梓の非日常/第七章・正しい預金の降ろしかた
(四)ワサビはほどほどに  食卓に並んだひと皿の品を差して訊ねる梓。 「これ、なんですか?」 「それは、お刺し身ですよ」 「お刺し……?」 「海の魚を生きたまま切り身にしたものです。おいしいですよ」 「生きたままですか?」 「そうよ。切り身にしても、なおも身がぴくぴく動いているのよ。これは時間が少し たってるからもう動かないけど」 「食べられるの?」 「もちろんですよ。こうやって、刺し身にワサビを少しのせて、取皿の醤油につけて 食べる」 「ふうん……」  お手本通りにやって刺し身を口の中に放りこむ梓。  次の瞬間言葉を失い、鼻筋を押さえて襲いくる刺激に耐えている梓。 「あはは、梓ちゃん。ワサビのつけ過ぎよ」  目に涙をためて、何とか刺激を耐えぬいて、 「な、なにこれ……」 「ワサビはね、つけ過ぎると今のようになっちゃうのよ。梓ちゃんなら、だいたいこ れくらいが丁度いいかな」 「もっとはやく言ってよ。もう……涙が出ちゃったじゃない」 「ごめん、ごめん。でもね、お刺し身好きな人なら、その刺激がたまらないってたっ ぷりつけるのよ。それが、通なんですって」 「こ、これくらいね」  今度はワサビをほんの少しだけつけて、あらためて食べなおす梓。 「おいしい!」 「でしょ」 「うん」 「ほんと、あの時の梓ちゃんの表情ったら、可笑しすぎてお腹が痛かった」  ぷっと思い出し笑いする絵利香。 「笑わないでよ」 「でもさあ、握り寿司ではトロより赤身が好きなんて変わってる。普通の人だったら、 口の中でとろける感じがたまらないってトロを選ぶんだけど」 「そうかなあ……あたしにはとろけるというよりも、ねちゃねちゃしてて気持ち悪い よ」 「それは噛みくだそうとするからですよ。握り寿司のトロは数回噛んだら飲み込む感 じかな」 「日本人ってさ、良く噛まずに飲み込む感じの、いわゆる喉ごしっていうのかな、そ んな食文化が多いみたいねえ。ところてんとか、白魚の踊り食いとか、おそばだって 通は噛まずに飲み込むっていうじゃない」 「うーん……やっぱり肉料理文化と魚料理文化の違いかしらね。日本人は牛肉も霜降 りとかいって脂肪が多くて柔らかいのを好むし、あたしその値段聞いてびっくりした わよ。あたしんちでアメリカの契約酪農家から取り寄せている極上のロースよりも、 さらに倍以上高いんだから」 「牛肉に関しては、霜降りでなくても日本のお肉はべらぼうに高いのよ」 「さあさあ。お話しばかりしていないで、召し上がってくださいな」  絵利香の母親が食事が冷めないようにと、気配りして話しを中断させた。 「あ、ごめんなさい。おばさま」  食事が済み、居間の方へ移動して、談笑する一同。 「それでね、怪我しちゃったの」 「ははは。元気でよろしいじゃないですか」 「よくないわよ! そばで見てるだけのわたしは、いつも気が休まらないんだから ね」  玄関車寄せ。  ファントムVIが停車し、麗香が後部座席のドアを開けて待機している。 「今日は、ひさしぶりにおじさまと色々とお話しができて楽しかったです」 「まあ、私とはたまにしか会えないとは思いますけど、いつでも気楽に遊びにおいで 下さい」 「はい。そうさせていただきます」  後部座席に腰を降ろしながら、 「それじゃ、絵利香ちゃん。また明日、いつもの時間にね」 「うん」  麗香がドアを閉め、やがてゆっくりとファントムVIは発進した。  その後ろ姿をしばらく見つめていると、 「お嬢さま、先生がお見えになられました」  メイドが知らせにきた。 「わかりました」  本殿と長屋の間に位置する中庭の片隅に修練場がある。本来は長屋に住まう武士達 が日頃の鍛練をする場所だったのだが、武家から商家と身分を変えた篠崎家にとって は、武闘から護身へ、剣道から合気道の修練場となっている。  袴道着を着込んだ絵利香と女性師範代が、相対峙して正座している。 「今日からは実情に即した稽古をはじめましょう」 「はい」  静かに立ち上がる両者。 「まずはお嬢さまが経験されたという、後ろから羽交い締めされた時の対処法からで すね」 「では相手からなされた通りに組んでください」 「はい」  師範の背後から、竜子にされたように羽交い締めにする絵利香。  だが次の瞬間には、投げ飛ばされ師範の足元に崩れてしまった。
     
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