梓の非日常/第五章・音楽教師走る
(二)家庭訪問  真条寺邸。  学校の講堂くらいはありそうな広い応接室に待たされている幸田教諭。 「はあ、下条先生から聞いてはいたけど、これほどとは」  天井から垂れ下がったシャンデリア。バロック・ロココ様式で統一された調度品の 数々。ウォールナット材金華山布張りの応接セットに腰を降ろし、メイドが出した茶 をすすっている幸田教諭。 「この応接セットだけでも三百万円はしそうね……でもここの人達にとっては金額な んか無意味なんでしょうねえ。しかも掃除も行き届いているし、塵一つないように毎 日丁寧に拭き上げられているみたいね。これだけ広い屋敷だもの、すべての調度品を きれいにするには、やっぱり数十人のメイドが必要だわ」  思わず口に出してしまう。そばに控えているメイドに聞こえていると思うのだが、 彼女は無表情のままで、感情を現さない躾が行き届いているようだ。  応接室の重厚な扉が開いて麗香が入室してきた。 「お待たせ致しました。梓お嬢さまの世話役を仰せ付かっております、竜崎麗香と申 します。お嬢さまの日本での教育と日常生活のすべてを、母上の渚さまに代わり取り 仕切っております」  ……この人が、二十歳の若さでコロンビア大学の博士課程を終了したという才媛の ……学年首席と次席の学力を持つ篠崎さんと真条寺さんを育てたのもこの人というこ となのね……。  立ち上がり挨拶を交わす幸田浩子。 「学校の授業では音楽を担当しております。幸田浩子と申します」 「珍しいですわね。音楽の先生が家庭訪問とは。先日も担任の先生がお見えになられ たばかりだというのに。日本の教育者ってまめなんですね。私、アメリカですべての 教育を受けましたので、日本の事情が解りません」  そう言って、応接セットを指し示しながら幸田に腰掛けるように促す目の前にいる 二十三歳の麗香、飛び級制度のない日本でならまだ大学院の学生のはずである。しか も使用人の一人であるはずなのに、周囲の雰囲気によく解け合って、まるで屋敷の主 人であるかのような風格と気品を兼ね備えていた。 「いえ、そういうわけではないのですが……」  恐縮しながら再び腰を降ろす幸田教諭。 「さて、ご用件をお伺いいたしましょうか」 「単刀直入に申しますと、梓さんがやっておられる空手ですか、いつか怪我をされる んじゃないかと心配で、できればやめていただきたいと思っております」 「確かにお嬢さまにはふさわしくないとは、わたしも思ってはいるのですが。音楽教 師のあなたさまと、どういう関係がありますの?」 「実は、梓さんにピアノ奏者として音楽部に入っていただこうと考えています。あれ だけのピアノを弾ける技術をお持ちなのに、それを活かすことなく、あまつさえその 奇麗な指先を壊してしまうような空手をやっておられるなんて。音楽教師として見過 ごすわけには参りません」 「なるほど、そうでしたか。お嬢さまは九歳にしてニューヨークのセント・ジョン教 会の正式なオルガニストとして認められるほど、抜群の音感性をお持ちになっておら れますからね」 「九歳で教会のオルガニスト? だったらなおさらじゃないですか。何とかなりませ んか」 「私とて、ただの使用人ですから。お嬢さまがお決めになられたことやその意志に反 することはできません。また母上の渚さまもお嬢さまの意志は尊重するお方ですし ね」 「やはりだめですか」  がっくりとして肩を落とす幸田教諭。
     
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