った」

 こうして新たに梓の傘下に加わった正丸レディースに見送られて帰路につく梓だった。

 それにしても……。
 あの時に聞こえてきた声はなんだったのだろうか……。

↓ 1日1回、クリックして頂ければ励みになります(*^^)v




にほんブログ村 本ブログ 小説へ
にほんブログ村



11

- CafeLog -