真夜中の出来事/似顔絵


 似顔絵  あれは確か三年前の蒸し暑い夜のことだったと思う。  私がプロを目指して本格的に漫画を描き始めた頃だ。その頃の私は、とある古びたア パートに一人で住んでいたが、その道において気楽に語り合える友人はいなかった。強い てあげるならば、これから話そうとする彼であるが……。  ある夜。私が漫画を描いていると、トントンとドアをノックする者がいる。誰だろうと 思ってドアを開けると、のそりと入ってきたのが彼だった。こんな真夜中にいったい…… と不審に思って彼を見ると、顔は蒼白で活気がなく、立っている姿勢も何とも頼りのない 感じであった。するとか細い声で似顔絵を描いてくれと頼むのだ。真夜中にひょっこりと 訪れて似顔絵を描いてくれとは、他人迷惑をまったく考えない非常識ではないかと抗議し てみたが、彼は一向に弁解をせずにただ力無げに似顔絵を描いてくれと繰り返すばかりだ った。その虚ろな瞳を見ていると、彼がひどく可哀相に思えて、仕方なく似顔絵を描いて やることにしたのだ。  彼は、普段から無口な男で、私同様にプロの漫画家を目指していたのであるが、彼のポ ケットの中はいつも空っぽで、私の所へ金を借りにくることがしばしばあった。ところが 一円として返してくれたことはなかった。まあ、こちらとしても返してくれることを当て にしてはいなかったし、くれてやるつもりで貸していたのだが……。彼の頭の中は、漫画 を描くというよりも、他人からいくら金を借りられるかで一杯だったような気がする。一 人目から借りた金を返すために、二人目から借りて返し、三人目からまた借りては二人目 に返し、四人目から……という具合に自転車操業で借金を繰り返していたが、やがて破綻 を迎えることになる。借金が膨大な金額に膨らんで、もはや返すことも借りることもでき なくなってしまったのだ。彼の友人たちは一人去り二人去りして、家族からも見放されて いた彼は、完全なる天涯孤独となってしまったのである。家賃滞納でアパートも追い出さ れ、橋の下にダンボールを敷いて寝泊りする路上生活者となっていた。  路上生活者とて飯を食わねばならぬ。借金の最後の拠り所として、私の元を訪れる彼だ った。この私が突っぱねたら最後……と思うと断りきれなかった私だった。一日百円あっ たら何とか生きていけると言っていた。月にして三千円である。それくらいなら、私にも 何とか工面できた。  そんな彼が、金の無心ではなしにただ似顔絵を描いてくれと、しかもこんな真夜中に訪 れたのだから、私は不思議でならなかった。その夜の彼は、私が似顔絵を描いている間中、 一言も喋らなかった。いくら無口とは言っても、こうも不気味なくらいに黙り込まれてい ると、どうも描きづらい。その上に、似顔絵を描く都合上、彼の顔をくまなく見つめては 色紙に筆を走らせるのであるが、この時ほど彼の表情を痛々しく思ったことはない。とも すると筆さえも間違えかねなかった  やがて似顔絵が完成して、その出来栄えに我ながら感心し、彼にも見せようとすると、 今まで前に座っていたはずの彼が忽然と消えてしまっていて、椅子の上に白い封筒が置か れているだけだった。  消えてしまった?  目をこらえ、辺りを見回しても、彼の姿はなかった。  まさしく忽然と消えたのである。  椅子の上に置かれた白い封筒を取り、中を確認してみると幾ばくかの紙幣が入っていた。  おそらく私が彼に貸した全額かと思えるものだった。  律儀にも返しにきたというわけである。  路上生活者の彼がどうやってそんな大金を工面したかは判らない。  就職口が見つかったとは聞いていないし、宝くじでも当たったのか。  ともかく諦めていた金が戻ったことで、いわば臨時収入ができたというわけである。  封筒の中には別の紙切れが入っていた。  それには、今まで借りっぱなしであったことへの詫びと、もう二度と会えないだろうと いうことが記されていた。  それが何を意味するかを知ったのは、翌日のニュース報道であった。  橋の下で路上生活者が行き倒れ!  もしやと思って、その報道機関に連絡を取って警察に身元確認に行ったところ、まぎれ もなく彼の変わり果てた姿だった。  死因は、栄養失調と肺炎による衰弱死だった。  死亡時期は三日前と見られており、草むらの影に隠れて発見が遅れたらしい。  それが正しいとすると、昨夜自分のアパートを訪れた彼はいったい?  幽霊か?  そうとは知らずに、私は死んでいるはずの彼の似顔絵を描いていたことになる。  幽霊になってまで、彼が似顔絵を描いてくれと頼んできたのはなぜだろうか?  彼の面影を残す写真の類は一つもなかった。  推測として、友として自分の姿を思い残して欲しくて、似顔絵を描いてもらおうとした のではないだろうか?  彼が死んだ今、それを確認する手立てはない。  あれから三年。  今こうして机の前にある彼の似顔絵を見るにつけ、なぜもっと親身になってやれなかっ たのだろうかと反省する。  自分のアパートに共に住まわせることはできなかったのか?  私が彼の立場であったならば……。  しみじみとそう思うのであった。
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